17
「あら、おはよう。今日は早いのね」
「はい。おはようございます」
ーーあれだ。フロース様の良いところとして、前日の怒りは翌日に持ち込まない、という所がある。
一度怒った女性に許して貰うのは大変な事だ。姉と妹が居るので何度も大変な目にあった。なのにフロース様は日付が変われば普通に接してくれるのだ。
やはりフロース様は素晴らしい。これからも清らかな気持ちで信仰をしようと、心の中で誓った。
フロース様はそのまま颯爽と去っていく。後ろに居たラウルスが何か言いたいような顔をこちらへ向けていたが、何の用事だろうか。捨てられた仔犬みたいな表情で見ていたが、結局何も言わずに居なくなってしまった。
王都への帰路をパライバ殿下はフロース様と共に竜で帰るという。親衛隊からは一人護衛を付け、後の者は馬で帰還する。殿下の側付きは大人しいエキドルを指名した。竜が吊るす客室の中で、フロース様と同席するので失礼があってはならない為の選択だ。
出発まで三時間程、殿下の護衛の交代を隊員と済ませ、何となく手持ち無沙汰になる。
今日も気持ちのいい晴天だ。レーサー邸の庭にある長椅子に一人腰掛け、周囲に咲き乱れる薔薇の花を眺めながら、朝食にと部下から貰ったチーズと燻製肉の挟まったパンを頬張る。
ーーうん、水分が欲しい。
何の考えもなしにパンだけ持って来てしまった。せっかくの美味しいパンなのに、激しく喉に詰まる気がする。口の中の水分を失いつつも、何とか完食する。
それにしても、立派な薔薇園だ。我が家の蔓薔薇は青々しい若葉を付けたが、蕾を付けるまでには至らなかった。その辺に庭師でも居ないだろうか。是非とも話を聞きたいと思った。
風がそよそよと吹く度に、薔薇の芳しい香りが立ち込める。このまま呆けていたら、安らかに眠れそうだ。そんな風に思いながら瞼を閉じれば、背後から名前を呼ばれ、振り返ると金髪碧眼の男前が佇んでいた。
「君に花を愛でる趣味があったとは驚きだな」
「…ラウルスか」
突如として現れた男装の麗人、ラウルス・ランドマルクは、こちらへと回り込み、隣に腰掛ける。
「何の用だよ」
「相変わらずつれない人だ」
「俺を釣ってどうする」
ラウルスは脚を組みながら、髪をかきあげ、空色の瞳を細めて微笑む。
何度でも言うが、こいつは女性だ。なのに何だ、この男前っぷりは。こんな振る舞いをするから世の女性は騙されてしまうのだ。
ラウルスは目の前に広がる薔薇園を眺め、感嘆の声をあげる。
「凄いな、この薔薇の数は」
「そうだな。ーーここに来たのは、あれだ。あの青い薔薇が珍しかったから寄っただけだ」
「ああ、そういえばレーサー侯爵が言っていたな。魔術師に作らせた特別な薔薇があると」
今まで何冊かの薔薇の本を見てきたが、青い薔薇は図鑑にも載って無かったと思っていたら、魔術師に作らせた花だったのか。確かに他の薔薇と違う気がする。花の大きさは手のひらを広げた位で、明らかに大振りだ。香りも強く、噎せるような香りというのだろうか。とにかく香りが強い。
「それはそうと…お前、フロース様の護衛はどうしたんだよ」
「彼女には公爵家の護衛が付いているから問題ないよ。それに私はまだ全快していない。今回はお飾りの番犬だったんだ」
「番犬だったらご主人様の所に戻れよ」
「……今は君と話をしたい気分なんだ」
「話す事なんかねえよ」
「そんな冷たいことを言わないでくれ、心の友よ」
「……」
こいつは誰に対してもこのような気安い態度を取る、究極天然のタラシだ。今まで何人もの女性が騙された瞬間を見た事か。
「しかし濃いな、この薔薇の芳香は。服に香りが移ってしまいそうだ」
「服に移る程濃くないだろ?」
「そうか? 私は今すぐにでも鼻が曲がりそうなんだが」
俺の鼻が効かないのか、ラウルスの鼻が犬並みなのか、第三者が居ないので判断出来ないが、芳香が普通の薔薇より強いことには変わりない。犬といえば、先程すれ違った時に何故捨てられた仔犬のような表情をしていたのか気になったので聞いてみた。
「お前、さっきすれ違った時に何で変な顔してたんだよ」
「それは……朝食を食べた後で使用人の女の子と話していたらフロースに見つかってしまって……キツイ尋問を受けている途中だったんだ。君が助けてくれると思って、つい見てしまった」
「……」
フロース様のラウルスへのご寵愛は健在らしい。全く羨ましい限りだ。
「……」
「?」
今までふざけながら話していたラウルスの表情が、急に真剣なものとなる。
