最終話
一連の騒ぎは、日々の嫌がらせに対する小金井の反撃ということで結論が出た。ただ今回の件によりA組の問題が浮き彫りになったことで、クラス全員にアンケートが配られ、一人ずつ面談が行われたので三鷹も見聞きしたことを素直に答えている。停学処分を受けた後帰ってきた滝川の教室内における立場も相当弱まり、今は大人しくしていた。寧ろこれまで積み重なった鬱憤を払さんと、一部の生徒から無視をされている。その内の一人は、滝川の取り巻きだった女子、その片割れだ。もう一人は変わらず滝川の傍にいるが、三鷹が聞いた情報によると、最近は自身の身の振り方について周囲に相談しているらしい。それらを遠巻きに見ながら、いつも通りに生活する他の生徒達。
結局この教室は、悪循環が作られたままだ。一つ、前と違うとすれば、見た目に気を遣う人間が心なしか増えた気がすると、三鷹はそう感じている。
テスト期間に差し掛かり、全ての部活が休みとなる。用を終えた者から帰宅していく中、例に漏れず三鷹も教材を鞄にまとめていく。A組まで迎えに来た逢坂と共に、校舎を出た時だった。視線を感じたような気がして、三鷹が振り返る。本当に気がしただけだったようで、目が合う者はいない。その代わり、三鷹の視界には校舎の窓越しに一人の影が見えた。
「ごめん、志保。やっぱり今日、先帰ってて」
「わかった。じゃあね」
「また明日」
三鷹は再び玄関口へ入り、靴を履き替えて、ホールにある階段を上り、すぐ傍にある2年A組を通り過ぎる。目的はB組の隣にある、空き教室だった。そこに、いた気がしたから。後ろ側の引き戸は開いていた。三鷹が物音を立てることなく足を踏み入れる。
外から見た時とは違って、人影は窓からグラウンドを眺めていた。自分以外の気配に気が付いたのか、ゆっくりと三鷹を振り返る。三鷹は、存在を確かめるようにその名を呼んだ。
「七海」
三鷹と目を合わせた七海麻衣は、窓から差し込む強い逆光を背に受けている。緩やかに微笑を浮かべた彼女に、三鷹はどこか神々しさを感じた。
「私に、何か用かな?」
同じクラスだというのに、三鷹は七海の声を随分久々に聞いた気がした。少しわざとらしいそれは、七海は自身がどんな用件で声を掛けられたのか確信していることを示している。三鷹が来ることを、確信している。
だから三鷹は、何の前置きを付けながら切り出した。
「似顔絵が席にあるのを見た時、すぐに前日ぶつかった小金井が配ったんだとわかった。でも、引っ掛かったんだ。小金井は、こんなに人の特徴を捉えた絵を描けるものなのかと。A組の教室前に張り出されている美術の課題、小金井の作品を見ていると、どうにもそんな風には思えなかった。あいつはお世辞にも上手いとは言えなかったから」
三鷹は拳を握りしめ、一呼吸を置いて口にした。
「あの似顔絵を描いたの、七海だろう」
「うん」
あっさり。あまりにもあっさり、七海は頷いた。その上でゆったりと続ける。
「同じクラスになった縁で、今年から小金井さんとは話すようになってね。最近、一緒に絵を描き始めたの。小金井さんは好きな漫画やアニメのキャラクターを、私は美術の練習としてクラス皆の顔を。二人の秘密だねって話していたのに、勝手に持ち出されちゃった上に、こんなことになって驚いたよ」
「私からも聞いていい?」と七海は小首を傾げた。
「何」
「あの鏡置いたの、三鷹君でしょう」
疑問系ではなかった。簡単なテストの、答え合わせのような。わかりきっている赤丸をつけるような、互いが通じ合った感覚を三鷹は覚えた。同時に、形容しがたい歓喜に打ち震える。
「そうだよ」
声まで震えてしまわないよう、三鷹は努めて冷静を装う。
「俺が滝川の席に、鏡を置いた。俺の宝物を」
三鷹が幼い頃、母方の実家に行った時。蔵に仕舞われている祖父の蒐集品から見つけた、少し値の張る手鏡。蓋を開け、中身を覗いた時から、それは三鷹の世界に張られていた膜を破いた。補正で出来た、淡くて分厚い嘘を。祖父に頼み込んで譲り受け、以降は心を許した幼馴染み兼恋人にしか見せたことはない。
「どうしてそんなことをしたの?」
