第8話:灰の街に生きる少女
森を抜けた先にあったのは、色を忘れた街だった。
屋根は崩れ、窓は黒く焼け、道の脇には割れた壺と折れた人形。
風が吹けば舞い上がるはずの灰は、湿った布のように地面へ貼りついて動かない。
「……ひどい」
ミナが息を呑む。
風の気配を探すように指先を上げたが、空気は重く沈黙していた。
リオは数歩進み、跪いて灰をすくった。
指の腹にざらりとした感触。
触れただけで、そこに残る“誰かの時間”が指先にまとわりつく気がした。
『慎重に、リオ』
胸の奥でアウラがささやく。
「わかってる」
角を曲がると、倒れた梁の影から小柄な影が動いた。
痩せた腕。
灰にまみれた髪。
少女が、こちらをじっと見ている。
「……旅人?」
乾いた声だった。
けれど、芯は折れていない。
「僕はリオ。こっちはミナ。通りがかりで、ここが――」
「“灰の街”。そう呼ぶ人もいる」
少女は淡々と言い、倒れた梁に肩を当てて持ち上げようとした。
身体が小さすぎる。
梁は軋んだだけでびくともしない。
「待って、手伝うよ」
リオは飛び込み、梁の端へ力を込めた。
ミナも反対側に回り、慎重に空気を押し上げるように手を広げる。
「風で支える、崩れないくらいに……よいしょ」
三人の呼吸が合い、梁がわずかに浮いた。
その隙に少女は中から布に包まれた箱を抱え出す。
梁をそっと下ろすと、街に再び静けさが戻った。
「助かった」
少女は胸に箱を抱き、息を整える。
「それ、大事なもの?」
「……家族の記録。燃え残った分だけでも、守りたくて」
彼女は布をめくり、焦げ跡の残る木箱の蓋を撫でる。
そこには幼い文字で名前が彫られていた。
「わたしはリサ。この街で、生き残った“記録係”」
「記録係?」
「灰は、忘れようとする人からすぐにこぼれ落ちる。だから集めて、残す。……いつか誰かが、ここに何があったのかを知れるように」
リサは立ち上がり、無言で手招きをした。
「来て。広場を見せる」
道の先、かつて塔があったという広場は黒く焦げた石畳に覆われ、
中央には折れた鐘の台座だけが残っていた。
リサは台座の前で足を止め、箱をそっと置く。
「この鐘が落ちた日、街は終わった。火と、崩れた石と、止まらない夜」
言葉は軽い。
けれど、そこに貼りついた“重さ”は隠せない。
ミナが口元を引き結び、空を見上げる。
風のない空は、器のように音を返さない。
リオは箱の前に膝をつき、掌に小さな灯りをともした。
ぽっ――米粒ほどの焔。
広場の影が柔らかく後ずさる。
光は、焼けた石を責めず、ただ輪郭を確かめるように揺れている。
「……怖くない火」
リサが思わず零した。
その瞳に、ほんのわずかな光が映る。
『炎は、怖がらせるためだけにあるんじゃない』
アウラの声が胸で響く。
リオは頷き、焔を指先で割いて二つにした。
ふたつの灯りが木箱の両側で小さく瞬く。
「ここで、少し温まろう。灰は冷たすぎるから」
ミナは気配ほどの風で灰の舞い上がりを抑え、空気をやさしく循環させた。
「深く吸って。焦げの匂いを押し出して、新しい空気を入れる感じ」
「……できるかな」
「ゆっくりでいいよ」
数呼吸分の静けさ。
灰の街にも、確かに“息”が戻ってくる。
「リサ、どうして一人で?」
リオの問いに、リサは焔を見つめたまま答える。
「皆、それぞれの“次”へ行った。ここに残るのは、終わりと始まりの間を歩く役目の人だけ」
「役目?」
「忘れたくない人がいる。……忘れられたくない人も」
ミナが首を傾げる。
「あなたは、“忘れられたくない人”のためにいるの?」
「違う。――“忘れないわたし”のために、いる」
言葉は静かに落ち、灰よりも重く沈んだ。
広場の隅で、崩れた壁がかすかに傾ぐ。
次の瞬間、石片がばらばらと崩れ落ち、灰の雲がぶわっと広がった。
「下がって!」
ミナが手を払うと、灰は軌道を変え、三人から離れるようにすり抜けていく。
リオは焔を少し大きくして視界を確保した。
『よく見て、足元』
「うん」
舞い上がりの収まった地面に、煤けた金具が転がっている。
鈴……の破片だろうか。
