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白銀のお嬢様が家に来てからというもの、生活は一変した。
朝、一時間早起きして馬小屋の掃除を行った後に、ブラッシングをしようとしたら後ろ足で蹴られそうになったり、花の蜜をかけないと餌を食べなかったりと、高貴なお嬢様に手を焼いていた。そして一番の打撃は食生活にあった。
食卓に並べられているのは固く黒いパンに、薄切りにしたチーズ、野菜の切れ端の入ったスープ。信じられないかもしれないが、これは夕食だ。棚にある酒の瓶は全て空で、ここ一ヶ月ほど口にしていない。
新たな馬を購入したお蔭で灰色な生活に暗黒時代が訪れていた。予想以上に辛い毎日を送っている。でも、あの日買わなかったら、あの綺麗な馬は競売に掛けられ、貴族様の胃の中へ消えて行ったかもしれないのだ。美しい銀色の革は鞄に、鬣は櫛に、尻尾の毛はどこぞの禿げたオッサンの頭を装う鬘に、だなんて許せなかった。お金で助かる命があるのなら、いくらでも払ってやる。
されど、節約技術を会得していない者が食費を切り詰めるのには些か限度があると感じていた。騎士の体作りは重要な事だ。食生活を疎かにすれば、体力は落ち、力も出ない。分かっている、分かってはいるが、貧乏性が災いして食費をケチってしまうのだ。
貯蓄はある。まだ見ぬ奥さんに苦労をさせないために貯めていた金が結構ある方だと思っている。それをちょこっとだけ崩して肉や魚を買えばいい。給料が出ればその崩した分を戻せばいい。……それが出来ないので、このような貧相な生活をしているのだった。
そう、先日パライバ殿下がお馬様の名前を命名して下さったのだ。白銀の麗しき馬【フロイライン】と。微妙に某公爵令嬢と名前が被っているものの、お上品で気品に溢れる良い名前だと思っている。
フロイラインはラウルスとも仲良しだ。新しく仕切りを作った馬小屋でも一緒の馬房に入ろうとしたり、休日に草原へと連れて行けばラウルスの後ろを走ったりと、謎の執着を見せている。二頭とも雌なので変な道に走らなければいいと思う所存だ。こちらへの態度は相変わらずな状態で、ツンツンのお澄ましさんで、たまにフロース様と呼んでしまいそうになっている。
やはり、家に帰ったら誰かがいるのはいいことだ。たとえそれが馬で、手を伸ばせば噛まれそうになったとしても。あの日の選択は間違っていなかったのだ。
そんな新たな生活を始めて一ヵ月半経った頃、突然フロース様に呼び止められた。
「ーーねえ、あなた」
「はい?」
「ちょっとこっちにいらっしゃい」
「ちょ、待ってくだ、今、泥だらけで」
「いいから!」
またもや、ぐいぐいとフロース様に腕を引かれ、休憩室に連れ込まれてしまった。二人っきりになるのは良くないと反発したが、さらっと無視されてしまった。就労後、訓練を終えた体では抵抗をする気力も残っていなかった。
「あの、何か」
「そこに座りなさい」
「でも、今泥まみれで」
「黙って座りなさい」
「…はい」
フロース様はそのまま紅茶の準備を始めている。一体何の用事なのだろうか?
