第22話:詩板に刻む言葉
森の夜明けは静かだった。
霧が晴れ、枝の間から差し込む光が、淡く赤みを帯びている。
メイラはその光を見上げながら、深く息を吸い込んだ。
火の匂いがした――だが、それは燃え焦げた臭いではない。
木々の芯に宿る、生命の熱の匂い。
「……ありがとう、イフリート」
昨日までの夢が、まだ心の奥に残っていた。
燃える王都、紅の王子、そして精霊の嘆き。
すべてが彼女の中に“火の記憶”として刻まれている。
メイラは森の中心へと歩き出した。
そこは、かつてアレスが倒れた場所――そして、イフリートが契約を解いた地。
大地にはまだ赤い痕が残っている。
その上に、メイラは木の板をそっと置いた。
「ここに、残すのね。火の言葉を」
彼女は杖を地面に突き立て、小刀を取り出した。
火の紋章が刻まれた刃先を光にかざし、木板に、ゆっくりと文字を刻み始める。
> 火は、命。
> 命は、灯。
> 灯は、恐れを越えたところに生まれる。
刻むたび、板がかすかに赤く光る。
木の内側に、イフリートの力が流れ込んでいくのがわかった。
「これは祈りではなく、記録……」
メイラは呟いた。
「いつかまた、誰かがここを訪れたときに、この言葉を読めるように。」
指先から、火の粒がこぼれた。
それが文字に触れ、炎のように輝きながら形を変える。
やがて板の中央に、一行の詩が浮かび上がった。
> 『火は力ではなく、灯であれ』
メイラは手を止め、しばらくその言葉を見つめた。
短い、けれど強い言葉。
王子アレスが命を懸けて伝えた想い。
「……これが、あの人の“最後の願い”」
風が吹き抜け、彼女の髪が揺れる。
空気が柔らかく震え、木々がざわめいた。
まるで森そのものが、その言葉を受け取ったかのように。
その瞬間、遠くで赤い光が灯った。
炎核の鼓動が再び響く。
森中に小さな火の粒が舞い上がり、空へと昇っていった。
メイラはその光景を見上げ、微笑んだ。
「……伝わったのね」
彼女の頬に一筋の涙がこぼれる。
それは悲しみではなく、安堵の涙だった。
ふと背後で、誰かの声がした。
> ――よくやった、巫女よ。
振り向くと、そこには炎の影が立っていた。
イフリート。
その姿は、もはや怒りではなく、静かな光をまとっている。
「あなた……まだ、ここに」
> ――我は、この地の記録者。
> おまえが刻んだ言葉は、未来への契りとなった。
「未来への……契り?」
> ――いずれ、“火を継ぐ子”が現れる。
> そのとき、この詩板が灯となろう。
メイラの胸が熱くなる。
「……その子が、火を恐れず、火を愛せるように?」
> ――ああ。
> そして、その灯が、世界を再び照らす。
イフリートの姿が、ゆっくりと霧に溶けていった。
「……ありがとう。あなたの火は、もう孤独じゃない」
メイラは再び詩板に手を当てた。
板の中心で火が灯り、柔らかい赤の光が森を包む。
「――どうか、この光が誰かの心を導きますように。」
その日から、メイラは毎朝この場所に祈りを捧げた。
火の詩を読み上げ、新たな生命の芽を見守り続けた。
いつしか人々は、彼女の残した詩板を“灯の教え”と呼び、子どもたちへと語り継ぐようになった。
そして――その言葉は、時を越え、ある少年の心に届く。
焔を持たぬ子。
彼が初めて“火”を知る、遥かな未来の日に。
――火は、灯であれ。
その教えは、灰の巫女から未来へ。




