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夜勤は就寝しているパライバ殿下の護衛を行っている。昼間と同じように七人で護衛任務に就き、朝方まで不寝の番をするという訳だ。
俺は日勤の時と同じように執務室での仕事にあたり、たまに隊員達が居眠りをしていないか確認にも行く。
一日の仕事は、日勤者からの引継ぎ、朝礼(行うのは夜だが)、執務室での書類整理、見回り、翌日出勤してきた者への引継ぎに、その後は朝日を浴びながらの訓練をして勤務終了となる。
昼間と違う所といえば、護衛対象である殿下が休まれていて居ないという事と、昼休み(しつこいようだが、時間帯的には夜だ)の時間に食事を摂らないという事だろうか。
基本的に夜中の飲食は太るとも言われ、翌日に胃もたれも生じることから控える者も多いが、やはり起きて何かの活動をしていると空腹を覚えるものである。食堂は夜間の間は人が居ないので食事を摂ることは出来ないが、事前に申請すれば軽食を用意して貰えるのだ。
そんな感じで一日の勤務体制を過ごし、昼間とは違ってあっという間に夜間の就業時間が終わる。
朝から来た隊員達の朝礼を終え、今から訓練に向かおうと廊下を歩いている時に、後方より挨拶の声がかかる。
「おはよう」
「!」
挨拶の声はフロース様だった。朝一番に綺麗な人を拝めるなんてツイてるなあと思いつつ、その麗しいお姿を失礼にならない程度に堪能する。
「おはようございます。外は晴れていて気持ちのいい朝ですね。--昨日は冷えましたが、風邪などは引かれていませんか?」
「ええ、大丈夫よ。これでも体は丈夫なの」
風が少し吹いただけで体調を壊してしまいそうな印象があったが、フロース様は体が丈夫らしい。なんとも頼もしい姫君だと感心する。
「それでね、昨日の上着だけど…」「隊長!! 隊長隊長!! 隊長~!!」
「……」
朝っぱらからフロース様の発言を押しのけてやって来るのは言わずもがな、レイク・アンダーベルだ。
「隊長!! 聞きました!?」
どうせ仕様も無い噂話を持って来たのだろう。
「分かった、分かったから、落ち着け。話は後で聞くからそこの休憩所で待っていてくれ」
「え? 何でですか?」
「今俺は姫様と話している途中だ」
「あ! すみません、フロース様」
ーーまたお前にはフロース様が見えて無かったんかい。
早く行けとレイクの肩を押しやり、なんとかその場から追い出すことに成功する。
「…すみません」
「いいのよ」
やはりフロース様はお優しい。何回も似たような場面に遭遇しているにも関わらず、あんまり怒らないのだ。普通の王族だったら話を遮られた時点で、上司・部下仲良く首が吹っ飛んでいる所だろう。
「それで、昨日の話だけど」
「はい?」
「あなた、上着を貸してくれたじゃない?」
「ああ! 忘れていました」
「……」
そうだ、昨日寒空の下で震えるフロース様の肩に外套を掛け、颯爽と去るつもりが、ご機嫌斜めのお馬様のお蔭で、とぼとぼとゆっくり去ることとなった恥ずかしい記憶を忘却の遥か彼方へと押しやっていたのだ。
「あれ、ラウルスの上着なんです」
「え?」
「前にランドマルク領に行った時に借りたままで、昨日返そうと持って行ったんですけど、返しそびれてしまって…」
一年前、パライバ殿下の公務で隣国へと行く途中、大雨で先へ進むのが困難になり、近くの街で待機をしたことがあった。その街こそがラウルスが領主を務めるランドマルク領で、雨で濡れてしまった外套の代わりにラウルスの私物の上着を貸してくれたのだ。本人は返さずにそのまま使ってくれても構わないと言っていたが、かなりの上物だと分かっていたので、いつか返そうと決めていた。
昨日の訪問ついでにラウルスに返そうと決めていたが、公爵家の玄関口で、執事のオッサンに持っていた外套を「預かります」と言われて、何故か言葉に逆らえずそのまま渡してしまい、帰りに着せてくれようとしたので丁重に断って再び手にしたまま出勤してしまおうと思っていたのだ。
自分の私物だったらフロース様の肩になんか掛けていない。それに洗濯をして一日太陽の光に当てていた清潔な上着だったからこそ、掛ける事が出来たのだ。
「そ、そうだったの」
「はい。なので直接ラウルスに返してくれると嬉しいのですが」
「分かったわ」
「ありがとうございます」
なんとか借りていたものが本人の手に渡るようで一安心する。一方のフロース様はそのまま去る事無く、無言でこちらを見上げていた。
「まだ何か?」
「いえ…これから訓練なのよね?」
「はい」
