第10話:炎と孤独
――風が、なくなっていた。
燃え尽きた広場の跡に立ち尽くすアレスは、焦げた空気の中で、ただ一点を見つめていた。
石畳には黒い亀裂が走り、崩れた塔の残骸が散らばる。
あれほどの祝祭を迎えた王都が、今は静まり返っていた。
「……イフリート」
呼んでも返事はない。
あの日の“警告”を最後に、炎の精霊は沈黙していた。
王宮の廊下を歩けば、兵たちは目を伏せる。
侍女は怯え、近づく者は誰もいなかった。
彼らにとってアレスは、もはや「英雄」ではなく「火を操る王」――畏怖と崇拝の狭間にある存在だった。
セリアだけが変わらずに仕えていた。
だが、その瞳にも時折、迷いが浮かぶ。
「殿下……お休みを。火の使用はお控えください。お身体が――」
「構わない。火を絶やせば、この国の灯も消える」
「ですが――」
「もういい」
アレスは言葉を遮り、振り返らなかった。
夜、玉座の間でひとり。
暗闇の中に橙の光だけが揺れている。
彼の掌から生まれた小さな火が、まるで友のように、静かに寄り添っていた。
(あの頃の火は、こんなにも優しかったのに……)
かつてイフリートが語った言葉が、胸の奥で繰り返される。
> ――火は心と共に在る。
> 心が濁れば、火もまた狂う。
「心、か……。俺の心は、どこへ行ったんだろうな」
炎がわずかに揺れた。
答えるように、もしくは嘲るように。
外では、民がひそひそと噂していた。
「最近、王が夜通し炎を灯しているそうだ」
「見た者は皆、目が焼けるような光を見たと言う……」
「もう人ではないのかもしれん」
その声は、アレスの耳にも届いていた。
だが怒りも悲しみも湧かなかった。
ただ、心のどこかが静かに冷えていく。
「信じる者はいないのか」
呟きながら、火を握りしめる。
指の間から光が漏れ、空気が歪む。
> ――おまえの心が濁れば、火もまた狂う。
「イフリート……」
返事はない。
だが、胸の奥の契約紋が一瞬だけ脈打った。
その夜、アレスは夢を見た。
暗闇の中で、赤い瞳が彼を見つめている。
イフリートだ。
だがその炎は、以前よりも冷たかった。
> ――おまえは火を信じると言ったな。
「ああ。俺は、今も信じている」
> ――ならば、なぜ人を焼いた?
「焼くつもりなどなかった! 俺はただ……!」
> ――怒りも、守りたいという願いも、同じ熱から生まれる。
> それを分け隔てできぬなら、火に呑まれる。
「……おまえは俺を見捨てるのか」
> ――見捨てはせぬ。
> だが、おまえが“己の火”を見失えば――我は消える。
イフリートの炎が、遠ざかっていく。
伸ばした手は届かず、暗闇に呑まれた。
目を覚ますと、胸の紋章が冷えていた。
火が消えかけている。
手を伸ばしても、橙の光は戻らない。
「……まさか、本当に」
焦りが走る。
イフリートとの繋がりが、確実に弱まっていた。
「頼む、戻ってきてくれ……。おまえなしでは、俺は――」
そのとき、扉が叩かれた。
「殿下、南の村で火災が! 避難民が押し寄せております!」
アレスは立ち上がる。
「原因は?」
「……不明です。ですが、まるで――」
兵士が言葉を詰まらせた。
「――まるで“王の炎”のようだったと……」
アレスの表情が凍る。
「……何だと?」
兵士は震えながら続けた。
「村人は、殿下の炎が暴れ出したと……」
「そんなはずがない!」
怒鳴った瞬間、背後で炎が爆ぜた。
赤い光が天井を照らす。
「やめろ……!」
拳を握りしめる。
だが炎は、まるで意志を持つかのように暴れ出す。
「イフリート! 制御しろ!」
返事はなかった。
火が広がる。
絨毯が燃え、柱が軋む。
アレスは膝をついた。
「……聞こえないのか、イフリート!」
> ――……心が、濁っている。
かすかな声。
それは、遠くで泣くような響きだった。
「違う……違うんだ、俺は……!」
火の中で叫ぶ。
しかし、答える者はもういなかった。
アレスは立ち上がり、燃え広がる炎を見上げた。
その瞳には、もはや恐怖も迷いもなかった。
ただ――静かな孤独だけが、そこにあった。
「……ならば、この火は、俺が抱える」
彼はゆっくりと剣を抜き、燃え立つ空気を切り裂いた。
その刃に映るのは、英雄でも王でもない。
ただ一人の、火を背負った人間だった。
――火は、まだ終わらない。




