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心象風景の旅人

作者: 彩珠那由正
掲載日:2026/05/29

 子供の頃、母親に良く言われた言葉を思い出す。

 

 人の心が分かる、優しい人間になりなさいと母はよく言っていた。

 

 初めて母親にその言葉を言われた時、私の脳裏に浮かんだのは、こんな疑問だった。

 

 人の心って、なんですか?

 

 それを知るための旅を、私は続けている。


 心象風景という言葉がある。

 

 目に見えない心を象る、風景。

 

 こうやって言葉にしてみると、少しおかしいと思わないだろうか。

 

 心というものに形はなく、抽象的な概念でしかない。

 

 そんなハッキリとした形を持たない心というものに対して、物の形を象るという意味合いを持つ字が次にくる。

 

 そして風景はある場面の情景や、ありさまを意味する言葉。

 

 つまり心象風景とは、形を持たない心を象る風景ということだ……なんて言ってしまうとなんの捻りもない、そのままの意味になってしまうのだけれども。

 

 かの宮沢賢治は、心象スケッチという言葉を用いていた。

 

 彼は心象というものを宇宙や無限の時間につながるものと考え、人間の心象を描くということは、個人的なものを超えて普遍的なものをスケッチすることだと考えていたらしい。

 

 難しくて、良く分からん。それが宮沢賢治の言葉に対して、子供の頃に感じた私の素直な感想だった。

 

 しかし、大人になって旅を続けていく内に、ほんの少しは彼の言いたい事が分かるようになってきたように感じる。

 

 だらだらと目的地を定めることもなく、絵を描きながら旅を続けている私だが、この旅という経験を通して少しは成長しているということなのだろうか。


 そうだったら良いと思う。


 ◇ ◇ ◇


 何処かも分からない街の住宅街。

 

 私は右手に紺色のスーツケースを引き、左肩にメタルイーゼルを収納したバックを掛けながら、その道を歩いていた。

 

 そろそろ夜の帳が降りそうだと頭上を見上げた私の視界に、映るものがあった。

 

 六階建てのマンション。

 

 その屋上にある柵を、今にも乗り越えようとしている人の姿だった。

 

 このままだとあの人影は、私の頭上に落ちてくるなー。

 

 そんな事を呑気に考えながら、私はその場で立ち止まり、頭上を見上げ続けた。

 

 柵を乗り越えた人影が、眼下にいる私を見た。

 

 視力の良さに自信を持つ私には、その人物が驚いている様子が分かった。

 

 このまま見て見ぬフリをして旅を続けるほど、私も落ちぶれてはいない。

 

 頭上を見上げたまま、私は手で罰マークを作り、飛び降りるなという意思表示をした。

 

 屋上にいる人物は、動くこともなく眼下にいる私を見下ろし続けている。

 

 お願いだから飛び降りないでくれと祈りながら、私はマンションへと不法侵入し階段を上って屋上を目指した。

 

 屋上の扉を開くと、そこにはまだ人の姿があった。

 

 その事実に安堵しながら、私はその人物と柵を挟んで対面する。

 

 年の頃は、二十代前半といったところだろうか。私よりかは、少し若く見える。

 

 一度も染めた事が無さそうな、自然な色をした黒い長髪が、夜風を受けて靡いている。

 

 タレ目が特徴的な彼女の瞳は大きく澄んでいて、しかしどこか憂いを帯びていた。

 

 頬のラインには女性らしい丸みがあり、その顔立ちから柔和な印象を受ける。

 

 そんな彼女は、困ったような視線を私に向けていた。

 

 こうやって見つめあっていても時間が過ぎるだけだと思い、私は彼女に声を掛ける。

 

「死ぬのかい?」

「えっと……はい、死のうと思っています」

「聞いた話なんだけど、飛び降り自殺ってすぐには死ねないんだって。苦しいのが、結構長い時間続くんだって」

「それは……とても恐ろしいですね」

「そうでしょう? なら、そこから飛び降りる事をやめて、とりあえず私と話でもしない?」

 

 しばらく逡巡している様子を見せていた女性だったが、やがて柵を超えてこちら側に戻ってきてくれた。

 

 考え直してくれたのだと、私が一安心したのも束の間、彼女はペコリと頭を下げた後にこんなことを言った。

 

