“覚えてない”
はじめてみた空は、黒い煙に覆われていた気がする。
目の前を激しく行きかう飛行機。耳を裂かんばかりに鳴り響く機関銃の音。
地上では常に土が跳ねる。怒号が鳴る。弾丸が飛び交う。キャタピラを履いた鉄の塊が味方を蹂躙し、無残に潰された戦友を抱えて泣き叫ぶ兵士が見える。
かなり早い段階で、耳は聞こえなくなっていた。でも、うるさいと感じた。
視覚的に。感覚的に。精神的に。直感的に。
横を飛んでいた飛行機が火を噴いて落ちていく。なんと叫んだのかは覚えていない。名前だった気がする。
誰の名前かは覚えていない。出撃する前には、肩を組んで酒を呑んでいた気がする。
怒鳴りながら指に力を入れた。なんと怒鳴ったのかは覚えていない。何に力を入れたのか覚えていない。
ただ、怒りが俺を支配してた気がする。心が業火に支配されている一方で、「また敵を落としたな」と、冷静に思った気がする。うれしかった、気がする。
「ジョン。ジョン!」
叫ぶ声が聞こえて、ジョンは目を覚ました。部屋に差し込む明かりがすがすがしい朝を思わせた。
小鳥のさえずりも聞こえる。
夢を見ていたようだ。懐かしい夢。決して明るくない夢。
眠気眼をこすりながら、体を起こして伸びをする。
「うなされてたが・・・大丈夫なのか?」
枕元で自分の名を呼んでいた若い男が、心配そうに問う。
彼はアンソニー。アンソニー・プライス博士。学者だ。彼とは、ひょんなことから数年前から同居している。
「・・・ちょっと、いやな夢見た」
「またか」
アンソニーはため息をつくと、苦虫を噛み潰した顔で腰に手をあてがう。
ジョンと接するときの、彼のクセだ。
「忘れられないんだな」
「なかなかな・・・」
「・・・まぁいい。朝飯、準備しといたから。ちゃんと食っとけよ」
言いながら、アンソニーは部屋から出て行った。
シーツを跳ね除け、ベッドから降りる。頭に手を伸ばし、ボリボリと掻く。爆発にでも巻き込まれたかのように乱れに乱れている。みっともないまま下へ行くと、またアンソニーにボヤボヤ言われるので、ジョンは部屋に置かれた鏡の前に立った。
自分の姿を、見る。
年はの行かない少年の姿が、そこには写っている。
これがジョンの。ジョン・ドゥの姿だ。
彼はドールと呼ばれ、主に土から作られた土人形だ。グーデン大公国軍部が開発した、死の概念、恐れ、躊躇を持たない兵器として作り出された、無意識に殺戮を行う兵士。の、はずだったが・・・。
実戦導入されたのは、ジョン一人だった。ドールは事前のプログラミングによる命令が無くては動けない。予測の範囲外である奇襲、電撃作戦には全く反応できないという欠点が判明したので、試作段階でほとんど破棄されている。
どういう力が働いたのか全くわからないが、ジョンには生まれつき考える力があり、判断する能力があり、人の言葉を理解できる心を持っていた。それゆえに、ほんの数年前までは軍務に従事していた。
今では軍を退役して、グーデンの田舎、エイブラハム地方で戦場で出会ったアンソニー・プライスの研究を手伝っている。
櫛を手にとってある程度髪型を弄ったが、全く元に戻ろうとしない。
何度か挑んだものの、結果は同じで余計に酷くなった。ジョンはため息をつくと、鏡のしたの引き出しを開けて髪紐を引きずり出し、後頭部で無造作に結んで朝食とアンソニーの待つ一階へ下りた。
部屋に入ると、焼けたパンとコーヒーの匂いが脳を刺激した。
毎朝の楽しみといっていいだろう。だが、準備しているのはアンソニーではなく、アンソニーの姉のキャロル・プライスだ。
結婚はしたものの、夫を戦場で失ったためにだらしの無い弟の面倒を見ている優しい姉だ。彼女はジョンにも優しく、毎日飽きない食事をジョンとアンソニーに出してくれる。
