第9話:精霊の警告
祝祭の翌朝。
王都の空は、煙の名残を残したまま淡く霞んでいた。
風に焦げた香が混じる。
民はまだ眠り、広場には燃え尽きた松明の灰が散らばっている。
アレスはその灰の上に立っていた。
夜の熱狂が嘘のように、静まり返った街。
だが胸の奥では、まだ火が燻っていた。
「……火は、神ではない」
口に出してみても、その言葉が空しく響く。
> ――だが、人はそう呼ぶ。
> “自らの恐れ”を“祈り”に変えて、な。
イフリートの声が、胸の中に重く落ちる。
「おまえは、何が言いたい?」
> ――おまえの心が揺らいでいる。
> 昨日の炎は“喜び”ではなく、“怒り”だった。
アレスは拳を握った。
「……あれは違う。俺は民の歓声に応えただけだ」
> ――応えようとするその心が、炎を狂わせる。
> 火は“欲”を燃料にする。
「俺は欲なんて――!」
> ――あるさ。
> “民に認められたい”“王として讃えられたい”
> それもまた、欲だ。
アレスは言葉を失った。
胸の奥で、契約紋がじり、と熱を放つ。
静寂の中、石畳を踏む音が響く。
セリアが現れた。
「殿下……こんな時間に、広場へ?」
「昨夜の火が、まだここに残っている気がしてな」
セリアは一歩進み、灰をすくい上げた。
「民は皆、殿下の火を信じています。それだけで、この国は立ち直れる」
「……信じる、か」
アレスは空を仰ぐ。
灰色の雲の向こうに、かすかに陽が昇りかけていた。
「信じるというのは、同時に“縋る”ことでもある。もし俺が倒れたら、彼らの希望も消える」
「殿下は倒れません。あの炎を見ました。あれは神々しいほどに――」
「神……か」
アレスの声は低く、冷たい。
「俺は神じゃない。けれど、誰もそう見てくれない」
そのとき、イフリートの声が響いた。
> ――人は都合よく神を創る。
> そして、同じ手で滅ぼす。
「イフリート……!」
> ――おまえの火は、もう王のためではない。
> “群衆の願い”に飲み込まれつつある。
「黙れ! 俺はこの国を守っている!」
> ――守っているのか? 燃やしているのか?
「……!」
一瞬、胸の奥に鋭い痛みが走った。
契約紋が赤く脈打つ。
空気が熱を帯び、灰が舞い上がる。
「落ち着いてください、殿下!」
セリアが駆け寄るが、アレスは動かない。
「イフリート、俺の火を疑うのか」
> ――疑っているのはおまえ自身だ。
アレスの瞳が揺れる。
心の奥に、かすかな恐怖があった。
燃え上がる炎の中心に、自分が溶けていくような感覚。
「……俺は、何を間違えた」
> ――まだ間違えてはいない。
> だが、進めば二度と戻れぬ。
「どうすればいい」
> ――一度、“火”を鎮めろ。
> 人の声を離れ、心を冷やせ。
> さもなくば、火はおまえを喰う。
「……そんなこと、できるわけがない。この国は今、火に頼っているんだ」
> ――火を使うことと、火に縋ることは違う。
「同じだ!」
アレスの叫びが夜明けの空に響く。
炎が再び彼の背から立ち上がり、広場を照らした。
セリアが思わず目を覆う。
「殿下、やめてください!」
> ――愚か者。
イフリートの声が怒りと悲しみに揺れる。
> ――この火は、警告だ。
> これ以上、心を乱せば――世界が焼ける。
「黙れッ!」
アレスの叫びと同時に、炎が弾けた。
地を走る火線が石畳を裂き、周囲の塔が崩れ落ちる。
「殿下!」
セリアの声が届いた瞬間、アレスはハッと我に返った。
火は消え、ただ煙と焦げた匂いだけが残った。
アレスは膝をつき、拳を握った。
「……俺は、何をしているんだ」
> ――人は、火を持ちながら火を知らぬ。
> それこそが、滅びの始まりだ。
「イフリート……」
> ――覚えておけ。
> 火は心と共に在る。
> おまえの心が濁れば、火もまた狂う。
炎の精霊の声が静かに消えていく。
残されたのは、焼けた匂いと、ひどく冷たい朝の空気だった。
アレスは顔を上げ、沈黙の空を見つめた。
「……俺は、この火を守る。誰に何を言われても、これが俺の道だ」
その瞳に宿る光は、決意と――ほんのわずかな狂気を帯びていた。
――火は、まだ終わらない。