どうして。どうしてか、と三鷹は自身の考えを纏めようと脳を回す。七海は急かさなかった。ややあって三鷹は素直な気持ちを答えることにした。
「醜いと思ったんだ」
「何が?」
「見た目を偽る、今の社会が」
そう、三鷹にとって醜いのだ。容姿補正アプリも、他人の見た目を評価することが許されなくなった現代も。
「誰かの為に過度な配慮をして、本当の姿を平等なんて綺麗事で塗り固めて。やがて最初からそうであったように、鏡の存在はなかったことにされた。それがどうしようもなく不快だった。この世界はもっと、正直であるべきだ」
三鷹の語気が興奮で強まっていく。
「似顔絵が配られた時、チャンスだと思ったんだ。クラスの中だけでも、一石を投じられる。皆の目を覚まさせることが出来るかもしれないって。その為にあの日、朝早く来て鏡を置いた。鞄ごと朝練に持っていけば、校内を探し回らない限りいつ登校したかがあやふやになる。俺がしたことなんて、それだけなんだよ」
七海は一つ頷く。
「私が登校した時、鏡は既に置いてあった。でも、滝川さんの日頃の行いにプラスして、皆が好奇心に負けたんだね。本人が白くて丸い物体の正体を確かめて、どんな反応をするのかを見るまで誰も触れようとしなかった。似顔絵を描いた人間、配った人間、鏡を置いた人間。その犯人がばらばらだったから、特定も難しかった筈なのに」
「小金井さんは本当に運がなかった」と口ではそう言うものの、七海の表情に同情は浮かんでいなかった。この様子だと、三鷹が敢えて廊下なんて目立つ場所で小金井の説得を始めたことも感付かれているかもしれないなと、思わず舌を巻く。
「何で俺がやったって分かったの?」
「逢坂さんが教えてくれたの。私が描いた写実的な絵を見て、幼馴染みも好きそうだって。鏡を宝物にしているからって話してくれた。私達、仲が良いから特別に。それを思い出しただけ」
「志保が……」
確かに三鷹は、逢坂に口止めをしたことはない。元来彼女は口が堅かったから。普段なら怒ったかもしれないが、三鷹はそうしなかった。七海は、それだけ逢坂に信頼されているのだと前向きに受け取り、期待を込めて口元が緩む。
「じゃあ七海も一緒の考えなんだな? そうなんだろう? 人は、そのままの姿が一番綺麗だと思うだろう?」
「確かに、人はありのままの方が美しいと思う」
「じゃあ――」
「でも」
早めの日没と共に、一際室内に橙色が差し込む。目映さが、三鷹の輪郭をより際立たせる。窓際を背に立つ七海は、逆光が益々強まったせいで仄暗い影を纏い始めた。
作り物めいた微笑を保った七海は言う。
「三鷹君と私は同じではないよ。一緒にしないで欲しいな」
一拍、二拍と置いて、三鷹は目を丸くした。
「……どういう意味だよ」
「そのまま。方向性が違うの。私は外面も、そして何より内面も剥き出しの、正直な世界を望んでいる。君は違う。逢坂さんから聞いた時にもしやと思っていたけれど、話をしてみて確信したよ。そりゃあ、容姿の補正には否定的だよね」
七海が人差し指を三鷹に向けた。
「だって三鷹君は、元から容姿が整っているもの」
何を言われたのか、三鷹は一瞬分からなかった。否、何故それを言われたのかが、理解出来なかった。
七海は幼子に教えるように、ゆっくりと続ける。
「容姿補正アプリは確かに映した人を偽りの姿で認識させる。周りもそれに合わせる。何で今、大多数の人がそれに肯定的なのかって? 例え嘘であっても、その優しさに救われる人達がいるからだよ。もう見た目にコンプレックスを抱かない、心ない言葉を投げつけられない。そこに安心があるから。でも、三鷹君には関係ないよね。本来の姿に、何一つ引け目がない。鏡を見て自身を知ってしまってから、正当に外見を評価されないことが、嫌になってしまったんじゃないかな。自分と無縁のことで本来受ける筈だった賞賛を得られないことに、苛立っていたんじゃないかな」
目を大きく瞠ったまま、言葉を返せないでいる三鷹。七海は更に言葉を重ねる。
