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「やあ、酷い顔だね」
「……」
「中に入れてくれるかい?」
戸を引いてラウルスを中に入れる。適当に居間まで案内をして、水を出してやった。
「客に水を出す人を初めて見た…」
「文句を言うのなら飲むな」
ああ、数時間前には絶世の美女が目の前に座ってチョコレート入りのミルクをふうふうしながら飲んでいたのに、今、目の前に居るのは、水を飲もうか飲まないか本気で悩んでいて苦渋の表情を見せるラウルスだ。非常に残念に思う。フロース様とラウルスとの扱いに差があるのは、きっと気のせいだろう。暖炉に火も入っていないが、ラウルスの頬は赤くなっていないし、寒がらないので大丈夫だ。
「それで何の用事だ?」
「フロースの事だよ」
「……」
ラウルスとフロース様の付き合いは十年以上になる。本当の家族のように思っているという話は前に聞いた事があった。今回の件で文句を言いたいのだろうか?全く仕事の速い奴だ。
「君は何故フロースを受け入れなかった?」
「何故って住む世界が違うだろうが」
「そんなことはない。一緒の空気を吸って、楽しい時間を過ごして来たのだろう?」
フロース様と過ごす日々は掛け替えの無い、素晴らしいものだった。綺麗な女性は王宮に沢山出入りしていたが、彼女はその中でも自分にとって特別な存在だったと思う。
ラウルスの言う通り楽しい時間を過ごして来た。だが、仮にフロース様が差し出してくれた手を取っても、その楽しい時間はすぐに消え去ってしまう事が分かっていたのだ。
「――感情の赴くままに行動すれば、それは楽しいかもしれない」
「だったら何故フロースの気持ちに応えなかったのか!?」
「勢いに任せて手に入れた幸せは長続きしないからだよ」
「どういう、意味だ…?」
そりゃ美人に迫られて嬉しかったさ。一ヶ月前の夜会のあった日は、危なくあの場で好き勝手しそうになったし、さっきもわざわざ来てくれたフロース様に向かって好きだと言って抱きしめたかった。でも、そうやって感情の赴くままに行動を起こしても、意味が無い事は分かっている。
互いに想い合っていて、一緒に居るだけ満たされた気分になり、ヤルことヤって気持ちよくなって、毎日が薔薇色で、素敵な時間を過ごせただろう。
でも、そんな日々は長続きしない。何故ならば、俺とフロース様とでは天と地ほど、価値観の相違があるからだ。
もしも欲望のままに付き合ったとする。しかし、その果てにあるのは相手に対する壁や溝で、その時になって傷つくのはフロース様だ。何故このような男を好きになってしまったのだと後悔もするだろう。
「――フロース様は食事の前に祈りを捧げるんだ」
「え?」
「多分、食材に祝福とか感謝をする祈りなんだろうが、俺はそういうものをするように躾けられていない」
「それがどうしたのか?」
「その時点からフロース様との間には生活習慣のズレが生じている」
「それは…」
はじめはそんな些細な生活習慣の違いも気にならないのかもしれない。恋とは常識や理性をも失わせてしまうものだ。しかし時間も経てば冷静になり、相手のとるにたらない一つ一つの行動が気になって来る。それは食事の摂り方だったり、お金の使い方だったり、ちょっとした仕草だったり。そういったものは、生まれ育って身についているものなので、正そうと思ってもなかなか難しい。
無理をして相手の思うように合わせてしまうと心の負担が増えていき、気を使いながら長い時間を過ごすということは精神的な不安となって、最終的には関係の亀裂が生じる。
貴族と平民。育ってきた環境は全然違う。一緒に出かけてその場の礼儀を知らず、フロース様に恥ずかしい思いをさせるかもしれないと思うと、恐ろしくて堪らなかった。
それにフロース様は優しいから、なんだかんだ言ってこちらの粗相を許してくれるだろう。しかし周囲は許さない。何故あのような者と深い付き合いをしているのかとフロース様自身の品格を疑われてしまう。
フロース様にそんなものを背負わせたくない。気高く美しい彼女の隣には、公爵家と同じ位の環境で育ち、フロース様を守る力がある男こそ相応しいと思っている。これは本当の気持ちだ。
「俺にはフロース様が欲しいと思う宝石や服の一つも買ってあげることも出来ないだろう。食事だってそうだ。街にある大衆向けの食堂しか知らないし、高級な料理店に行っても礼儀を知らないから恥をかくことになる」
「そんなこと…」
「好きな女の欲しがるものは買ってやりたいし、喜ぶ場所にだって連れて行ってあげたい。でも俺の給料ではフロース様が欲しいと思う品を贈ればたちまち破産をしてしまう。それに出かける先だって馬と一緒に行く草原や、綺麗な森や川しか知らない。たまに連れて行くのなら物珍しさで喜ぶだろうが、毎回行きたがる女性は少ないだろう」
「フロースは、君と一緒ならどこでも喜んで行くと…」
「ラウルス、お前はランドマルク領に居る時にフロース様とどこに出かけた?」
「……」
ラウルスとは十年間文通をしていた。その内容はほとんどが妹への気持ち悪い愛を綴ったものであったが、たまにフロース様やアルゲオ様についても書かれている事があった。