「今日は邪魔が入ったので、死ぬのは明日にします」

「ええ……死ぬつもりなのは変わらないんだ」

「そうですね……はい、死のうと思います」

「なんで死にたいの?」

「色々と、疲れ果ててしまったからです」

「ふむ……もう少し詳しく話せるかな?」

 

 出会ったばかりの私に対し、多くを語るつもりはないらしい。

 

 それから彼女は無言で、ただ俯くだけだった。

 

 ならばと私は、俯く彼女の形の良い顎に指を添え、無理やりこちらを向かせた。

 

「え……」

 

 驚いたように見開かれる彼女の両目、その奥を覗き込むようにする。

 

 そして私は、彼女の心象風景を覗いた。


 ◇ ◇ ◇


 心とは、なんなのか?

 

 哲学の一分課として学問にもなっているその抽象的な概念の本質を探求する私の旅には、未だ終着点が見えていない。

 

 ただ、その過程で私はある術を身につけた。

 

 それは、読心術と呼ばれるもの。

 

 一般的にはテレパシーのような能力として知られているが、私のそれはちょっと違う。

 

 私は他人の目を見ることで、その人間の心象風景を覗く事が出来た。

 

 誰しもが心の中に思い描く景色、心象風景をその身に宿しているのだ。

 

 自らの命を断とうとする女性の心象風景を覗いた私は、大きな鳥籠の中にいた。

 

 その鳥籠には、所々に錆が見られる。

 

 鳥籠内の至る場所に、様々な物が乱雑に散らかっている。


 無数にある鳥の羽。

 

 掃除用具調理器具といった生活雑貨。

 

 香水や口紅といった美容品の数々。

 

 錆びた鳥籠の外には、見渡す限りの青空が延々と続いている。

 

 その事から、私の立つ場所が大空に浮かぶ鳥籠の中であると分かった。

 

 頭上を見上げると、鳥籠内に設置された止まり木に、一匹の青い鳥が止まっていた。

 

 青い鳥は果てしなく続く青空に想いを馳せるかのように、ただじっと鳥籠の外へ視線を向けている。

 

 よく見ると、鳥は籠から伸びる無数の鎖によって繋がれていた。

 

 あれでは、空に飛び立つ事は不可能だろう。

 

 錆びついた鳥籠の中、空への飛翔を夢見る鎖に囚われた青い鳥。

 

 それが、彼女の心象風景だった。


 ◇   ◇   ◇


 私はスーツケースから画材一式を取り出す。

 それから、スーツケースとは別に持っていたバックからメタルイーゼルを取り出して、その場に設置しする。

 

 イーゼルに真っ白なキャンバスを立て掛けたタイミングで、今まで黙って私の様子を眺めていた女性が疑問を投げかけてくる。

 

「あの……なにを?」

「これから君の為に、絵を描こうと思ってね」

「絵……ですか?」

「うん。もし良かったら、明日またここに来てよ。その絵を、君にあげるから」

 

 そう言ってから私は、絵を描く事に集中する。

 

 私は一度絵を描き始めると、もう他の事が一切見えなくなってしまう。

 

 数少ない明かりを頼りに、私は一心不乱にキャンバスに向かって筆を走らせた。

 

 絵を描き終えた時には、すでに日が昇っていた。腕時計を確認すると、時刻は朝六時を過ぎた辺りだった。

 

 辺りを見回しても、昨日ここから飛び降りようとしていた女性の姿はなかった。

 

 さて、彼女は今日もこの場所に来てくれるだろうか。

 

 それは分からないが、とりあえず食と睡眠を求めて、私は一度マンションの屋上から去る事にした。


 ◇   ◇   ◇


 ご飯が食べられて、睡眠を取る事が出来て、シャワーも浴びられる。

 

 そんな旅人にとっては天国のようなネットカフェという施設での時間を満喫した私は、夕刻過ぎにまたマンションの屋上へと足を運んだ。

 

 あまり期待はしていなかったが、意外な事に女性の姿はそこにあった。

 

 まだ名前も知らない女性は、やってきた私にぺこりと頭を下げる。

 

 私はそんな彼女に対し、昨日描きあげた絵を手渡した。

 

「……綺麗」

 

 私から受け取った絵を見て、彼女は小さな声で感想を漏らした。

 

