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あの後フロース様と別れ、厩舎に預けていた馬に跨り真っ直ぐに家に帰って来る。
この馬は二年前に親衛隊長になった時に、パライバ殿下から賜ったものだ。白毛の綺麗な馬で、青い目を持っていることから【ラウルス】と、親友の名前を勝手に拝借して命名した。(瞳の色が全く同じなのだ)
この前偶然手に取った本に【ラウルス】の意味が書かれており、そこには【勝利・栄光】とあった。なんて縁起の良い名前なんだ。
とにかく走り回るのが大好きな馬で、休みの日は早起きして遠乗りにも出かける。可哀想なことに俺が王宮勤務な為に通勤用の馬となっているのだ。思い切りがいい奴で、戦場で駆ける機会があれば、周囲の状況に怯える事無く先陣を切る走りも可能だろう。本当に自分には勿体無い良い馬だった。
馬のラウルスを家の裏手にある小屋の前に繋ぎ、古い藁と糞を掻き出して軽く水で洗い流すと、天日干しにしていた新しい藁を持って来て全面にしっかりと引く。水桶に井戸から汲んで来た水を入れ、餌樽にも牧草と細かく刻んだ藁を入れてやる。
綺麗になった小屋に入れようと手綱を引くが、動かない。前足で地面を何度も掻いて何かを要求している。
「ーーもしかして毛を梳いて欲しいのか?」
まるで言葉を理解しているかのように、ラウルスは「ヒン!」と短く低い鳴き声をあげる。馬の手入れは毎日騎士団に所属する従騎士達の仕事で、美しい毛並みを保っているように見えた。俺も馬の状態を知る為に手入れは毎朝行なっているが、ブラッシングをするまで動かないぞと言わんばかりの態度を見せるので、仕方が無いと思い、倉庫から道具一式を持ってきて、大きな体を丁寧にブラシがけした。
一時間後、ようやく家の中に入る事が出来、そのまま座ると二度と立ち上がれないと思ったので、真っ直ぐに風呂場へ向かう。
風呂場はこの家を建てた人のこだわりなのか、えらく豪勢だった。床は大理石で琺瑯の浴槽は高級宿でしかお目に掛れない品だ。元々貴族の奥様が住んでいたというこの家は、家具などはそのままに残されており、なかなかお洒落な内装となっている。全く一人暮らしの男の家には身に過ぎる物件だと思っていた。
浴槽に付いている蛇口を捻れば水が勢いよく流れて来る。この蛇口には転移魔術が掛っていて、水栓を捻ればどこぞの泉より水が綺麗に浄化された後に供給されるのだ。瞬く間に浴槽には水が満たされ、蛇口を閉めると浮かんでいた魔法陣も消える。
蛇口に引っかけている耐熱網に入れた赤い石は火の属性が付いた魔石で、本来は火で炙ってから浴槽の中に放り込んで水をお湯に変える目的で使うものだが、俺は少しだけ魔術が使えるので直接石に呪文をかけて発火させた状態の物を水の中に沈める。
風呂で一日の汚れを落とした後は夕食の用意をする。台所と一緒になった居間の机の上には、朝庭の畑から収穫した赤茄子がある。細かく刻んで豚の燻製と煮込めば美味しいスープが完成するだろう。しかし作るのと煮込む時間を待つのが面倒だと思ってしまった。
食材の保管箱からチーズを取り出して薄く切る、次に昨日市場で買った細長いパンを厚く切り分けて、折角なので朝採りしたばかりの新鮮な赤茄子も切り、チーズと一緒にパンの上に置いた。上に辛味のある香辛料をパッパとかけて完成だ。棚からカップと酒を取り出して、ちびちびと飲みながら食べる。
チーズと赤茄子の乗ったパンを一口齧った。ーー思っていた以上に美味しくない。寒い時期に出来る赤茄子は酸味が強く、生で食べるのには向かないのだ。そのかわりスープにしたりパスタのソースに使えば美味しくなる。そんなことなど分かっていて、初物だからと思いチーズと一緒に乗っけたが、想像以上に酸っぱかった。しかも水分の多い赤茄子を下に置いたので、パンの表面は水分を吸い込んで、折角のカリカリとした固い食感が台無しになっていた。
--こんなものを寂しく食べるなんて……。空しい感情を酒と一緒に飲み込む。
王宮でも食事を出してくれる所はあるが、隊長専用の食堂にはお上品な貴族のオッサン騎士達が出入りしていて、どうにも落ち着いて食事を摂ることが出来ないのだ。しかも出される食事は一般騎士達が利用する質より量の雑な料理ではなく、ナイフとフォークで優雅に食べる品が毎回用意されている。机の上に並べられた数種類のカトラリーを見るだけで頭が痛くなり、早々に立ち寄るのを止めた。以降昼の食事は混雑時を避けた一般騎士の食堂へ行って摂り、夕食は家か街の食堂で済ますようにしている。
微妙なパンと瓶に入った酒を片付け、歯を磨いてさっさと布団に潜り込んだ。目蓋を閉じれば一瞬で寝入ってしまう。
◇◇◇
本日はお休みだ。日の出前に馬と一緒に遠乗りに出かける。二時間ほど走らせた後、市場に寄って朝食と食材を購入し、帰宅した。食事を終えた後は外に出て、庭で土いじりを始める。
庭の中心には半円のアーチに絡まった蔓薔薇の苗がある。一番最初に住んでいた住人が育てていたものらしい。俺が来た頃にはほとんど枯れかけていたが、本を読んで手入れを続けているうちに、元気を取り戻しつつあった。雪解け後と、雪が降る前と二回花を咲かせるらしいが、いまだ開花を目にした事は無い。蔓の先からは若々しい葉が芽吹き、今回こそは花を咲かせるのでは?と楽しみにしている。
