第3話:古書の声
夜明け前。
王都の空はまだ灰色で、遠くの火は消えきっていなかった。
風が吹くたび、焦げた匂いが鼻を刺す。
アレスはひとり、書庫の奥に立っていた。
昨夜の戦いを越え、北門を守り抜いたものの、心の奥には静かなざらつきが残っている。
――力は、確かに手に入った。
だが、それが本当に「守る」ための火なのか。
「なぜ、眠れぬ」
背中から低い声。
イフリートが炎をゆらめかせながら現れる。
「……胸が熱くて、落ち着かない」
「それは火の鼓動だ。おまえの願いと、我の力が混ざり合っている」
「混ざる、か……」
アレスは机に残された焦げた書を手に取る。
炎の儀式を記した古文書――昨日、イフリートを呼び出したものだ。
だがページは半分以上が焼け落ちており、読める箇所は少ない。
> ――火は力、力は命、命は契り。
> 契りの証をもって、炎は応える。
「契りの証……それは何を指す?」
「血、そして意志だ」
イフリートの声が響く。
「血は肉体の証、意志は魂の証。どちらかが欠ければ、契りは揺らぐ」
アレスは眉をひそめた。
「揺らぐと、どうなる?」
「火は主を見失い、暴れる。己を焼き、他を焼き、世界を焼く」
重い言葉だった。
昨夜の戦場で見た炎の奔流を思い出す。
一瞬でも心が乱れれば、火は暴走する。
恐怖が背筋をなぞった。
「……俺は、そんな火にしたくない」
「ならば心を保て。人の火は心の形を写す。怒りの火は灼き、慈しみの火は照らす」
イフリートは壁際に視線を向けた。
崩れかけた石壁の向こうから、かすかな足音。
セリアが現れた。
煤けた書を両手で抱え、目に光を宿している。
「王子。これを見てください」
彼女が差し出したのは、古い帳面だった。
焦げ跡のない清書用の冊子。
どうやら燃える前に別室へ運んでいたらしい。
アレスは受け取り、ページを開く。
そこには、かすれた古文字が丁寧に書かれていた。
> ――精霊との契約は、二重の誓約で成り立つ。
> 一は力の契り、一は心の契り。
> 力のみを求める者は、火に呑まれる。
「……心の契り」
アレスは小さく呟いた。
「それは何を意味するのですか?」
セリアが問う。
イフリートは短く答えた。
「人の想いを、火が認めることだ」
「想い?」
「おまえたちが、守りたいもの、信じたいもの。それがなければ、火は空虚になる。空虚な火は、やがて“喰う”だけの炎になる」
セリアは顔を上げ、アレスを見つめた。
「……王子は、何を守りたいのですか?」
アレスは答えに詰まった。
すぐには言葉が出ない。
(この国を、民を……そう言えばいい。だが、それだけじゃ足りない)
思い浮かぶのは、昨夜の光景。
泣き止まない子を抱く母親の姿。
兵士の傷を押さえ、祈りを捧げる少女の姿。
「……この国に生きる“誰か”を、守りたい」
「誰か?」
セリアが微笑んだ。
「曖昧なようで、いちばん強い言葉です」
イフリートは黙って二人を見ていた。
炎の中で、その瞳だけが黄金に光る。
「人は不完全だ。だが、不完全だからこそ、火を求める」
「それは悪いことなのか?」
「否。ただし――火に自分を委ねすぎれば、火は“主”になる」
アレスの背筋が凍る。
昨夜、剣を握った瞬間の熱。
あのとき確かに、火が心の奥を覗いた気がした。
「……俺は、主にはならせない」
「ならば言葉にせよ。火を使うたび、自らに刻め。“これは俺の火だ”と」
アレスはゆっくりと頷いた。
「わかった。忘れない」
書庫の外では、空が白み始めていた。
灰色だった空が、わずかに橙を帯びる。
夜が明ける。
セリアが息をつく。
「朝、ですね」
「……ああ」
アレスは剣を腰に戻し、書を机に置く。
「もう一度、王都を見てくる。火がどう燃えているのか、確かめたい」
イフリートが肩に立つように寄り添った。
「見るがいい、人の子。火は光でもあり、影でもある」
書庫を出ると、空気が少し柔らかくなっていた。
風の中に、焦げた匂いと一緒に土の香りが混じる。
焼けた大地の隙間から、草の芽がわずかに顔を出していた。
アレスはその小さな緑を見下ろし、呟いた。
「火は……全部を焼くわけじゃないんだな」
「焼いたあとに、何が残るかだ」
イフリートの声が、朝の風に溶けた。
胸の奥の火が、静かに鼓動する。
守るための火――
まだ不安定で、まだ若い火だ。
だが確かに、そこに“心の契り”が生まれつつあった。
「行こう、イフリート」
「どこへ」
「この火の行き先を見に。俺たちの国を、取り戻すために」
二人の影が、朝焼けの中に長く伸びた。
風が流れ、灰が舞い、空がわずかに赤く染まる。
新しい一日が始まる。
それが、終わりへの一歩だとも知らずに。
――火は、まだ終わらない。