 鳥籠の中から鎖を引きちぎり、空へと羽ばたいていく、青い鳥の姿が描かれた絵。

 

 彼女はその絵を、気に入ってくれたようだった。

 

 その事実に安堵しながら、私は彼女に言葉を向ける。

 

「その絵、あげるよ」

「え……良いんですか?」

「うん。君の為に描いた絵だからね」

「ありがとうございます。嬉しいです」

「そう思ってくれたなら、良かったよ。その絵はね、君が地面へと落ちるのではなく、その青い鳥のように自由な空へと羽ばたく事を願いながら描いたんだ」

 

 私の言葉を聞いて、女性は俯いてから唇をキュッと噛んだ。

 

 しばらく彼女はそのままだったが、やがて顔を上げては何か決意を秘めたような瞳を私に見せる。

 

「本当に……ありがとうございます」

「どういたしまして」

 

 そう言って、私は彼女に背を向ける。

 

 そんな私の背に、呼び止める声が掛かる。

 

「待ってください……あの、またお会いできますか?」

 

 私は振り返る事なく、彼女に手を振ってから答えた。

 

「さあ、どうだろうね。私は自由気ままな旅人だから、それは分からないな」


 ◇   ◇   ◇


 私の旅には、目的地がない。

 

 たまに絵を描いては、それをお金に変えながらも、読心術で様々な人の心象風景を覗き、心という人の身に宿る風景へと想いを馳せる。

 

 そんな探求の旅を、もう何年か続けている。

 

 ネットカフェでもう一泊した後、早朝に私は次の地を目指して旅を続ける事にした。

 

 さて、次に辿り着くのはどんな地か。

 

 気ままに決めた方向へと足を向けていく。

 

 そんな私の耳に、ガラガラと何かを引きずりながら駆け寄る足音が聞こえた。

 

「あの!」

 

 声に振り返り、驚いた。

 

 昨日の女性が、白いスーツケースを右手に引いて立っていたからだ。

 

 それ以上に驚いたのが、彼女の髪だった。

 

 背中まで伸びていた長い黒髪が、首元でバッサリと切られていた。

 

「やあ、また会ったね。大層な荷物だけど、これから旅行にでも?」

「私も連れて行ってください!」

 

 女性の言葉に、私はしばらくポカンと口を開けたまま固まってしまった。

 

「貴方が描いた青い鳥のように、鎖を引きちぎってきました」

 

 昨日とはまるで別人のようだった。

 

 力強い目を向ける彼女に対し、私は驚きを隠せなかった。

 

「そうか……君は自由へと飛び立つ事にしたんだね。それに、私の旅に付いてきたいって?」

「はい。私も貴方のように、自由気ままに世界を旅してみたいと思ったんです」

「旅は辛いよ。楽しいことばかりじゃない。危険な目にあうこともあるし、お金がなくて食パン一枚で何日か過ごさなきゃいけない時だってある」

「それでも私は、貴方に付いていきたいです」

 

 どうやら、彼女の意思は固いらしい。

 

 まあ、旅は道連れという言葉もある。

 

 彼女の同行が、私の果てない旅を彩る一助となるかもしれない。

 

「付いてくるな……とは言わないさ。君はもう自由を手に出したんだろう? 君の思うがままに行動すれば良い」

 

 私の言葉に、彼女は顔をパッと華やかせてから私の横に並んだ。

 

 ふと、私はこれから旅を共にすることとなった彼女の名前さえ、まだ知らない事実に思い至る。

 

「ところで君、名前は?」

「ことりです。心に鳥と書いて、心鳥」

「……とても良い名前だね」

「ありがとうございます。貴方のお名前は?」

「私の名前は、みそらだよ。美しい空と書いて、美空だ。似合わない名前だろ?」

「そんな事は、ありません。なんだかとても心に響く、素敵な名前だと思いました」

 

 そう言ってくれた彼女と目が合う。

 

 一瞬垣間見た、心鳥と名乗った彼女の心象風景。

 

 そこには錆びた鳥籠はなく、果てなく美しい青空が広がっており、その空を自由に飛び回る青い鳥の姿があった。

 

 そして、新しい仲間を連れて、私の旅はまだ続いていく。

 

 いつか、心というものの本質を理解できるその日まで。

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