第26話:森に残る詩
春の風が森を渡っていく。
草花がそよぎ、木々の葉が音を立てた。
そのすべてが、まるで歌っているかのようだった。
“契約の森”は今、最も美しい季節を迎えていた。
赤い樹々の葉は朝日に照らされ、金と朱のグラデーションを描く。
森の中央――詩板の前に、一人の女が静かに立っていた。
灰の巫女、メイラ。
歳月は彼女の髪に白を混ぜ、瞳には穏やかな光が宿っていた。
「……久しぶりね、イフリート」
彼女は微笑みながら、板に触れる。
木の表面はあたたかく、まるで中にまだ火が息づいているかのようだった。
> ――巫女よ。まだ、この地にいたのか。
耳の奥に、懐かしい声が響いた。
「ええ。あなたの火が、どれほど多くの人を救ったか、見届けたかったの」
> ――もう充分だ。
> 火は、もはや人の手に戻った。
「それでも、私はここに残りたい。火が怖くなくなった世界を、もう少し見ていたいの」
風がそっと吹き抜け、木々がざわめいた。
イフリートの声は、それに紛れて穏やかに笑う。
> ――おまえは、優しいな。
メイラはゆっくりと詩板の前に跪き、手にした古びた羊皮紙を取り出した。
そこには、彼女が長い年月をかけて編んできた詩が書かれていた。
火の伝承、人と精霊の記憶、そして――赦しの言葉。
「これを、ここに残していくわ」
彼女は静かに読み始めた。
> 火は、命を喰らうものにあらず。
> 火は、命を繋ぐものなり。
> 灰は、終わりではなく、始まりの床。
> 光は、恐れの奥から生まれる。
詩の声が風に乗り、森に響く。
木々が光り、地面の苔が赤く染まる。
その様はまるで、森全体が詩を記憶しているかのようだった。
> ――その詩を、誰が読むのだ?
イフリートが問う。
メイラは微笑んだ。
「いつか――この森を訪れる“子”が。その子が、また火を継いでくれるでしょう。」
> ――“火を持たぬ子”か。
「ええ。その子が、あなたの火をもう一度“灯”に変える」
静かな沈黙が流れた。
そして、炎樹の枝がわずかに揺れた。
> ――ならば、我は眠ろう。
> その子が現れるその日まで。
「おやすみ、イフリート」
メイラは手を合わせ、詩板の隣に羊皮紙を埋めた。
そこには最後の一行が記されている。
> 『いつか来る子へ――火を怖れず、灯を継げ。』
陽光が差し込み、森が光に包まれた。
メイラの髪が風に舞う。
「これでいいわ。火の物語は、もう悲しみではなくなった」
彼女はゆっくりと立ち上がり、森の出口へと歩き出す。
振り返ると、詩板の上に赤い光が灯っていた。
それはまるで“ありがとう”と言っているように見えた。
その夜。
森の上に浮かぶ月が赤く染まった。
風が歌い、木々が囁く。
> ――火は灯であり、心であり、祈りである。
メイラは遠くからその光を見上げ、静かに微笑んだ。
「さようなら、イフリート。あなたの火は、ちゃんと生きている」
――こうして“灰の巫女”の記録は、森に刻まれた。
彼女の残した詩はやがて“火の教え”と呼ばれ、未来の世でひとりの少年――リオへと受け継がれていく。




