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不機嫌な姫君に捧げる薔薇の花  作者: 江本マシメサ
第三章【星から目を逸らした騎士】
29/60

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 昨日は結局走って家まで帰った。城の厩舎に預けているラウルスの事も気がかりだったが、騎士隊の規則として酒が入っている時は馬を連れ回してはいけないというものがあるので、どちらにせよ置いて帰らなければならなかったのだ。


 翌日、馬を迎えに行こうと着替えて馬小屋に行けば、ラウルスとフロイラインが「何か?」という顔でこちらを見ている。

 そうだった。昨日は御前武道会で、移動は全部馬車だったのだ。昨日に引き続き、まだ頭の中が混乱をしているようで、馬小屋の掃除をしながら正気に戻れと念を送る。掃除が終わるとそのまま遠乗りに出かけ、帰ってくると馬を置いて餌と藁を買いに行く。

 いつものように荷車を引いて市場まで行き、山盛りの荷物を積んで帰宅をすると、大きな馬車が我が城の前に止まっていた。

 何事だろうか。よくよく確認すれば馬車の外には花と王冠を象った紋章が刺繍された綴れ織が掛けられている。あれは確かユースティティア公爵家の家紋ではなかったかと記憶を掘り起こす。


 フロース様が来ているのか?

 荷車を引きつつ馬車へ近づく。すると扉が開き、中から出てきたのは見知らぬ兄ちゃんだった。


「おかえりなさいませ、イグニス様」

「は、はあ…どうも」


 何故、見ず知らずの男にお帰りなさいと笑顔で迎えられなければならないのか。しかも向こうは上等な服に袖を通した男前な紳士で、こちらはよれよれの服を着て、人力で荷車を引いている無精髭の怪しい住所不定、無職的な格好をした不審者風の格好だ。


 …ああ、そうだ、先ほどから体に何か違和感があると思ったら顔を洗っていないし、髭も剃っていないのだ。汚い面を晒して市場に出かけていたのかと気が付いて、若干落ち込む。


「突然の訪問をお許し下さい」

「…こんな大きな馬車、往来の邪魔になるぞ」

「申し訳ありません」


 …すまん、男前な兄ちゃん。完全な八つ当たりだ。でも本当に近隣住民の邪魔になりかねないので、用事が済んだら速やかに移動をして欲しいものである。


「公爵様とお嬢様からお手紙を預かっていまして」

「手紙?」

「はい。中身を今すぐ見ていただいて、返事を頂きたいのですが」

「そっすか」


 最初にレグルス様の封書に手を掛けようとすると、兄ちゃんに止められた。返事がすぐに知りたいのはフロース様の手紙らしい。

 丁寧に封をされたものを開き、中身を寒空の下で読み始めた。内容は至って普通の礼状で、昨日部屋に連れ込まれた時の事は一切書かれていない。そして驚いた事に家に食事に来てくれとも書かれていた。しかも指定された日付は本日のお昼から。フロース様はよほど昨日の出来事について文句を言いたいのか。それにしても急過ぎる。


「読まれましたね」

「…はい」

「それでは二時間後またお迎えに上がりますので」

「は?」


 正体不明の兄ちゃんは、こちらの返事も聞かずに向こうの用件だけ述べると、光の速さで馬車に乗り込み、去っていった。


「……何なんだ?」


 とりあえず昨日は風呂に入らないまま寝てしまったので、風呂を沸かして入り、綺麗な体となった後は買って来た食事を食べようかと迷い、今から食事に誘われているので止めにした。

 だらだらと行動をしているうちに一時間経過してしまう。服装は適当なシャツと紺色の上着を羽織って、何が起こるか分からないので、いつもの様に剣をベルトに剣を挿す。

 あと何か忘れているような、と考えれば、もって行くような手土産が無い事に気が付く。もう市場なんぞに行っている時間は無い。どうしよう、どうすればいいのか。棚の中には軟体動物の干物しかない。炙ると美味いが、公爵家のお嬢様は貰っても喜ばないだろう。


 大急ぎで何か買いに行かねば、と財布を手に外に飛び出せば、庭の中心にある半円のはりに巻き付いた蔓薔薇が目に付く。数日前まで蕾だったそれは見事に開花していた。


 そうだ!薔薇を手土産に持っていこう。そのようないい考えが浮かび、家の中から剪定用の鋏を取りに行く。そういえばアセスも花が咲くのを楽しみにしていたので、一度見せてから切った方がいいなと思い、丁度窓にもたれ掛った姿が見えたので呼んでみた。

