うちの妻は、一クラスを学級閉鎖に追い込んだ女です
仕事が終わり、俺はコンビニ袋を手に夜道を疾走していた。
今日は妻と定めた記念日の一つ、『スイーツ感謝デー』。互いに甘味を捧げ合うという、側から見ればラブラブな、俺からすれば命がけの行事に、あろうことか残業で遅刻してしまったのだ。
袋には、昨日から冷やしていたケーキに加え、詫びとして買い足した高級コンビニスイーツがパンパンに詰まっている。
モデル並みの美貌と、アスリート顔負けの身体能力を持つ自慢の妻。彼女の胃袋なら、この程度の追加投入は容易く収まるはずだ。
マンションの廊下を駆け抜け、我が家のドアの前に立つ。「ただいま」から「ごめんなさい」へのスムーズな移行を脳内でシミュレートし、いざドアノブを握った瞬間——全身に冷や汗が噴き出した。
尋常ではない。
扉の向こうから、物理的な重圧を伴う殺気が漏れ出している。
ゆっくりと開いた扉の隙間から、どす黒く、それでいて真っ赤な「何か」が溢れ出してきた。オーラなどという生易しいものではない。それは獲物を屠る直前の猛獣の気配だ。
「……おかえり」
「……ッ」
言うよりも脊髄反射でその場に土下座した。
彼女の恐ろしさは、小学校時代に喧嘩で一クラスを学級閉鎖にまで追い込んだのを見て、脳に深く刻まれている。
だが不可解だった。
彼女の沸点は熟知している。それこそ細胞レベルに至って。
遅刻の連絡は定時前に済ませてあるし、これほどの憤怒を買う「ミス」は犯していないはずなのだ。
「……入りな」
「は、はいッ!」
気をつけの姿勢でリビングへ。自衛官すら敬礼を忘れるほどの直立不動だ。
妻が顎で示したのはゴミ箱だった。その中には最悪なことに、無惨に喰い尽くされた今日の「お楽しみ」が入っていた。
俺は血の気が引くのを感じ、ゆっっっくり振り返る。
「食ったか?」
頬をガシッと掴まれ、至近距離で睨まれる。身長差二十センチ。だが、そこには女王と奴隷ほどの埋めがたい格差があった。
「き、昨日、下の階の弟と呑んでて……もしかしたら……」
その言葉が終わる前に、妻は寝巻きにヒールという異様な格好で玄関を飛び出していた。
俺は尻もちをつきしばらく放心状態。
我に返って裸足のまま後を追った時には、全てが終わっていた。
顔を真っ赤に腫れさせて吊るし上げられている弟。その足にしがみつき、必死に命乞いをする弟の奥さん。
「私の、私たちの楽しみを奪って、タダで済むと思ってんの?」
静かな声が、どんな咆哮よりも恐ろしい。
俺も弟の奥さんと一緒になって、妻の足にしがみついた。もはや悲劇を通り越して喜劇だが、背中に感じる冷気は本物だった。
後に、俺は一歳の息子に、震えながらこう語ることになる。
「いいか、母さんの食い物にだけは、絶対に手を出すな」
百聞は一見に如かず。
その息子も二歳にして、早くもその「世界の真理」を悟って震え上がることになった。
それを俺は、嵐が過ぎるのを待つ思いで、そっと自室に引きこもった。




