第25話:赦しの火
夜明け前の森は、静寂の中に呼吸をしていた。
霧の奥で、鳥の羽音がかすかに響く。
そして、森の中心にそびえる“炎樹”の根元で、赤い光がゆっくりと脈打っていた。
それは――イフリートの心臓。
かつて契約を破り、人を焼き、嘆きの果てに沈んだ精霊の、最後の想いが宿る場所だった。
その光の傍らに、ひとりの男が跪いていた。
農夫であり、森を守る者――エリアス。
彼は掌に火を灯し、静かに語りかけた。
「……おまえの怒りも、悲しみも、分かる気がするよ」
風が木々を揺らす。
炎樹が、低くうなるように鳴いた。
「人は、愚かだ。奪い合い、壊し合い、火さえも武器にする。でも……それでも、俺たちは生きたいんだ」
その声に呼応するように、光が強くなった。
炎がふっと立ち上がり、男の影を包み込む。
だが、燃えない。
熱は優しく、懐かしい温もりだった。
> ――おまえは、恐れぬのか。
頭の奥に声が響いた。
イフリートの声だ。
「恐れてるさ」
エリアスは笑う。
「でも、怖いからこそ向き合うんだ。火を拒めば、闇しか残らない」
> ――闇は、火の影。
> ならば、光は……?
「光は、心の選択だ」
一瞬、沈黙。
だが次の瞬間、炎樹の枝が柔らかく揺れた。
そこから零れ落ちた火の粒が、男の肩に触れる。
> ――おまえの言葉、嘘ではないな。
「嘘なら、こんな場所にひとりで来ないさ」
彼は笑い、火を見上げた。
その目に、怯えも欲もなかった。
ただ、静かな覚悟だけがあった。
> ――……人は変わるのか。
「変われるさ。変わりたいって、願う限りはな」
イフリートはしばらく黙っていた。
かつて、アレスが同じことを言った。
“火を正しく使うために、俺は人でありたい”と。
その言葉の意味を、今ようやく理解した気がした。
> ――よかろう。
炎が再び燃え上がり、森を赤く染めた。
だが、そこにあったのは破壊ではない。
すべてを包み込むような、柔らかな光。
> ――我は、人を赦そう。
イフリートの声が、森中に響いた。
> ――火は、人の罪を焼き尽くすものではない。
> 火は、人の弱さを照らすものだ。
その瞬間、炎樹の根元から花が咲いた。
真紅の花弁が光を反射し、風に乗って散っていく。
エリアスはそれを見上げ、目を細めた。
「……きれいだな」
> ――それは、“赦しの火”だ。
> 恐れを知る者だけが、灯せる炎。
男の掌に、ひとひらの花が舞い降りた。
触れた瞬間、火のように暖かい光が広がる。
「……ありがとう、イフリート。おまえがくれたこの火、無駄にはしない」
風が吹く。
森の奥で詩板が揺れ、刻まれた言葉が赤く輝いた。
> 『火は力ではなく、灯であれ』
イフリートの声が穏やかに続く。
> ――アレスよ。
> ようやく分かった。
> おまえが求めた“火”とは、
> この赦しの灯のことだったのだな。
空へと舞う花の中に、一瞬だけ王子アレスの幻が見えた気がした。
穏やかな微笑み。
そして、消える。
> ――もう、怒りも嘆きもいらぬ。
> 火は、再び人と共に歩む。
イフリートはそう告げ、炎樹の奥深くへと意識を沈めた。
夜が明ける。
森の上空を赤い光が流れる。
それは“赦しの火”の証。
人々はそれを見て祈った。
> 「この火が、どうか誰かを救いますように。」
そして――その祈りが、遠い未来の“炎の子リオ”へと届くことを、このときまだ誰も知らなかった。
――火は、再び人を照らし始める。




