名なしのジョン
ジョン・ドゥ。その名の意味は、グーデンの古い言葉で“名無しのジョン”らしい。
これは自分で自分につけた名だった。初めてそう名乗ったのは、戦場でアンソニーと出会った時。確か、墜落した飛行機の下から、彼に引きずり出してもらったのだと思う。
明確に覚えている。
自分の所属していた戦闘機部隊。どんな戦いにおいても必ず勝利を収めてきた空の精鋭たちが、まるでハエのように叩き落された日だ。
ジョンも撃墜された一人。幸い命は助かったが、自分の飛行機に足を挟まれてとても脱出できる状態ではない。
敵歩兵が迫ってくる中、果敢に乗り込んできてジョンを救出したのがアンソニーだ。
前に聴いたことがある。“なんであんな危険を冒したのか”と。
アンソニーはケロリとした顔で“空のお前に助けられたからだ”と応えた。
アンソニーの働きでジョンは“人間の”負傷兵として、アンソニーと共に彼の実家であるこのエイブラハムに送られてきたのだ。
手先が器用だった彼は、すぐにジョンの義足を作ってくれた。
・・・そうだ。その時だ。初めてジョン・ドゥと名乗ったのは。
名前を聞かれて、咄嗟に言おうとした名があった。
以前の仲間達に付けてもらった名前。“ドール”という陰鬱な名前を取り払ってくれるような、すばらしい名前。
その仲間達を全て失った今。もう誰も、その名の意味を理解してくれるものは居ない。
そう思った瞬間、ジョンの口から出たのが“名無しのジョン”だ。
「名無しの、ジョン」
つぶやいてみる。
それ以上でも、以下でもない意味の言葉。
ジョンというのは、最もグーデンではありふれた名前だ。名前のわからない死人や、落し物なんかが、よく“ジョン・ドゥ”と呼ばれる。名無しの権兵衛のようなものだ。
この町の人たちは、全員ジョンがどんな者なのか知らない。アンソニーは、“大学の知り合いの弟を面倒を見てる”と言っているらしい。
実際その嘘はありがたかった。
田舎ではあるものの、リンカン大学はグーデンでもなかなか上位の大学だ。生徒の数は計り知れないため、誰の弟なのかなど突き止めようが無い。
その嘘に乗って、ジョンは愛想を振りまけばいい。こういう嘘はついていて苦しくない。
騙しているという感覚は否めないが、悪いことをしているわけではないのだから。相手も、ジョンの少年のような容姿にすっかり油断して、その嘘を信じ込んでいる。
誓って言うが、それ以外の嘘は何もつかないようにしている。アンソニーとの生活や、普段何をしているのか、何時に起きているのか、趣味は何か、何がすきなのか。
そういう細かい話は、矛盾を修正するのが面倒だ。だから、大雑把な嘘しかつかない。それに、自分を設定しているようでなんだかいやだ。
などと、色々考えているうちに、ジョンはアンソニーから頼まれた手紙をポストに投函した。
その時、後ろから大きなエンジン音を立てて、軍のトラックが走り抜けていった。
荷台には兵士が住人ほど乗っている。戦火が及ぶ事は無いとはいえ、一応、軍が迫っているのだ。国境に防衛線を布くことになんら無理は無いが、町の人たちはあまりいい顔をしない。
そのため、兵士の町への立ち入りは原則禁止になっているらしいが、元軍人としてはあまりに酷に思えた。確かに、戦闘など無いのが一番なのだが、いざ戦争になって護ってくれるのは軍人なのだから。それを“戦争の原因だ”“戦争に手をかしている”などと脳の無い批判を行うことには、少しばかりジョンには抵抗があった。
だがそのことは口にしない。なぜなら、軍服を脱いでラフな格好をした兵士を、街中で何度も見かけているからだ。
この町の人々にとっては、軍服そのものが軍人なのであって、人間だけなら軍人ではないらしい。
まったく能天気だ。
とは言え、この町の人たちは嫌いではない。優しいし、明るい。泥と汗にまみれ、銃を抱えて弾丸の飛び交う中を走るより、こんなノンビリとした締まらない町で生活するほうがよっぽど楽しい。
この6年の間に、規律ではなく法律の中で過ごすことの気楽さを、ジョンは痛いほど知った。
とはいえ・・・。
空を見上げて、必ず思うことがある。
――また、飛びたい。
エンジンの振動、浮遊感、重力、ハンドルの重さ、トリガーグリップの太さ、引き金の硬さ、プロペタの風を切る音。全ての感触が、ジョンの心を揺さぶる。戦場の感触が。
空を仰いだあと、暫く目を瞑った。
太陽の暖かさが瞼に触れる。冷たい風が頬をなでる。
身の凍えるような冷たい風を鼻いっぱいに吸い込むと、ジョンは目を開けて近くの店に入った。
「おっさん。砂糖くれ」
カウンターでラジオを聴きながら新聞を読んでいた小太りのオヤジが目を上げてジョンを見る。
「・・・おい、ジョン」
新聞を折りたたみ、カウンターの上に放る。今朝読んだ新聞の記事が、再びジョンの目の前に現れた。
「いつも言ってんだろ。砂糖が欲しいっつー時はな、何グラム欲しいのかってことまで言うもんだ」
「いいじゃん。プライスんとこの家。いつもと一緒の量だぜ」
「そういう問題じゃねぇんだって。あのな、挨拶もなしに・・・」
「はいはい、おはようこんにちはわこんばんわ。砂糖くれ」
「・・・アンソニーのやつ、よくこんな悪ガキ拾ってやったもんだぜ」
ブツブツといいながら、オヤジはジョンに背を向けて皮袋に砂糖を入れ始めた。
「・・・ところで、さっき店の前を軍のトラックが通ったみたいだけど、新しい兵隊かな」
「そうだろう。グリーゲンの野郎、バルカニカの要求を蹴りやがったらしい」
グリーゲン。リヴァ・グリーゲン。ヒルデグリムの首相であり、今回の戦争勃発の原因といわれている。
ヒルデグリム人は彼のことを狂信しており、彼が右を向けといえば必ず右を向くだろう。グーデンのタイムズ紙では、彼のことを“帝国のカリスマ”と評したが、不謹慎かつ不適切として政府からお叱りを受けたようだった。
「終わるな、あの国」
再び見覚えのある新聞を眺めながら、ジョンはつぶやいた。
「ガキが。簡単に考えるんじゃねぇよ」
「なんで?」
「あの状況で戦争を起こすって事は、なにか手があるか、グリーゲンが単なるアホかだ。アホってのはまずありえねぇだろ?」
「・・・無くはないと思うけどな」
「かーっ。これだから子供はぁ」
半分笑いながら頭を抱えると、オヤジはベレー帽の上からジョンの頭をワシャワシャとこすった。
「ま、戦争ってのはいろいろと事情が深いんだよ。とりわけ、今の戦争はな。剣と槍で戦ってた時代よりややこしいんだ」
「おっさんは、理解できてんの?」
「何が?」
「戦争を起こす理由」
オヤジは一瞬考えてから、黙って袋を出しだした。
「5200硬貨だ。はやく出して帰れ」
「・・・知らないんだ」
「知らな・・・くわないけどねぇ~」
「・・・ふーん」
特に何も言わず、金をカウンターに置いて袋を手に取ると、ジョンは店を出た。