第23話:契約の森
霧の朝、森の奥で風が鳴いた。
赤い光を宿した木々がざわめき、草葉の間から立ち上る霧が、まるで生き物のように形を変える。
そこは――かつて焦土だった地。
アレス・フレアの命が消え、イフリートが涙を流した場所。
そして今、その大地は“契約の森”と呼ばれていた。
灰の巫女メイラが残した詩板は、森の中心に立っている。
火の紋様が刻まれたその板は、夜になると微かに赤く輝き、森のすべての命にぬくもりを与えていた。
人々はその光を見て言う。
――火の精霊はいまもここに眠る。
その噂は、いつしか祈りとなり、祈りはやがて、ひとつの儀式を生んだ。
子どもが生まれた夜、家族は森に入り、詩板の前で小さな灯を掲げる。
そしてこう誓う。
> 「この子が、自らの火を見つけますように。」
その風習は世代を超えて続き、人々は森を「誓いの地」として大切に守り続けた。
――その頃。
森の深部、詩板の根元では、赤い光がゆっくりと脈打っていた。
イフリートの魂。
かつてアレスと結んだ契約の残滓が、静かに大地に息づいている。
> ――火は、まだ巡っている。
精霊の意識は眠りの底にあった。
だが、メイラの祈りが風を通して届くたび、微かに意識の火が揺れる。
“この森が生きている限り、火もまた生き続ける”
イフリートは、そう理解していた。
ある日、村の少年が森に迷い込んだ。
名をリノといった。
まだ十にも満たない小さな子ども。
しかし彼の手には、細い枝で作った火打ち棒が握られていた。
「火を起こしたいんだ。父さんみたいに」
彼はそう呟き、詩板の前に膝をついた。
けれど、何度打っても火はつかない。
枝は折れ、指先は傷ついた。
「なんで……」
涙がこぼれ、地面に落ちる。
その雫が詩板の根元に染み込んだとき――板がかすかに光った。
リノは顔を上げる。
「え……?」
光が広がり、柔らかな炎が指先に宿る。
熱くはない。
ただ、心の奥が温かくなる。
> ――火は、恐れの向こうに生まれる。
耳元で誰かが囁いた。
それは、イフリートの声だった。
少年は震える声で呟く。
「これが……火……?」
炎はゆらりと揺れ、やがて消えた。
だが、彼の胸の中には確かな光が残った。
その瞬間、森全体がやさしい赤に染まった。
木々の間を炎の粒が流れ、風が囁く。
> ――火は、灯であれ。
それは、メイラの刻んだ言葉だった。
イフリートの意識が、ゆっくりと目を覚ます。
“新しい火が生まれた”
それを感じ取るだけで、胸の奥が静かに熱くなった。
「……この世界は、もう一度、火と共に歩けるかもしれぬな」
声は風に溶け、森に響く。
リノはその声を聞いたような気がした。
けれど、彼は何も言わず、ただ笑った。
「ありがとう。火の神さま」
彼の笑顔を見届けるように、詩板がひときわ明るく光り、再び静寂を取り戻す。
こうして“契約の森”は、再び命の地となった。
ここに来る者は誰もが感じる。
――胸の奥が温かくなる不思議な力。
それは、イフリートが今も見守っている証だった。
夜。
森の上に星が広がる。
その下で、イフリートは微かに微笑んだ。
> ――アレス。見ているか。
> おまえの火は、まだここに生きている。