「逢坂さんに告白したのも、本気で好きだからじゃないでしょう。気心が知れているのは理由の一つかもしれないけれど、何より惹かれたのは、彼女の価値観と、見た目。美人さんだものね。要は、耳当たりの良い言葉を吐くアクセサリーが欲しかっただけでしょう?逢坂さんも分かっていて付き合っているんだから豪気だよ」
先程まで神々しさを感じていたのに、いまはどす黒い怖気さえある。そんな三鷹を見透かしたように七海は笑みを深めた。
そして、言い聞かせるように、柔らかく、無情に告げる。
「君は鏡が好きだったんじゃなくて、鏡に映る自分が好きだっただけだよ」
瞬間、三鷹は教室を飛び出していた。
話し込む内に、人がほとんど減った廊下を駆け抜ける。頭の内を支配するのは、否定だった。
違う、違う。自分はそんなんじゃない。そんな低俗な理由で社会が嫌いな訳じゃない。なんだあの女。知った口を叩きやがって。お前に何が分かるって言うんだ。宝物を大切にしていた、その気持ちまで侮辱されて。鏡を壊されてでも真実を伝えようとした信念を、覚悟を。許さない。絶対に許すものか。やり返さなくては。何か、あいつの大切にしている物をぐちゃぐちゃにしてやらないと気が済まない。
辿り着いたのは美術部の部室だった。先月から鍵が壊れていてそのままなのを知っていたので、何の遠慮もなく入り込む。足を強く踏み鳴らしながら、一枚の絵の前に辿り着く。偶然、近くの椅子に置いてあった彫刻刀のセットは、誰かの片付け忘れだろうか。その内一本を乱暴に取り出し、強く握りしめた。呼吸が荒いのは走ってきたためか、それとも。三鷹はこれ以上、何も考えられない。目を血走らせ、揺れる視界で再び絵を捉える。
そうして衝動のまま、三鷹は刃を振り下ろした。
三鷹と入れ替わるように、空き教室への入室者が一人。
「今、かずと会った?」
「逢坂さん。うん、ちょっとお話してたよ」
未だ下校していなかった逢坂が声を掛けると、七海は何事もなかったかのように返事をした。丁度そこへ、廊下を通りがかった教師が顔を覗かせる。
「お前等、テスト期間なんだから早く帰れよ。いつまで残ってるんだ」
「すみません」
「七海さん、駅まで一緒に帰ろう?」
「うん。久しぶりだね」
教師と別れ靴を履き替えたところで、逢坂はふと聞いてみたくなった疑問をぶつけた。
「ねえ、どのくらい前から、どのくらいの内容を計画していたの?」
七海は照れ臭そうに小さく笑った。
「計画って程大それたものじゃないよ。最初に大まかな構想があって、来てくれそうな人達に目を付けてただけ。特に滝川さんと小金井さん。三鷹君は大穴中の大穴だね」
逢坂が感心したように眉を上げる。
「じゃあやっぱり、小金井さんにはクラスへの不満を煽る為に近付いたんだ?」
「うん。どれかが点火すればいいなあって、その程度。表立って庇わないとか、私が似顔絵を描いたとバレるとか、価値観を否定されるとか。火種を撒いた結果、爆発した誰かが怒りを私に向けてくれればそれで良かったの」
「目標達成、おめでとう」
「ありがとう」
七海がふと首を捻った。
「でも、どうして逢坂さんは、私に三鷹君について教えてくれたの?」
いつか聞かれるとは思っていたが、いざ質問されると逢坂はううん、と唸る。思考を束ねるように言葉を紡いだ。
「かずのことは好きだし、だから告白の意図を察した上でも恋人になったんだけど。やっぱり利用されていることはちょっと不快でね。釘を刺しておきたかったんだ」
「あとはね」、と逢坂は人差し指を口元に持っていき、密やかに、人を喰ったような笑みを浮かべる。
「私が貴方のファンだから」
七海は一瞬、目を丸くする。やがてゆるゆると瞼をいつもの位置に戻すと、もう一度逢坂に感謝を述べて共に玄関口をくぐった。
門を出る直前、校舎から誰かの叫びが微かに届いた気がしたが、どちらも振り返ることはなかった。
後日、七海麻衣は一枚の絵をコンテストに提出した。真っ黒な背景に、花瓶に挿された2輪の薔薇。題を『美の骨頂』としたその作品は、夥しい程の傷が付けられていたという。心配した大人達に、彼女は笑って頭を振る。
「これで完成なので、いいんです」