リサがそっと拾い上げると、中から黒く焼けた紐が垂れた。
「広場の鐘に下がってた小鈴。……これで合図してた。“帰る”って」
リサの指が震える。
ミナは言葉を探したが、何も綺麗なものが見つからない。
リオは掌の焔を近づけ、紐の煤をやさしく焼き払った。
焦げは灰となって剥がれ、金具の輪郭が少しだけ戻る。
「形、見えた」
リサの声に、ほんのわずか、体温が戻る。
リオは焔を消さずに言った。
「ここで、できるだけ“形”を拾い直そう。僕の火は照らすことができる。ミナの風は運べる」
「運ぶ?」
「灰を、光の側へ。記憶を、手放さない場所へ」
リサは二人を見た。
目をそらさずに、まっすぐ。
「……あなたたち、どうしてそんなふうに言えるの」
「僕たちにも、守りたいものがあるから」
リオは胸に手を当てる。
『わたしもいる』
アウラの小さな笑いが、心の底で火花になった。
広場の隅に、半分埋もれた石板があった。
ミナが灰をはらうと、擦れた文字が浮かぶ。
――“鐘は帰り道を照らし、火は囲うものを温める”
古い祈りだ。
「この街の言葉?」
「うん。……お祭りの夜に、皆で唱えてた。火を囲んで、鐘を鳴らして、帰る場所を確かめるの」
リサは石板に触れ、目を閉じた。
リオは焔を灯し続ける。
ミナは風で灰を撫で、文字の溝に詰まった煤を外へ誘う。
やがて石板全体の言葉が読めるほどに明るくなった。
リサはそっと手を離し、笑うでも泣くでもない表情で言う。
「……手伝ってくれるの?」
「もちろん」
「もちろん」
短い返事が二つ、灰に吸い込まれる。
リサは箱を抱え直し、広場を見回した。
「じゃあ、記録の順番を決めよう。まずは塔のまわり、次に市場、最後に川沿い――崩れやすいところは先に片づける」
指示は的確だった。
長くここで生きてきた者の目だ。
三人は動き始めた。
ミナが舞い上がりを最小限に抑えながら灰を分け、リオが灯りと温もりで影をやわらげる。
リサは残った形を拾い、布に包んで箱へ収める。
作業は遅い。
けれど、確かだった。
昼近く、広場の片隅がひとつ“整えられた場所”になった。
そこだけ時間が正しく前へ進み始めたみたいに、空気が軽い。
「……すごい」
ミナが汗を拭きながら笑う。
「風も、少しだけ戻ってきた気がする」
髪が、ほんのわずかに揺れた。
リサも気づいたのか、頬に手を当てる。
「……たしかに。灰の匂いばかりじゃない。乾いた草の匂いがする」
リオは深く息を吸い、吐いた。
胸の奥の焔が、満ち足りたようにちいさく鳴る。
「リサ」
「なに」
「もしよかったら、今夜もここで火を焚こう。怖くないやつ。君が“残したいもの”の名前を、火の側で一緒に数えたい」
リサは考えるふうに黙り、やがてこくりと頷いた。
「……いいよ。名前は、まだたくさんあるから」
その時、広場の向こうで瓦礫がずれる音がした。
振り向くと、崩れた塔の根元――焼けた石の隙間に、金属の光がちらりと覗いた。
リサの目が細くなる。
「台座の下……何か、ある」
リオとミナが顔を見合わせる。
アウラがそっと囁いた。
『そこは、火が一度も届かなかった場所』
「行ってみよう」
三人は台座へ歩み寄る。
金属の端は煤に埋もれ、指で触れるとひんやりと冷たい。
リサが灰を払う。
ミナが呼吸ほどの風で視界を確かめる。
リオは焔を最小にして、金属の刻印を照らした。
そこには、鐘と炎を組み合わせた紋章と――擦れて読みにくい、短い銘文が刻まれていた。
“――守火の記録庫”
リサが息を呑む。
「記録庫……鍵は、どこ?」
リオは金属の縁へ指を滑らせ、微かな“切り欠き”に触れた。
焔が小さく瞬く。
『扉は、まだ生きている』
灰の街は、終わっていない。
まだ開かれていない“次”が、ここに眠っている。
リサは箱を胸に抱き、決意の色を瞳に宿した。
「――開けよう。ここに残った“言葉”を、取り出すために」
灰の静けさが、少しだけ期待の色に変わった。
リオは掌にちいさな火を灯し、ミナは風を息に揃える。
三人の影が重なり、台座の銘文を包む。
灰は温かくなり始めた。
そして、物語も。