「ーー君は何も聞いて来ないんだな」
「何の話だ?」
「私が怪我を負った状態で王都に逃げて来た理由だよ」
「……どうでもいいよ、そんなもんは。どうせ仕様もない事件に巻き込まれただけだろう?」
「……」
気にならない、と言ったら嘘になる。ラウルスをあんな目に遭わせたのは誰なのか、王都に居れば安全なのか、など疑問を挙げればキリがない。
しかし話すつもりもない事を無理矢理聞こうとは思ってなかった。よくよく考えば、公爵家に身を寄せている以上安全は保証されている。今もラウルスの周りには護衛が数名潜んでいた。わざと気配をチラつかせているのだろう。
「君に聞かれたら言うつもりだったんだ。でも、半年経った今でもまだ気持ちの整理がついていなくて……正直助かったと思っている」
「……」
「……イグニス、私は」
「何があったのか知らんが、お前は悪くないよ」
「!!」
この落ち込みっぷりからして、長い間自分を責めていたのだろう。
ただ一つ言えるのは、俺はこいつの揺らぐことの無い正義を信じているという事だ。
「ーーラウルスという名前には【勝利】という意味がある。うちの爺さん曰く【名はそのものの実体を示す】らしい。だから、新しく王都での幸せを勝ち取れよ。お前はそれが出来る男だ」
「イグニス…ありがとう。君と友達で、本当に良かった」
間違って男呼ばわりをしてしまったが、気付かれなかったようだ。うっかりしていると、ラウルスが女性だという事を忘れてしまう悪い癖が俺にはあった。気を付けなければわりと失礼だ。
「ところで、イグニスという名はどんな意味があるんだ?」
「俺の名前か? 意味はーー」
祖父が名付けてくれた【炎】という名前を持つ自分に、実体がつり合う何かがあるのだろうか?
その答えは未だに見つかっていない。
◇◇◇
先に王都へと帰るパライバ殿下を見送る為、竜舎まで来ていた。他の隊員達は馬の準備をする様命じたので、寂しい別れ際となってしまった。
「パライバの見送りは一人なのね」
「はい。隊員達は帰る準備をしています」
「そうなの」
フロース様は暇なのかラウルスを伴って話し掛けて来た。
少し離れた場所では竜に客室を取り付けたりと、こちらの準備もまだ整っていないようだ。
「!?」
ボケッと竜を眺めていたら、至近距離にフロース様の姿があった。何ごとだろうか、顰めっ面で俺の上着を睨み付けている。
他の部隊だった時の飾り紐を付けているとか?確認して見れば、きちんと飾り紐の色は金だ。
「ーー匂うわ」
「へ?」
も、もしかして、昨日の酒が残っているとか?自分では分からないが、酒臭いのだろうか?騎士隊には酒が残っている状態では馬に乗ってはいけないという決まりがある。飲酒運転、駄目、絶対、だ。
「ーーあなた、今まで誰と居たの?」
ふと、服を引かれた感触があり、下を見ればフロース様がこちらへと身を寄せ、上着の匂いを調べるような仕草をしていた。
「ーーっ!?」
声にならない悲鳴をあげ、慌ててフロース様の両肩を掴んで引き離す。
「…何を焦っているの? やっぱり今まで女の人と居たのかしら?」
女の人ってなんだ?…まさか薔薇の香りが服に染み付いていたからそう言っているのか!?これは薔薇園の花の香りだし、女の人には間違い無いが、一緒に居たのはお宅の番犬ラウルスだ!なんだったら、もうラウルスは男に分類してもいい!
フロース様から謎の怒りを受けている絶体絶命の俺に、無くてもいい助けがラウルスから入る。
「フッ、フロース! 違うんだ、イグニスは私と一緒に居た、本当に本当だ!」
もう言っている事が本当に嘘っぽい。正真正銘の真実を語っているのに焦りながら言うものだから、本当に嘘っぽい。ありがとう、ラウルス…頼むから黙っていてくれ。
「友達だからって何を庇っているのよ!」
「違うんだ、フロース! ほら、私からもイグニスと同じ薔薇の香りがするだろう? これは女性の香水の香りではないんだ」
「ラウルスは黙っていて!」
ーーああ、泥沼…。
この場をどう切り抜けようかと考えていると、竜の操縦士から準備が出来たという旨が報告された。
「あなた、帰ったら覚えていなさいよ」
「……」
フロース様は悪役みたいな台詞を残して、竜に吊るされた客室へ向かって行った。
「イグニス、安心して欲しい。フロースは王都に着くまでに私が宥めておこう」
ラウルスは負ける事が出来ない戦に出掛ける騎士の如く、悲痛な表情で俺を安心させる言葉を発していた。
……逆に不安になってしまった。