 外に出てきたアセスは昨日の御前武道会の興奮が醒めていないようで、はしゃぎながら話をしていた。公爵家の迎えが来るまであまり時間はなかったが、一通り話を聞いて頭を撫でてやる。ついでになったしまったが、薔薇が咲いた事を知らせると喜んでくれた。


「やっと咲いたんだね! 良かったー。あれ、兄ちゃん鋏持っているけどお花切っちゃうの?」

「ああ、今から知り合いの家に行くから花束にでもしようと、…あっ!」

「ど、どうしたの?」

「花束ってコレ蔓薔薇じゃないか!!」

「うん。そうだね…」


 自慢の薔薇の茎部分は半円状の梁アーチに巻き付いていて、切ってもぐにゃぐにゃと癖が付いているので花束には出来ない。


「――終わった。俺は、このまま人様のお宅に手ぶらで行かなければならない」

「に、兄ちゃん諦めるのは早いよ!!」

「……」

「そうだ、くるくる巻いて玄関とかに飾る輪っかを作れば?」

「時間が掛かるし、棘で手が血だらけになるぞ」

「そ、そっか。う~ん…あ! だったら小枝に蔓を紐で巻きつけて無理矢理伸ばすのはどう? それだったら花束にも出来るよ」

「…それは、いい考えだな」

「でしょう?」


 アセスの考えを採用し、道端で木の枝を拾って工作に掛かる。薔薇の花は全部で十個なので、アセスが手伝ってくれたこともあり、さほど時間も掛からずに完成させた。


「正面からみたら裏工作もバレないよ」

「そうだな。アセスのお陰だ」

「まあね!」


 これで花束を包めば普通の店で買った品に見えるね、と二人して裏工作を称えていたら、肝心の包む紙が無い事に気が付く。家の中には恐らく新聞紙しかない。


「待って兄ちゃん、お母さんかお姉ちゃんが何か綺麗な紙を持っているかも! 探して…」

「待て、もう時間が無い。もう新聞紙に」

「だ、だったらせめて茎を短く切って籠に入れてもって行こうよ!! 新聞紙は駄目、絶対!!」

「お、おう。そうだな。ありがとう、アセス」


 籠に入った薔薇の花は十本しかないが、花が大きめなのでなかなか立派なものに見える。もしもフロース様が要らないと言ったらラウルスの部屋にでも置いて貰おう。

 それにしても公爵家にはラウルスが居るから安心だ。居なかったら気まずくて居ても立って居られない状態に陥るかもしれない。


「それにしてもよく気が利くな。一人だったら迷わず新聞紙に包んで持って行っていたよ」

「それは、うん。……前にね、お父さんがお母さんに贈り物を買って来たんだけど、包み紙が無いからって新聞紙に包んで渡したら、貧乏くさいって怒られた事があったんだ」

「そ、そうか」


 女性にとって贈り物とは、中身だけでなく外見も大切みたいだ。とても勉強になった。


「それ、大切な人にあげるの?」

「……まあ」


 子供に位は本当のことを言ってもいいだろう。そう思って軽く返事をしたように振舞っていたが、顔が熱くなるのを感じていた。


◇◇◇


 そろそろかと時計を見ながら外に出ると、計ったかの如くぴったりの時間に公爵家からの迎えがやって来て、先ほどの兄ちゃんが馬車から降りて来て恭しく頭を下げる。


 馬車で揺られること三十分、公爵家の玄関に直接下ろされる。そういえば公爵様の手紙をまだ読んでいなかった事を思い出して、焦って声をあげそうになったのを、何とか寸前で我慢した。

 扉が開かれるといつもの執事のオッサンが居て、客間まで案内された。執事が客間の戸口を開き、どうぞと入室を促される。ふかふかの絨毯を遠慮がちに踏みながら歩いた先には、窓に佇む美女の姿があった。


「いらっしゃい、イグニス」


 名前を呼ばれただけなのに、早くも動悸がして額には冷や汗が浮かんでくるのを感じる。呑まれては駄目だ!そう自分を奮い立てながら、平静を装う。


「お招き頂きありがとうございました。…その、昨日は」

「昨日の事はいいの。気にしないで」

「……」

「座ってくれる?」

「はい」


 ラウルスはどこに行ったのだろう。肝心な時に席を外しているとは、フロース様と二人きりで気まずいではないか。


 待っていてもラウルスが来る気配も無いので、勧められるがままに椅子のある方へと歩いていく。

 そうだ。椅子に座って寛ぐ前に特性の手土産を渡さなければ。


「フロース様、これ、よろしかった、ら…」


 薔薇の入った籠を手渡そうとした瞬間に、窓から見える公爵家の広大な薔薇園が視界に飛び込んで来た。

 ――失敗した。何故ほとんどの貴族の家に薔薇園がある事を思いつかなかったのか。今すぐ薔薇の入った籠を持って逃げ出したい気分になったが、二日続けて情けない事をするのは流石に気が引けた。

