第1話
幼い頃の少年は、母方の実家へ遊びに行った時、蔵に入ることが多かった。そこには、自分が大好きな祖父母にとっての好きが詰まっていたから。
大きな棚の一番下の段、段ボールの中に乱雑に入れられた祖父の蒐集品。その中に、小さな箱があった。まだ遠慮というものを知らなかったその子は、躊躇いなくそれを開ける。中に入っていたのは、少年の知らない物だった。
首を傾げながらも弄ってみると、すぐにその用途は判明する。少年は瞳を輝かせた。
一人の子どもの世界を覆っていた膜が、ぴりりと破れる音がした。
スマホのアラームで目を覚ます。折角懐かしく幸せな夢に浸っていたのに、けたたましいその音に三鷹かずは少しだけ機嫌を損ねる。確かめるように何度か瞬きをして、微睡みを消し去らんと自室を後にした。
洗面所で顔を洗い、化粧水を塗りながら正面を見る。映るのは、左右対称の顔。短めの黒髪。緑のTシャツに紺色のスラックス。洗顔が下手なので、襟元から胸元にかけてびちゃびちゃに濡れている。
「気持ち悪い」
感覚を払拭するように視線を外し、制服に着替えて家を出た。
程々に混んでいる電車に乗り込んで、席を確保する。斜め向かいに座る女子学生が、スマホを覗き込みながら、前髪を整えていた。外は強風でもなかったろうに、家でやれと三鷹は内心毒吐く。女子学生側の窓辺の広告には、見慣れたキャッチフレーズが浮かんでいた。
『誰もが優しく、美しい社会へ ロゼアル社』
三鷹は自身の眉間に皺が寄っていることに気付く。跡がついたら大変だと、指でほぐした。
高校に到着する。階段を上ってすぐの所に学年全員が授業で描いた課題の絵が張り出されている。小学校の風景みたいだと毎回思いながらも足を止めてしまう。満足したら教室へ入る。2年A組。高校に入ってからクラスのネームプレートだけが変わるその場所を、登校しやすくて三鷹は気に入っていた。
その時、出入り口で人にぶつかる。
「あ、ごめん」
バスケ部に所属し、体幹が良い三鷹には何てことない衝撃だったが、相手には違ったらしい。目の前には、尻餅をついた女子生徒が顔を歪めていた。手に持っていたであろうノートとスケッチブックが床に散乱している。三鷹はすぐさましゃがみ込んだ。
「まじでごめん。怪我は?」
聞きながら落ちた物を拾い上げる。その際、開いてしまった部分が僅かに視界に入り、え、と小さく声を漏らした。それが耳に届いたのか、目の前の女子生徒――小金井朋香がやや乱暴に自身のものを奪い、眼鏡越しに三鷹を睨み付けた。
「だっさ」
室内からそんな声が届く。小金井はみるみる顔を赤くしながら立ち上がり、教室を出て行った。三鷹は少しの間その様子に茫然とする。やがて悪い事をしたなと罪悪感を覚えながらも今度こそ教室へと入った。
既に半分以上の同級生が登校していたようで、中はそれなりに賑わっていた。すれ違った相手に挨拶を交わしながら、自席に鞄を下ろした三鷹は、呆れた眼差しを近付いて来た人物に向ける。
「で、誰がダサいって?滝川ぁ」
「あはは、小金井さんだよ。三鷹に言う訳ないじゃん」
「どっちにしろだよ馬鹿」
「痛ぁっ!」
滝川と呼ばれた女子の染めた金髪から覗いた額を三鷹は指で弾く。弾かれた箇所を押さえた滝川理沙は、けらけらと笑いながらスマホを取り出し、1つのアプリを起動する。
「もう、赤くなってないよね」
「このくらいでならないっての。いいから、後で小金井に謝っておけよ」
「絶対嫌。あの人、何考えてるのか分からないから気味悪いんだよね」
そこじゃないだろ、本当は。三鷹は咄嗟に出そうになった言葉を仕舞い込む。昔から、本音を隠すのは得意だった。滝川は画面を見つめながら髪を整えた後、意地の悪い笑みを浮かべる。
「ねえ。ビュティネスにはさ、小金井さんってどう映ってるんだろうね。三鷹、今度聞いてみてよ」
「聞く必要ない。いい加減にしろよ」
「冗談、冗談だよ! 退散しよ。ミタカん家のカズ君はノリが悪いねぇ」
「はいはいサヨナラサヨナラ」
おどけた滝川をしっしっと彼女が属する女子グループへと追い払い、三鷹は息を吐く。そして、スリープ状態の自身のスマホを見つめた。
ビュティネスとは、自身の見た目と身嗜みを確認するために出来た政府公認の容姿補正アプリのことだ。
外見至上主義、所謂ルッキズムの風潮が年々強まっていくのを打破する為、二十年前ロゼアル社によって開発されたこのアプリは、いつの間にか人々の生活に無くてはならないものとして存在していた。
例えば、洗面所。例えば、スマホ。例えば、階段の踊り場。最早それは何処にでも埋め込まれており、誰の姿であっても自己肯定感が上がるようにと、映した相手のありとあらゆるパーツがある程度バランス良く整うように設定されている。あくまでも、自然な範囲で。発表時に、姿を偽るなんてと物議を醸したそれはあらゆる差別を無くそうという世界の動きと共に受け入れられ、同時に人の容姿について言及することは、どんな内容であってもタブー扱いとなった。先の滝川の発言もかなりギリギリである。
現代の人間達は、ビュティネスを中心とした容姿補正アプリでしか、自身の外見を知らない。
「小金井に睨まれ滝川に絡まれ、朝から災難だったな」
「おまけにお前に声掛けられるしな」
「俺まで入れるなよ!?」
滝川と入れ替わるようにやって来た友人に八つ当たりしながら、三鷹は教材を机に突っ込んでいく。朝に部活動や委員会があった者達も戻ってきて、教室内は騒がしくなっていった。ふと、友人が空席に目をやる。
「出て行った小金井は兎も角、七海もいないな。美術部って朝に活動とかすんのかな」
「コンテストとか近いと個人の判断で朝も来られるらしいよ」
言いながら三鷹は、先程ぶつかった時のことを思い出す。小金井は、教室に戻れるだろうか。自称一軍女子である滝川と、その一派に何かと目を付けられている彼女。誰とも深くは連まないが、その要領の良さで嫌われることもない三鷹とは違う。小金井は交友関係が狭く、口数が少ない為クラスで浮いた印象があった。他人の現状を改善しようという慈愛の心は三鷹にはないが、それなりの常識や礼儀は弁えているつもりだ。自分が原因で暴言を吐かれてしまったのなら心配もする。
落としてしまったノート類は、ページが折れたりしていないだろうか。そこまで考えて、見てしまった中身が脳裏に過ぎる。小金井自身にとって、随分危うい物を持ち込んでいたものだ。あれを他の生徒に見られれば、どうなるかくらい分かるだろうに。
ふと思う。あんなものを持っていたが、彼女は何か部活動に参加していただろうか。無所属ではなかっただろうか。
いつの間にか、席は全て埋まっていた。小金井の姿があったことに微かな安堵を覚える。
浮かんだ何気ない疑問は、そのままチャイムの音に紛れて消えた。