そして庭の隅にあるのはささやかな畑だ。元々は二人乗り用の小さな馬車を置いていた空間だったらしく、車輪の跡が何本かついていたが、その場にあった土が驚くほど良質なものだったので、時間をかけて耕し、小さな畑を作った。
俺は農村の出身で毎日の様に家の手伝いで畑仕事をしていた。暑い時期は赤茄子、苦茄子、緑瓜などを育て、寒い時期は土の中で育つ作物を中心に栽培していた。半分は近くの街へ売りに行き、半分は母親が経営している宿屋の食事の材料として使われていた。
村の近くには冒険者の間で有名な迷宮があって冒険者の出入りも多く、宿はそれなりに繁盛していた。幼い頃は客として来ていた冒険者達が格好良く見え、大きくなったら世界を冒険してお宝を探し出す!…なんて夢見たりして、両親から絶対に止めろと叱られたものだ。
夢を夢で終わらせるものかと思った幼い自分は、村をよく訪れる剣士に剣術を教えてくれとせがみ、何度も稽古をつけてもらったりもした。
因みに父の農園は弟が継ぎ、宿は姉夫婦が経営をしている。妹は他の街へ嫁いで行き、両親はボケてんだかボケて無いんだかな祖父と共に隠居生活を楽しんでいるという。
そんな故郷には隊長に任命されてから長い休暇も無いので帰っていない。というか、隊長になる前から帰っていないので五年ほど家族に会っていない状態だ。母親はたまに収穫した野菜などを送ってくれ、祖父は「【むちんむちん】で、【ぽよんぽよん】な、イグ坊の美人な嫁さんはまだかの?」といったふざけた内容の手紙を定期的に送りつけてくる。
魔術はこの爺さんから習ったもので、「昔は王宮勤めをしていた偉大な魔術師だったんだよお~!」とよく自慢をしていたが、必ず母が「お義父さんは昔っから農業一筋だったでしょう?」という無慈悲な突っ込みが入っていた。俺のイグニスという名前は爺さんが付けたもので、【炎】という意味があるらしい。兄弟の中で唯一爺さんと同じ赤い髪色を持って生まれたことから命名権を貰ったと言っていた。爺さんがいつになく真面目な顔で話した「名はそのものの実体を示しているからの」という言葉の意味は今でもよく理解出来ずにいた。
ーーまあ、話は逸れたが、幼い頃の経験もあってこの小さな菜園の管理はお手の物だ。今までは寒い時期だったので根菜類と寒さに強い品種の赤茄子を育てていた。特に赤茄子は実の重さで茎が撓うほどに見事に育っている。これは一人で食べるのは難しいなと思いながら収穫していると、背後から元気な声が掛った。
「イグニス兄ちゃん! おはよーー」
隣の家の子供だった。たまにやって来ては剣を教えてくれと言いに来るのだ。小さい頃の自分を思い出して照れくさい気分になるが、将来の騎士候補を心から応援する気持ちから真剣に稽古を付けている。
「おー。今日も元気だな」
「窓からお兄ちゃんが見えて嬉しくて!! …お母さんは迷惑になるから行ったら駄目って言ったんだけどね」
「それはそれは。全然迷惑じゃないさ。どら、今日も剣をするか?」
「いいのっ!?」
倉庫の中から木刀を持って来て隣の家の子供、アセスと剣の稽古を始めた。
二時間ほど、休憩を入れながら打ち合ったが、アセスは疲れたようで芝生の上に転がっている。チクチクして痛くないのだろうか?そんなことを考えていると、本日二回目の訪問者が現れる。
「アセス!! お行儀が悪いでしょう?」
「う、う~ん。背中がチクチクするう」
ーーやはり背中はチクチクしていたようだ。
二人目のお客様はアセスのお姉さんだった。前に弟とは十年が離れていると言っていたので、十八歳位だろうか。可愛らしいお嬢さんだ。名前はなんだったか、申し訳ないことに覚えていないので適当に誤魔化す。
「こんにちは、アセスのお姉さん」
「あ、パルウァエさん……こんにちは。弟がご迷惑を」
「いえいえとんでもない。一人で寂しく暮らしているもので、お客様はいつでも大歓迎なんですよ」
「そうでしたか」
何だか言っていて自分が可哀想になってきた。自虐は止めようと思う。
「あ、あの、これ、作ったので良かったら」
差し出されたかごの中に入っていたのは白く丸いパンだ。受け取るとまだ暖かさが残っていて、焼きたてだという事が分かる。
「これはおいしそうだ。ありがとうございます、嬉しいです」
「いえ」
お礼を言うとアセスのお姉さんはまさに花も綻ぶような笑顔を見せてくれた。家の中に貰ったパンを籠から取り出して、その辺にあった新聞紙を敷いて先ほど収穫した赤茄子を入れる。
「これ、さっき収穫したばかりの赤茄子です。冬のものなので生では酸っぱいかもしれませんが、煮込むと甘くなりますよ」
お返しとばかりに今季の自信作を差し出したが、お姉さんは浮かない表情で受け取ってくれた。物々交換のようで気分を悪くしたのだろうか?それとも赤茄子が嫌いだったのか。まあ、足元でアセスが「やったー! 姉ちゃんスープ作ってよ!」と大喜びしていたので良しとしよう。彼女には今度殿下の公務でどこかに行った時にお菓子でもお土産に渡せばいいか。
こうして姉弟と別れ、再び一人っきりとなってしまった家の中で、各部屋の掃除を済ませると、収穫したばかりの野菜を使ってスープを作ることにした。