第13話:灼熱の嵐
勝利の朝が三度過ぎた。
北の草原に露は戻り、王都の街路にも人の声が戻りつつあった。
だが、空気は妙に熱かった。
季節外れの熱風が、昼も夜も途切れずに石畳を舐める。
井戸水は生ぬるく、干した布は乾くより先に焦げた匂いを帯びる。
「……風の向きが、変だ」
アレスは城の高台で眉をひそめた。
遠い山脈の上に、薄赤い靄がかかっている。
> ――火の呼吸が速い。
> おまえの心拍と、世界の熱が同調しはじめた。
「同調……?」
> ――人が火を、火が人を、互いに映す。
> 歓喜も、焦燥も、すべて熱になる。
イフリートの声は落ち着いている。
しかし、その奥に微かなざらつきがあった。
午下がり、広場に人が集まった。
職人たちは復興の進捗を訴え、商人は倉の焼失を嘆く。
群衆の中心で、若い兵士が叫んだ。
「殿下の炎があれば、もう敵など怖くない!もっと早く、もっと強く火を!」
周囲が呼応する。
「火を! 火を!」
アレスは手を上げて制した。
「火は武器ではない。復興にこそ使うべきだ」
その言葉に、別の声が飛ぶ。
「では、我らの家を焼いた盗賊団は? 北の森に潜んでいる! “炎の王子”なら、ひと息で灰にできるはずだ!」
広場がざわめく。
熱気がふくらみ、声の温度が上がる。
> ――群衆の熱は、制御が利かぬ。
「分かっている」
アレスは胸に手を当て、呼吸を整えた。
契約紋がじり、と焦げるように疼く。
「落ち着け。俺の炎は、裁きではない」
そう告げた瞬間――
遠く、城壁の上で火矢が弾けた。
甲高い悲鳴。
巡回兵が崩れ、布市の屋根に火が移る。
「敵襲だ!」
人々が四散する。
アレスは駆け、跳ね上がる炎を手で押さえ込むようにして制した。
火は素直に沈む――はずだった。
だが、熱風が吹き込み、炎は一度沈みかけて、逆に勢いを増して燃え上がる。
> ――風向きが悪い。
> 熱が輪を作っている。
「なら斬る!」
アレスは剣を振り、炎の輪を断ち切る。
火線は切れた――が、断面から新たな焔が芽吹いた。
まるで、火そのものが“呼吸”を覚えたかのように。
「……おかしい」
> ――世界の熱が、高ぶっている。
> おまえの周りに集まる“期待”と“恐れ”が、火の糧になっている。
「俺は煽っていない!」
> ――煽る必要はない。
> 見られているだけで、火は増える。
その時、屋根伝いに黒衣の影が走った。
火矢筒を抱え、城門へ向けて次の矢をつがえる。
「やめろ!」
アレスが跳躍し、炎の翼で距離を詰める。
一閃。
矢は斬り落とした――が、火打ち薬が弾け、粉の炎が一面に散った。
熱が膨張する。
空気が鳴り、耳に痛いほどの“圧”が街を覆った。
> ――退け、アレス。
> 呼吸を整えろ。
「退けない! 今ここで、俺が抑えないと――」
契約紋が灼ける。
視界の端が赤く染まった。
群衆の叫びが遠のき、炎の声だけが近づいてくる。
“もっと燃えろ”
“もっと見せろ”
“もっと、もっと”
――それは、人々の心が混ざり合った音だった。
「黙れ」
アレスは低く呟き、剣を地に突き立てた。
刃に沿って真紅の紋が走り、炎が一点へ収束していく。
「俺の火は、守るためだけに使う!」
一瞬、熱が凪いだ。
炎の穂が伏せ、屋根の火は鎮まる――ように見えた。
次の鼓動で、世界が反転した。
轟。
城壁の内側で、地の底から噴き上がるような火柱が生まれた。
それはアレスの背から伸びた“第二の翼”のように、
彼の意思とは無関係に空を裂く。
「っ――!」
頬を灼く熱。
延焼の連鎖が、理屈を超えた速度で広がる。
> ――アレス、離れろ!
> 心を切れ、熱から目を逸らせ!
「できない、俺が――俺が止める!」
> ――その執着が、渦を強くする!
イフリートの叫びは、炎の奔流に呑まれた。
視界が白い焔で満ち、音が遠のき、重さだけが身体にのしかかる。
(俺は、間違えているのか?)
(違う、守るためだ。守るためなら――)
胸の中で、何かが“コトリ”と落ちた。
軽い音。
それは、最後の均衡が外れる音に似ていた。
炎は、嵐になった。
屋根は爆ぜ、塔の影がのたうち、空は真昼のように赤く染まる。
人々の叫びが、遠い海鳴りのように続く。
アレスは膝をつき、剣に体重を預けた。
手が震える。
炎が指先から離れ、勝手に街路を駆ける。
> ――アレス!
イフリートの声は近い。
だが、その炎もまた不安定に明滅していた。
> ――これ以上は……我も、形を保てぬ。
「行くな、イフリート!」
> ――行かぬ。
> ただ、灯が弱る。
アレスは歯を食いしばり、立ち上がった。
「……ならば、最後まで、俺の腕で抱く」
彼は炎の渦の中心へ踏み込む。
熱が皮膚を裂き、意識の輪郭が曖昧になる。
それでも、手を伸ばす。
――届け。
その瞬間、白い稲妻が炎の渦を貫いた。
城の尖塔が崩れ、石が雨のように降る。
赤い世界の中で、黒い影――城そのものが、ゆっくりと傾き始めた。
「……やめろ……」
声は焔に飲まれ、祈りは轟音に砕けた。
灼熱の嵐は、王都の心臓部を呑み込み、ゆっくりと、確実に、崩壊の時を連れてきた。
――火は、まだ終わらない。