 しかしながら、目の前に居たフロース様からは意外な声が返ってくる。


「それ、私にくれるの?」

「え?」

「ありがとう。とても綺麗ね」

「はあ…」


 窓の外にはその薔薇よりも綺麗で立派なものが咲いているが…。


「部屋に飾らせて頂くわ」

「!?」

「…何驚いているのよ」

「いえ、外に立派な薔薇園が見えたもので、すみません、知らずにそんなものを持って来てしまって」

「そんなことないわ。お花の贈り物を貰ったのは初めてなのよ。だから嬉しいわ」


 そんな風にフロース様は言ってくれて、微笑んでくれた。その笑顔は嘘偽りなど無い、晴れやかなものだった。

 それにしても、フロース様に花を贈る人が今まで誰も居なかったとは。世の中の男性は何をしているのか。こんなに喜んでくれるのを知らないのだな。全く勿体無い。


 それから客間で紅茶を振舞われ、昼食は薔薇の庭園にあるテラスに置かれた机で食べる予定だと説明される。

 朝は霜が降りて肌寒かったが、昼間になると日が照りつけ暖かな風も漂っている。見事なお散歩日和だった。

 

 流石と言うべきか、公爵家の庭園は迷路のように広くて、様々な種類の薔薇の花が咲き乱れている。図鑑で見た事のある品種をいくつか見つけたので、熱心に観察をしていれば、フロース様に腕を引かれて、昨日の夜会のようにぴったりと密着されてしまう。

 

 屋根の付いたテラスにたどり着くと、誰も使用人の姿は無いのに、食事が用意されていた。品目は手で取って食べられるようなお手軽なもので一安心する。実を言えば広い机で給仕をされながら食べる事を憂鬱に思っていたのだ。


「お腹空いたでしょう? 食べましょう」


 そう言ってフロース様は椅子に座り、瞼を閉じて食前の祈りを始める。フロース様の目の前に座り、その麗しい無防備な姿をじっくり見つめてしまった。


「実はね、少し前からここの薔薇のお世話を始めたのよ。って言っても肥料を与えたり、枝を剪定したりとかの軽い作業なんだけど、案外楽しいのよね」

「意外ですね」

「そう? 私ね、最近になって趣味が無いことに気が付いたのよ。それで何かないかしら? って考えてね、私の名前って【花】っていう意味なの。だから変な理由かもしれないけれど、お花の世話でも始めてみようかしらって」

「なるほど」


 フロース様の名前は【花】という意味なのか。うむ。花のように美しいフロース様にぴったりな名前だ。聞けばアルゲオ様が付けてくれた名前で、レグルス様は【小さな王】という意味だと教えてくれた。


 それからテラスで色々な話をした。


 そしてあっという間に日も暮れ、寒くなったからおいとましようと声を掛けた。


「フロース様、今日はありがとうござました。とても楽しかったです」

「ええ、私も。薔薇の花も、ありがとう」

「いえ、実はあの花は俺が育てた花なんです」

「そうなの!?」

「はい。だからそのように喜んで頂けて嬉しいです」

「そう…そうだったの。また、あとでゆっくり見させて頂くわ」

「は、はあ…お手柔らかに」


 あんまり見られるとボロがバレるので、遠くから眺める位にして欲しいが。生産者だと語った事を早くも後悔する。


 迷路のような薔薇園の来た道を帰って行く。フロース様は並んで歩かずに、少し後ろを歩いていた。半日自分の相手をしたので疲れたのだろうか。振り返ろうとした瞬間に背中に衝撃を感じた。