目の前に差し出された紅茶は、立ち上がった湯気と共に、ふわりと独特な香りが鼻腔に広がる。
「いただきます」
今日は日差しが強く、特別暑い一日だった。出来れば冷たい飲み物を体は欲していたが、フロース様にお茶を淹れて貰うこと自体が贅沢な話だ。それにフロース様の紅茶は文句のつけようが無い程に美味しい。用意された布巾で手を拭った後に、額に汗をかきながら、あつあつの紅茶を啜る。
「ーーねえ、なんでそんなに痩せているの?」
「……」
お馬さんを買ったせいで節約に力が入ってしまったなんて言える筈も無い。普段隊員達にもっと太れだの均等良く食事を摂れなんて偉そうに言っているのに、他人から見てもやせ細っているなんて大問題だ。
「目の下の隈も酷いわ。きちんと眠っているの?」
睡眠時間を削っているのは、帰宅後に行っていた馬小屋の掃除を朝にしたり、フロイライン様のお手入れをしたりと仕事が増えたから早起きをしているだけだ。決して不眠な訳では無い。
だが、騎士としてその行いは間違っているのかもしれない。生活を切り詰めてやせ細り、いざという時に力を奮えないのならば、騎士という誉れ高い職に就いている意味は無い。
フロース様に外見の変化を問われ、自らの間違いに気がつき、生活を正そうと決心する。
「質問に答えて!!」
「うわ!!」
自分の中で抱えていた問題を自己解決していて、すっかりフロース様に問われていた事を失念していた。
--正直に話そう。
ここで誤魔化しても嘘はそのうちバレてしまう。だったら真実を告白したほうがいい。
「ーーという訳で」
「馬鹿なの?」
…馬鹿です。重く、静かな空間に追い討ちを掛けるようにお腹がぐうっと鳴った。
「もう!!」
お腹の音を聞かれその上さらに怒られてしまった。フロース様はこちらへずんずんと近寄って、白いエプロンのポケットの中から包みを取り出して開くと、こちらへ差し出した。
中身はクッキーだ。包みを目の前に出され、甘い香りがふわりと漂って来る。
「ありがとうございます。あとで頂き…」
「今食べなさいよ! お腹空いているんでしょ?」
「いえ、先ほどまで剣を握っていたので手が汚くて」
用意されていた濡れ布巾で手は拭いたが、爪先には泥が入っている。時間をかけて洗わないと取れないだろう。
後程クッキーはありがたく頂いて、今日は街にある食堂に行ってきちんとした栄養のあるものを食べよう、そう思っていると、フロース様が俺の隣に座り、手のひらに置いたままになっていたクッキーの包みを奪われてしまう。
そして、フロース様はクッキーを掴むと、こちらの口元へと持って来た。
「……!?」
いきなりの行動にびっくりしていると、手にしていたクッキーを無理矢理口の中に押し込まれてしまった。
「ふっ…!」
「なんで噛み付いてこないのよ!」
「…すみません。いきなり出されたので咄嗟に反応が出来ませんでした」
無言で食べ物を口元に差し出されて、即座に反応出来る奴など居ないだろう。「あ~ん」とか言ってくれるのであれば話は別だが。
それにしても、美味しいクッキーだ。クッキーなんて口の中の水分を泥棒していく食べ物だと思っていたが、これは食べた事もないほどに美味い。
「…まあ、いいわ。ーーほら、さっさと口を空けなさい」
「……」
節約のご褒美はここにあった。結局フロース様はクッキーを全て食べさせてくれたのだ。
こんな泥だらけの騎士に慈悲深い行動をしてくれるなんて、フロース様は本当に女神なのかもしれない。茶器を片付ける後ろ姿に手と手を合わせて感謝の祈りを贈った。
「ーー噂になっていたのよ」
「?」
フロース様はこちらに背を向けながら話しかけてくる。
「あなたがどこぞの悪い女性に唆されて、財産から何から奪われて破綻寸前だというお話をね」
「……」
だから最近隊員達が可哀想なモノを見る目でこちらを窺っていたのか。とんでもない噂が流れていたものだと落胆する。
しかし俺にとってフロイラインは財産から睡眠時間までも奪う、悪女であることに変わりは無いのかもしれない。こんな生活をしていたら、いつか身を滅ぼすだろう。
「あなた、日に日に痩せ細って行くでしょう? パライバは三十過ぎのいい大人なんだから放っておけって、心配するようなことは無いって言っていたんだけどね」
「ーーこのように不健康な姿になってしまった事を反省しています」
「そうね、反省して欲しいわ」
「…はい」
ここ数年ほど、何をしても親身になって心配してくれる人なんか居なかったので、怒られているのに嬉しいと思ってしまった。
「あなたって本当に変わっているわ」
「……」
今まで、自分は普通だと思ってたが、どうやら違うらしい。どこで道を誤ったのかと記憶を辿るが、それらしいものは見当たらなかった。