「……」
何だか歯切れの悪い状態のまま、フロース様とは別れる事となった。何か言いたいことがあったのだろうか?いつもの彼女とは違い、元気が無いように思えた。
◇◇◇
とっとと野郎共の訓練を終えて帰りたかったが、休憩室で待っていたレイクの相手をしなくてはと思い、急いで向かう。
「隊長!!」
「話はなんだ? このあと訓練だから手短に頼む、というかお前も訓練だからな」
「分かってますって! 話はですね、サーシャがオパール殿下の親衛隊長になることが決まったみたいなんですよ」
「…なんでお前が知っているんだよ」
「あ、あれ? 隊長知っていたんですか」
「パライバ殿下から聞いていたんだよ。全く、どこから情報が漏れたのか」
サーシャ・アレイク。
アレイク侯爵家の三男坊で、幼馴染だったオパール第六王女との婚約も間近だと周囲から言われていた。今年で二十五歳になる、若干人見知りで大人しい性格をしている青年だ。
「やっとオパール殿下を【自分だけが姫様と呼べる…】って喜んでいましたよ」
「……」
ーー情報源は本人か。
しかし【自分だけが姫様と呼べる】というのはどういう意味なのか?殿下は姫様に変わりはないだろうから、好きなだけ呼べばいいじゃないか。と、疑問に思ったのでレイクに訊ねてみた。
「【自分だけが姫様と呼べる】って何だ?」
「う、うわ…やっぱ隊長知らなかったんですね」
「何の話だ?」
「この国では成人を迎えた王族を【姫】って呼んじゃ駄目なんですよ」
「は?」
「だーかーらー、大人の王族の女性を姫様と呼んでいいのは、近しい者、例えば親衛隊長だったり、婚約者だったりと限定されています」
「……」
王族の姫君の親衛隊長とは婚約者のようなものだ。というか、何だその決まりは!!聞いた事が無いぞ!!
…だから俺がフロース様を姫様と呼ぶ時、周りは変な反応をしていたのか。
「みんな隊長とフロース様はデキてるって言っていたんですよ」
「っはあ!? どうしてそうなるんだ!?」
「だってよくフロース様と一緒に居るし」
「居ねぇよ!!」
「よく二人だけで休憩所に居るでしょう?」
「それは…」
何回かフロース様に誘われてお茶を飲んだがそれだけだ。決して何も疚しいことはしていない。まさか誰かに見られていたとは思わなかった。結婚前の女性が異性と二人っきりになるのは良くない。分かっていたが、折角誘ってくれているのに、その申し出を無下にする訳にはいかなかったのだ。結果、俺の余計な気遣いがフロース様にとって良くない噂を広める事となってしまった。次からは断らなければと心の中で誓う。…が、話はこれで終わりかと思いきや、まだまだ埃は出るようだ。
「それにフロース様に何か言われても隊長ってニコニコしているでしょう?」
「してねえよ」
「してますって」
「怒られている時にニヤニヤしていたら余計に怒られるだろう」
「でも薄笑いをしてましたもん。台詞を付けるなら【姫様、なんか怒っているけど超可愛い】といった感じに」
「……」
冷静になって考えてみれば、数分前も挨拶をしてくれたフロース様をそんな感じに見ていたかもしれない。でも、下心は無い。本当だ。
美術館にある芸術品は見る事は許されているが、触れてはいけない絶対の決まりがあるだろう?もしくは、信仰する女神に愛して欲しいなど思うだろうか?そんな感情を抱くこと事体が美の化身への冒涜だろう。公爵家のお姫様はそれ位に遠い存在だと思っている。更にフロース様の周りには【この姫君には下心のある状態で決して触れてはいけません。疚しい気持ちを抱くなど以ての外】という立て看板が何枚も常にグサグサと周囲を囲むように刺さっているのだ。その文字を読めない大馬鹿者ではない。
「なんかおかしいなって思っていたんですよね」
「?」
「だって王族が王族に仕えるって前代未聞ですもん」
「そうなのか?」
「はい。例は無いと思いますよ」
「……」
「隊長が居るからフロース様は来たんですよね!!」
「だから違うっての!! 本当に王族への接し方を知らなかっただけだ。それに親しげに見えるのは、フロース様と俺には共通の友人が居るからなんだよ」
「ええ~そうなんですか?」
「ああ。だから変に怪しむな」
「……は~い。他の隊員にも伝えておきますね」
「それは助かる」
こうしてレイクとの会話も終わり、楽しい楽しい訓練の時間となった訳だが、フロース様を姫様と知らずに呼んでいたことを思い出しては、恥ずかしさでどうにかなってしまいそうだった。
もう、姫様などと呼べない。というか、今更名前で呼ぶのも恥ずかしいんだが、俺はどうすればいいのだろうか?