第19話:精霊の嘆き
――眠りは、どれほど長かったのだろう。
風の音も、木々のざわめきも、夢のように遠い。
けれど、確かに感じていた。
世界が呼吸し、時が流れていることを。
イフリートは、深い森の底で目を覚ました。
燃えるような体はもはやなく、ただ、半透明の炎の影だけが揺らめいている。
> ――……ここは……?
見上げると、天井のように枝が重なり、葉の隙間から光が降り注いでいた。
鳥の声。
花の香り。
かつての焦土は、すでに緑に覆われていた。
> ――……世界は、変わったのか。
地面に手を当てる。
土の中に、かすかな鼓動がある。
炎核。
アレスの残した命の欠片。
それはいまも、穏やかに脈を打っていた。
「……おまえの火は、まだ生きているのだな」
イフリートは目を閉じ、静かに息を吐く。
その声は、風のように柔らかく消えていった。
長い時間が過ぎた。
人は、火を恐れなくなった。
そして、火を“道具”として使うようになった。
焚き火は囲むものではなく、鍛冶の炎、戦の炎、そして――快楽の炎へ。
イフリートは森の外を歩いた。
丘を越え、谷を渡り、かつての王都の跡地へ。
そこに広がっていたのは、かつての廃墟ではなかった。
石造りの街。
高くそびえる塔。
そして夜でも消えぬ灯り。
だが、その火には“心”がなかった。
「……これは、火ではない」
街を照らす光は冷たく、規則的に瞬いていた。
どの家も同じ色、同じ明るさ。
そこに“生命の揺らぎ”がなかった。
> ――これが、人の進化か。
> だが、どこに“灯”がある?
イフリートの胸の中で、何かが軋んだ。
彼の中の炎が、かすかにざらつく。
「火は、人と共にあったはずだ。心を映し、願いを燃やすものだった……」
通りを行く人々は、皆うつむいて歩いていた。
誰も空を見上げない。
誰も、手の中の火を“あたたかい”と感じていない。
イフリートは拳を握る。
胸の奥に、悲しみが燃え始める。
「アレス……これがおまえの託した世界か?」
答える声はない。
ただ、風が吹き、灰花の花びらが一枚、道端を横切った。
その瞬間、イフリートの中に微かな記憶が蘇る。
> “火は、心と共に在れ。”
アレスの声。
イフリートは目を閉じた。
怒りが、悲しみへと変わっていく。
> ――そうか。
> この世界は、火を“忘れた”のではない。
> 心を“隠した”のだ。
街の中央で立ち止まり、空を仰ぐ。
雲の間から、夕陽がこぼれている。
その光だけが、かつての炎に似ていた。
「……まだ遅くはない。おまえの火が、どこかで息づいているなら――再び、灯をともせる者が現れるはずだ」
イフリートは手をかざし、空を見上げた。
掌の中に、かすかな赤い光が宿る。
「火よ。人の心がもう一度、温もりを思い出すその日まで――我は、この世界を見届けよう」
風が吹き、灰花が彼の足元を包む。
花弁が光を帯び、ひとひらが空へ舞い上がった。
それはまるで、“誰か”を探すように漂いながら、遠く――森の方へと飛んでいった。
イフリートはその行方を静かに見つめた。
そして、微かに笑った。
「……あの火は、まだ生きている。いずれ、あの子の手に届くだろう」
その夜。
契約の森の奥で、小さな光が再び瞬いた。
風がやさしく揺れ、木々がざわめく。
それはまるで――“眠れる火”が、呼吸を取り戻したようだった。
――精霊は、まだ世界を見ている。
火は、まだ息をしている。