「――!!」

「お願い、このまま振り返らないで!」


 背中に突き当たって来た衝撃は、フロース様が俺の背中に走ってしがみ付いたことによるものだった。腰に手を回され、身動きを取れずに時間だけが過ぎていく。


「フロース様、このままでは風邪を引いてしまいますよ」

「喋らないで!!」

「……」


 フロース様は何をしたいのか。引き止めたいのなら屋敷に戻ってからにすればいいのに。ここは寒い。自分は大丈夫だが、フロース様は薄着で、上着も羽織っていない。

 このままでは埒が明かないと思って、回された腕を振りほどこうと、フロース様の手の甲に触れると、一層拘束の力が強まってしまった。


「あの、いい加減に」

「――好きなの、あなたのことが」

「!?」


 鈍器で頭を殴られたかのような激しい衝撃を覚える。何を、誰が、好き?頭の中はフロース様の言った言葉が何回も繰り返されるが、正しい意味を理解出来ずにいた。


「お願い。今日は何も言わないで帰って」

「!」

「答えは、ゆっくり考えて欲しいの」

「……」

「振り返らないで、喋らないで、このまま帰って」


 背中から温もりは消え、今度は両手で前に押される。


「帰り道は分かる?」


 フロース様の言葉に頷いた。


「そう。じゃあ、さようなら。今日はありがとう。また、今度会いましょうね」

「……」


 フロース様は別の道から帰るようで、足音が遠ざかっているのが聞こえた。


 帰る途中で公爵家の庭師らしき爺さんと会い、庭園の出口まで案内してくれた。


 そして、来たときと同じように馬車に揺られ、自宅まで送ってくれた。


 何だか変な汗を沢山掻いたので、風呂で洗い流し、そのまま布団に潜り込む。辺りはすっかり暗くなっていたが、まだ眠るような時間では無い。


 折角楽しい時間を過ごしていたのに、話をした内容などもフロース様の最後の一言でぶっ飛んでしまった。


 彼女は俺になんと言った?好き?誰の事が?


 信じられない、という感情よりも、ああ、聞いてしまった、という気持ちがふつふつと沸いて来る。


 ――否、そういうものは偽りの情動だ。本心を語れば、嬉しい、やはり向けられた好意は気のせいでは無かった、という喜びのものだ。こんな自分を好いてくれる人が居るというのはなんて素晴らしいものか。ああ、次に彼女に会ったらこの感動をどう言葉にしようか。


 気持ちを静め、今日はもう休もうと思うが、興奮してなかなか寝付けない。頭でも冷やすかと窓を開き、冷たい風に当たる。


 何となく夜空を見上げれば、満天の星空が広がっていた。チカチカと瞬く星は、まるで手を伸ばしたら掴めてしまいそうなほどに、距離を近くに感じてしまう。


 美しい星々に心を奪われていると、キラリと一瞬光の尾を引いた流れ星が夜空を駆けた。

 昔話では流星はどのような存在だったのか、半年前ほどに星占研究所で話した内容を思い出す。


 ――流れ星は悪しき者や愚かなる者を嘆いた地上を見守る精霊の涙…。


 そうだ。流れ星は――。


 夜空に星が流れる意味を思い出して、ふと我に返る。自分は何を浮かれているのだと。


 フロース様が夜空で一際輝く星のようだと思ったのはいつだったか。そして星占研究所の所長が語った地上に舞い降りた星はどうなったのか。


 そうだ、空から落ちてきた星を掴み取ると既に輝きを失っていたと言っていたではないか。星は空にあるからこそ輝く。綺麗だからと手を伸ばしてはいけない。


 フロース様も同じだ。心も体も綺麗だからと自分なんかが手を伸ばして掴んでしまえば、たちまち輝きを失ってしまう。だから、差し出された手を取ってはいけない。


 すっかり心の体も冷え切ってしまい、再び布団の中に潜り込み、瞼を閉じればあっという間に眠りについてしまった。


◇◇◇


 それから一ヶ月間、フロース様とは連絡も取らずに過ごす。このまま何も言わずに過ごせば向こうも忘れてしまうかもしれない。自分とはそんな些細な存在だ。長い時間がささくれ立った心を癒してくれるかもしれない。フロース様も本当に大切な人を見つけ出してくれたらいいと思っている。本当にそう思っているのに、心中は複雑なものを抱え込むように重たく感じていた。


 それから数日が経って、やはりフロース様の告白に返事を返さないのは不誠実だと思って、手紙でも書こうと考えながら帰宅をしていた。

 便箋や封筒はあっただろうか。この時間では文房具店もまだ開いていない、買いに行くのは仮眠をしてからになるなと、夜勤明けで働かない頭で考えていると、玄関にうずくまる白い塊が目に付いた。


「何だ、あれ?」


 馬から下りて手綱を引いた状態で近付くと、その塊がビクリと動き、もぞもぞと蠢いた。白い塊はすっと伸び上がり、よくよく見れば、女性がしゃがみ込んでいただけだと理解する。その女性は銀の髪を持った御方で、一ヶ月以上会っていない、心の不調の原因でもある張本人だった。