「おはよう、ジョン」
「おはよう。アンソニーは?」
「新聞取りに行ったわよ」
ちょうどコーヒーのマグカップが置かれた席に、ジョンは座った。
コーヒーの香ばしい匂いが、再びジョンの鼻を満たす。
ラジオからジャズの音楽と共に、小気味良いアナウンサーの声がグーデン全域の天気予報を読み上げている。
「エイブラハムは、夕方から雪みたいよ」
トーストと目玉焼きをジョンの前に置いて、キャロルはうんざりしたように言った。
「いよいよ冬が来るわねぇ」
「もうそんな時期か」
「えぇ。1年は早いわね」
自分のマグカップを持って、ジョンの正面に腰掛ける。
「ジョン。最近よくうなされてるんですって?」
パンを口に運びながら、ジョンはうなずいた。
「なんかねー。昔の夢をよく見るんだ」
「あれから6年も経つのに・・・」
「戦場のトラウマは、なかなか消えないもんだぜ、姉さん」
扉を乱暴に開けながら入ってくると、アンソニーはぶっきらぼうに新聞をテーブルに放ってキッチンに向かった。機嫌が悪そうだ。
「朝からご機嫌ね、アンソニー?」
「そりゃもう。ヒルデグリムの暴挙っぷりを見ればこうなりますよ」
「食卓に新聞を放る方がよっぽどの暴挙よ」
怖い顔をして言うキャロルをよそに、ジョンは新聞を手にとって記事を読んだ。
【ヒルデグリム帝国、ランダン王国強襲】
という見出しだった。ヒルデグリムは、かつてグーデン含むシュトルフ州数カ国に及ぶ戦争を引き起こした国だった。この戦争に敗北したことで、戦勝各国により破格の借金を負わされている。
追い込まれた末、再び選んだのが戦争だった。すでに数カ国がヒルデグリムの戦火に脅かされてはいるが、借金によって札束が紙くずほどの価値しかないかの国に大した軍事力は無かろうと、グーデンは沈黙を護っている。
現に、現在バルカニカ連邦がヒルデグリムに侵攻中止を強く要求しているため、そろそろヒルデグリムの威勢もおさまるころだろう。軍を動かすまでも無い。
「でも、まだ軍を出せるほど力が残ってたんだな」
ジョンは丁寧に新聞をたたんで、手を伸ばしてきたキャロルにそれを渡した。
「金持ちが飢え死にする状況にはなってても、一応、“帝国”だからな。虚勢を張るぐらいはできるんだろ」
ボール一杯にフレークを盛って、アンソニーはテーブルに着いた。彼の朝飯はいつもこれだ。
「なんでいつも、戦争を選ぶのかしら・・・」
キャロルが記事に目を落としながらつぶやいた。
「そういう種族なんだろ、ヒルデグリム人ってのは」
「応えになってないわ」
キャロルは再び、うんざりした顔で食器棚にその新聞を放り投げる。
さすが姉弟、と、ジョンはパンを食いながら思った。
「ともかく、ヒルデグリムもそろそろ黙るころだろう。大丈夫、グーデンにまで戦火は及ばないさ」
と、なんとも能天気にフレークを口に運ぶが、一方のキャロルは不安そうな表情でアンソニーを眺めていた。やがて、「それもそうね」とため息をついてパンにかじりつく。
時々、キャロルは本当に戦争で夫を失ったのかと疑ってしまう時がある。
戦争の話になっても、夫の話になっても、全く悲しそうな表情も寂しそうな表情も浮かべない。本当は、“居る”などといって見得を張っているのではないのかと思えてしまう。が、もちろんそんな、デリカシーの無い質問は吹っかけない。
「あ。そうだ、ジョン」
「ん?」
「この後、大して用事は無いわよね?お砂糖が切れそうなのよ。後で、買ってきてちょうだい」
「ついでに、リンカン大学に手紙を出してきてくれよ」
まだ暇だとも言っていないのに、姉弟そろってジョンにお使いを頼む。これも彼らの似ているところだ。もちろん「あぁ、いいよ」と言わざるを得ない。
実際暇だから。