第4話:呼ばれた名
朝の光が差し始めても、王都の空気はまだ重かった。
瓦礫の上に立ち、アレスは静かに息を吸い込む。
風が灰を巻き上げ、焦げた匂いが肺を満たした。
「……静かすぎる」
イフリートが呟く。
彼の炎の輪郭が朝の光に照らされ、揺らめく影を作る。
「戦が終わったあとって、いつもこんなものか?」
「終わりは静寂の顔をしている。だが、その下ではまだ“熱”が残っている」
アレスは目を細めた。
遠く、崩れた塔の影の中で、何かが動いた気がした。
風に乗って、かすかな呻き声。
「……生存者か?」
剣を握り、瓦礫を越えて進む。
イフリートが後を追いながら、低く呟く。
「心を乱すな。火はおまえの心を映す」
「わかってる」
塔の裏手には、崩れた馬車と、倒れた兵の姿。
アレスは急ぎ近づき、膝をついた。
胸がかすかに動いている。
鎧には王国の紋章――味方の兵だ。
「……大丈夫か!」
「……ア、レス……様……」
声は弱々しく、唇が震えていた。
兵の名はランデル。
王都守備隊の隊長で、アレスの剣の師でもある男だ。
「しっかりしろ! 医師を――」
「無駄、です……もう、火に……」
ランデルの瞳に、かすかな炎が映った。
その焦点は、アレスの背後――イフリートへと向けられている。
「……その“火”……本当に、王国のためにあるのか?」
「なにを――」
「聞け、アレス様……炎は、人を選ばない。だが、人は炎を選べる。……おまえは、その火を選んだのか?」
言葉が、胸の奥に刺さった。
昨夜の戦い、確かに炎は助けとなった。
だが同時に、火が勝手に動いた瞬間があった。
敵兵を焼いたあの瞬間、恐怖よりも“快感”に似た何かを感じたのだ。
「俺は……」
声が掠れる。
イフリートが静かに言葉を挟んだ。
「それが“契り”の試練だ。人の子よ。火はおまえの中に在るが、従うわけではない。
支配することも、赦しを乞うことも無意味だ」
「じゃあ、どうすればいい?」
「火と語れ」
「語る?」
「名を呼ぶのだ。おまえの言葉で」
アレスは目を閉じた。
火――それはただの現象ではない。
目の前にいる精霊、そして胸の奥で燃えるもうひとつの意識。
同じものを“理解”しようとするには、呼びかけるしかない。
ゆっくりと、唇を開いた。
「……イフリート」
名前が空気に響く。
次の瞬間、炎の揺らめきが強くなり、周囲の空気が震えた。
イフリートは驚いたように、わずかに眉を動かした。
「ほう……名を正しく呼ぶ者は、久しい」
「おまえの力が欲しいんじゃない。おまえと、一緒に戦いたい」
短い沈黙。
炎が、静かに笑ったように見えた。
「人の子よ。名を呼ばれるとは、存在を認められること。ゆえに我も、名を返そう」
イフリートの掌に赤い光が集まり、アレスの胸へと触れた。
灼けるような熱ではなく、温かい光。
それは心臓の鼓動と重なり、静かに沈んでいく。
> ――我は炎。おまえは刃。
> 共に燃やし、共に斬る。
「……今、何をした?」
「契約の第二の段階、“共鳴”だ。おまえが我の名を呼んだように、我もおまえの名を刻んだ。これで、おまえが死ぬまで、我はおまえを見失わぬ」
その瞬間――塔の外から、爆音が響いた。
地面が揺れ、土煙が上がる。
「敵襲か!」
セリアの叫び声が遠くで聞こえた。
兵が走り、鐘が鳴る。
アレスは剣を抜いた。
イフリートが肩越しに笑う。
「どうやら、試練の続きらしいな」
「行くぞ。……俺たちの火を見せてやる」
瓦礫を蹴り上げ、アレスは広場へ走った。
城門の外、黒い旗を掲げたレノードの残党が押し寄せてくる。
炎を恐れぬ狂信者たちが、呪文を唱えながら突進してきた。
「また火か……」
イフリートが苦笑する。
「人は火を恐れると言ったはずだが」
「恐れも、狂気も、紙一重だ」
アレスは剣を構えた。
イフリートの炎が刃を包み、橙から深紅へと色を変える。
「行くぞ!」
彼が駆け出した瞬間、炎が走る。
刃から放たれた赤光が地面を裂き、敵陣を貫いた。
炎の道が生まれ、その上をアレスが飛ぶように進む。
敵の槍が突き出される――
火がそれを弾いた。
炎が刃に合わせて動く。
もはや剣と火は、ひとつの意思で動いていた。
「これが……共鳴の力!」
イフリートが短く答える。
「力ではない。理解だ」
斬撃の軌跡が赤く残り、敵の列が崩れる。
誰も彼を止められなかった。
戦いの後、広場には静寂が戻った。
燃え残る煙の中、アレスは剣を地に突き立て、息を整える。
「……やったな」
「燃えすぎぬように、な」
イフリートが微笑む。
その横で、セリアが駆け寄ってきた。
「王子! ……ご無事で!」
「なんとか、な」
セリアは炎に包まれた剣を見つめる。
「それが……あなたの火、なのですね」
アレスは静かに頷く。
「イフリート。……それが、こいつの名だ」
「火の名を、人の前で言うとは」
「誇りだろ?」
イフリートは笑った。
朝日が完全に昇る。
灰色の空が金色に染まり、王都の影を照らす。
アレスは剣を収め、空を見上げた。
「名を呼ぶって、不思議だな」
「名とは存在の形。呼ぶ者がいて、初めて形になる」
イフリートの声は、炎の揺らぎよりも柔らかかった。
その響きが胸の奥に染みていく。
――人と精霊。
二つの命が、ようやくひとつの“火”として燃え始めた瞬間だった。
――火は、まだ終わらない。