「……」

「色んな意味で遅いわ!!」


 フロース様はいつもと変わらない様子で叱りつける。いつから待っていたのだろうか?頬は寒さで赤く染まり、痛々しく感じる。ラウルスを馬小屋へと繋ぎに行って、部屋の中へ入るようフロース様を案内する。客間に通し、暖炉に火を掛けて椅子を勧めた。


 何か暖かいものを、と思ったが、フロース様に出せるような紅茶など無い。安っぽい果実汁と酒とミルクだけだ。

 仕方が無いので、ミルクを鍋に入れて暖め、沸騰したらチョコレートを一欠片ひとかけら落す。いつもアセスが来た時に出す飲み物を作って、フロース様に恐る恐る差し出した。


「暖かい。おいしいわ」


 お口に合って何よりだ。


 フロース様はこの前の返事を聞きに来たのだろう。答えはとっくの昔に決まっている。あとは言うだけなのに、なかなか言葉を出す勇気が出てこない。


「今日は、分かっているのは思うけど、あなたの返事を聞きに来たの」

「……」

「ごめんなさいね、気が短くて、あまり待てなかったのよ」

「……私は」

「ねえ」

「…何でしょうか?」

「私、あなたの拙い敬語は聞きたくないの」


 突然のフロース様の言葉に我を失ってしまう。口から出た言葉は余り褒められたものでは無い、田舎の者が使う言葉だった。


「――ッ!! それは、仕方がないことだ。……俺は田舎育ちの平民だ。その辺の育ちの良い坊ちゃんと一緒にしないでくれないか」


 一気に言い放ってから、フロース様相手に何て口をきいてしまったのだと自責の念にかられる。しかし言ってしまってからでは遅い。軽蔑されるかと思いきや、意外な言葉が返って来る。


「も、申し訳ありま」

「あら、いいのよ。そんな風に敬語を使わない方があなたらしいじゃない」

「……」


 どうして、そんな事を言ってくれるのか。心の中で決めていた筈の言葉がユラユラと揺らぎ、消えてしまいそうになる。


「話が逸れてしまったわね。…それで、返事を聞かせて頂けるかしら?」

「……」

「イグニス、答えなさい」

「――ごめんなさい」

「え?」

「ごめんなさい、殿下のお気持ちに答えることは出来ません」

「……して?」

「……」

「どうして?」

「申し訳ありません」

「謝罪の言葉を聞いているんじゃないの」

「……申し訳、ありません」

「私の言葉、きちんと聞いているのかしら!?」


 何度も何度も謝ったが、フロース様は理由を言えの一点張りで、ここから帰ろうとしない。俺は床に膝と額を付いて、再び謝罪の言葉を重ねる。


「どうか私のことはお忘れになって下さい。殿下にお似合いの方は他にも沢山居ります。どうか周囲を良く見て、見識を広げて下さい」

「ねえ、何を言っているの? お願い、止めて、頭を上げなさい…上げて、イグニス!」


 フロース様がここを出て行くまで、頭を上げることなんて出来ない。冷たい床に額を付けたまま、同じ言葉を繰り返す。


「どうしてそういうことを言うの? 私のことがそんなに嫌い? 駄目な所があったら直すから、教えて欲しいの。あなたに、好きになってもらう努力もするわ、だから」

「いいえ、殿下は何も悪くない」

「では何故!?」

「殿下とは住む世界があまりにも違います」

「今更そういうことを言うの? それにあなたにとって私はなんでも無い軽い存在だったの?」

「いいえ、いいえ。…殿下は私にとっての一番星でした。これからも、美しく、気高いあなたで居て下さい」

「……」

「今までありがとうございました。殿下の幸せを心より願っています」

「……」


 カツカツとフロース様がこの部屋から去っていく音が聞こえる。


 ――良かった。流されずに、きちんと言えた。


 気分は最悪だけど、これでフロース様が一歩前に進む事が出来るのなら、この決断は間違ってはいない。そうだ、きっと。そうに決まっている。

 そういう風に都合よく思い込んで、無理矢理納得した。


◇◇◇


 どうやら朝からここに転がったまま寝てしまっていたようだ。冷たい床の上だったので、体のあちこちが痛む。

 出勤の時間まではまだ五時間ほどあった。風呂でも沸かして入るか、と考えながら起き上がれば、玄関の戸口をドンドンと激しく叩く音が聞こえた。


 玄関の磨りガラスに映る影はよく知る奴のものに似ていた。


「――誰だ?」

「私だ」


 やはりお前か、ラウルス。


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