その中でよく【今日もフロースに宝石を強請られてしまった】と書かれていた事を思い出す。言葉に詰まっているラウルスを見ても分かるように、フロース様は宝石や洋服を買うのが好きな普通の貴族女性だ。彼女らは着飾って将来の伴侶を見つけ出さなければならないので、身を飾る品々を欲することはあたりまえの事だ。何もおかしく感じる所では無い。
「もうこれ以上は言わせないでくれ。惨めな気分になる」
「イグニス…本当に、フロースには君しか居ないんだ」
「ラウルス、知っているか? 空に輝く星は地に落ちるとただの石ころになってしまうんだよ」
「…何が言いたい?」
「星は空の上にあるから輝くんだ。フロース様も公爵家の令嬢であるからこそ、輝いている」
「……」
「俺の様な地を這って生きるような者に近づいては、その眩いばかりの輝きを失ってしまうんだよ」
「どうして、そんな卑下をする? 君は立派な騎士だ。私が一番知っている」
「……」
狼の群れの中に一匹だけよく似た犬が紛れ込んでいてもぱっと見ただけではばれないだろう。しかし近づけば違う生き物だと言う事が分かってしまう。
同じように貴族の騎士の中に紛れ込んだ平民の騎士は、多くの中に紛れ込めば分からないかもしれないが、近づけば違う生き物だという事がばれてしまうのだ。
そうなってからフロース様に嫌われるのが怖いとも思っていた。とんだヘタレ野郎だということも自覚している。
そんな恥ずかしい感情を隠すかのように、ラウルスに向かって屁理屈を重ねた。
「フロース様は籠の中で大切にされ過ぎて、外の世界を知らないだけだ。社交界には立派な人が沢山居る。その中に運命の人だって居るかもしれない」
「違う!!」
「違わない。…お前は単純に知らない男にフロース様が取られるのが嫌なだけなんだろう?」
「それも違う!!」
「……」
相変わらず頑固な奴だ。言い出したらこちらの意見を聞こうとしない。ラウルスの悪い癖だ。
「……この事は墓場まで持って行って、誰にも話さないつもりだったが」
「?」
「君にだけ特別に話そう」
「何だ? 重要なことなら止めてくれ。負担になる」
「いや、聞いてくれ」
「……」
「フロースは幼少時代に暴漢に襲われそうになって、その日以来男性恐怖症になっていたんだ」
「……やっぱり、そうだったのか」
「気づいていたのか?」
「何となくだったが…」
フロース様が男性恐怖症かもしれないと思った場面はすぐに思いついた。イーオンと初めて会い、いきなり手を握られた時に硬直して動けなくなっていたり、ヤリナタリアでの夜会の時に親しくない男に突然距離を詰められ、顔が強張っていたりなど。その場では気のせいかと思いつつも、記憶の中でずっと引っかかっていたのだ。
「アルゲオもフェーミナ殿も、フロースの結婚は諦めていた。彼女が男性を愛することなど無いと思っていた」
「……」
「けど、フロースは君を愛した。それは奇跡だと思ったよ」
「ああ。フロース様は男を愛する事が出来る、今回の件で分かっただろう? だから次を探せばいい」
「……イグニス、本気で言っているのか?」
「本気で言っている」
「君は、フロースとは結婚する気は無いと」
「そうだ。俺は…この家に一緒に住んでくれる、自分の力だけで幸せに出来る女性と一緒になる。その相手はフロース様では無い」
「……」
「ーー帰れ。俺は今夜も仕事なんだ」
「…そうか、君の気持ちは、分かった」
「……」
ラウルスは机の上に放置されていた水を一気に呷り、タン、と音を立てて置き、立ち上がった。
「ーーフロースは私が幸せにする」
「は?」
この変人は突然何を言い出すのか。見上げたラウルスの空色の瞳には憤りが宿っているようにも見える。奴が怒りの感情を露わにするのは珍しい。ラウルス・ランドマルクという人間は何事も、のらりくらりと掴みどころの無い様子で受け流してしまうような楽天家だ。一体どうしてしまったのか。
しかしフロース様を幸せにするというのはどういう意味なのか。奴の思考回路は表情だけでは読み取れなかった。
「フロースとの素晴らしい日常を毎日手紙に綴って送ってやる!! それは君にとって不幸の手紙となるだろう!!」
「…何を、言っているんだ?」
「イグニス、君とはもう話す事も無い」
「ああ、気が合うな。俺もだよ」
「ごきげんようだ!!」
「……」
御前武道会でフロース様が言っていた「ごきげんよう」をラウルスは気に入ったのか、あの日から何回か使っているのを聞いた。が、そんな風に力強く発する言葉では無いという事を誰か教えてやって欲しいと切実に思った。
見送りもしないまま、ラウルスが出て行くのを待っていると、玄関から「ぬん!」という謎の悲鳴と物音が聞こえた。
玄関に行けば頭と爪先を押さえるラウルスの姿があった。
「なあ、ぬん!って悲鳴初めて聞いたぞ」
「う、うるさい」
「もしかして戸を押したのか?」
「……」
「それは中に引いて開ける扉だ」
「そうだったのか」
「頭打ったんだろ? 大丈夫か」
「……ちょっとドジをしただけだ。頭は大丈夫だ」
「……」
扉を開いてやるとラウルスは申し訳無さそうに家から出て行き、外に停めてあった小型の馬車に乗り込んで帰って行く。
辺りはすっかり暗くなり、雲一つ無い空には星が煌いていた。
寒くなると星が綺麗に見えると教えてくれたのは誰だったか。
思い出せないまま、夜空の星から目を逸らした。