なんらかの「力」
激流に飲み込まれ、意識を失ってからのことは何も覚えていない。次に意識が浮上したのは、香ばしい草の香りと、近くで聞こえる規則的で小さな呼吸音を感じた時だった。
ゆっくりと瞼を開くと、最初に目に飛び込んできたのは見慣れた天井の染み。
サリュは、そこがリリスと使っている、古い廃墟であると理解した。
どうやら自分は、摘まれた藁が積み重ねられた簡易な寝床に横たわっているらしい。体中が軋むように痛むが、生きている。手足を少し動かすと、近くに温かな体温を感じた。
視線を隣に移すと、小さな人影が目に入った。それは、自分の傍らに座り込み、すやすやと眠るリリスだ。
普段は警戒心が強く、少しの物音でも目を覚ますリリスが、こんなにも無防備に眠っているのは珍しい。その様子に、わずかに頬が緩む。
身じろぎすると、それに気づいたリリスの唇がぴくりと震え、すぐに漆黒の瞳がゆっくりと開かれた。リリスはサリュの顔を見つめると、一瞬、その口元を緩めた。普段は絶対にしない、珍しい笑顔とも呼べる表情。
だが、リリスはすぐに自分の表情に気づいたようで、息を呑んだかと思うと、慌ててその笑みを引っ込めてしまった。そして、しないと決めている行いを悔いるように顔を背け、小さな声で「ばか」と呟く。
リリスは居心地が悪そうに身を翻し、部屋を出ていこうとした。
「待って、リリス!」
サリュは慌てて声をかける。
まだ全身が痛むが、無理やり体を起こし、逃げようとするリリスの背中に問いかけた。
「いったい、何があったの? ぼくは……どうやってここに?」
その問いかけに、リリスの動きがぴたりと止まる。そして、ゆっくりとこちらを振り返った。その瞳には、今までに見たことのない、複雑な感情が渦巻いている。
「川に飛び込んで溺れたんだよ。この、死にたがりが」
リリスはそういうと、サリュの傍らに戻り、話し始めた。
翌朝、サリュは痛む体を何とか起こし、リリスに付き添われて村唯一の宿屋へと向かった。
村の小道を進むと、すぐに目的の建物が見えてくる。その宿屋は、木材を基調としたこぢんまりとした造りで、壁の漆喰は白く保たれ、窓辺には可憐な花が飾られている。
(滅多にお客は来ないのに、宿の女将、マーテルさんがちゃんと手入れしているからな)
サリュはマーテルさんの温かい笑顔を思い浮かべる。
「二人とも、ちゃんと食べてるの? まだ子供なんだから、困ったことがあればいつでも声をかけてね」
マーテルさんは、いつも親切だ、とサリュは思う。
頼まれ仕事を多くこなすサリュにとって、マーテルは他の村人とは少し違う、親しみを感じる数少ない大人でもあった。
宿の扉を開けると、ほのかに香る木と埃の匂いが鼻腔をくすぐる。小さな帳場には誰もいない。リリスが「部屋は2階よ」と短く告げるので、サリュはきしむ階段をゆっくりと上がった。
二階の突き当りの部屋の前で、リリスが小さく頷く。サリュは深呼吸をして、そっと扉をノックした。
「はーい」
間延びした、それでいてどこか心地よい声が内側から答える。
「どなた? どうぞ?」
そう声を返され、サリュはゆっくりと扉を開けた。
部屋の奥には、すでに旅の身支度を整えた男の姿がある。年齢は判然としない。若者と呼ぶには落ち着きすぎ、かといって年老いているわけでもない。ただ、その容姿は均整がとれていて、しなやかな体つきからは鍛え抜かれた印象を受けた。旅慣れた様子で、身につけた簡素な服も彼が着ると、どこか洗練されて見える。
男は、開いた扉に気づくと振り返り、わずかに目を細めた。
「ああ、昨日のボクちゃん」
穏やかな、それでいてどこか見透かすような笑みを浮かべる。
彼は古びたカバンに荷物を詰めながら、視線を手元に落とし、わざと大人ぶるような口調で言った。
「無茶しちゃいけない。あれでキミが死んでしまえば、逆にみんなの迷惑だ」
冷たい言葉の内容とは裏腹に、小さな子供のいたずらを見とがめるような言い方をする。
サリュは言葉に詰まった。
彼はそんなサリュの様子を気にする風でもなく、話を続けた。
「お礼がしたいならキャッシュで。なければ、いらない」
きっぱりとした物言いは、どこか突き放しているようでもあり、さらりとしていて、嫌な感じはしない。
しかし、予想外の言葉に、サリュは困惑した。困惑と同時に、衝動的な本音が口を割って飛び出したことに、サリュ本人が驚く。
「どうやって……?」
サリュは思わず大きな声が出たことに、瞬間的に後悔した。
男はようやく視線をサリュに向けると、少し意外そうに眉をひそめ、「どうやって?」と少年の言葉を繰り返す。
サリュは慌てて頭を下げた。
「ご、ごめんなさい! 本当に、ありがとうございます! でも、その……どうやって、あの状況から、おれを助けてくれたのですか?」
サリュは扉を離れ、男の近くまで進み寄って尋ねた。
男はいたずらっぽく天井を見上げる。
「うーん……」
返答を検分ような、しかしその実、はぐらかしているような仕草で、彼は指先で自分の顎をなぞる。
「まあ、根性で?」
その言葉に、ずっと黙っていたリリスが呆れたように小さく「うそ」と呟いた。男はニヤリと笑う。リリスがイラっとして「魔法みたいだった」と言った。
その言葉に、サリュは大きく目を見開く。
(やはり、あの時のアレは!)
サリュの食いつきに、男は「いやいやいや」と小さく首を横に振り、軽くいなした。
「ちょっと冷静に考えてよ。きみら、もういい年でしょ。ちびっこでもあるまいし、魔法なんて、ないでしょ」
諭すような口調だが、その瞳の奥は楽しんでいるようにも見えた。リリスがすかさず「何らかの力、よ」と訂正する。男は「はいはい」と両の手を上げた。
「珍しくないでしょ。何らかの力なんて、みんな持ってるもんだ」
その瞬間、サリュの頭の中で何かが弾けたような気がした。「力」「何らかの力」「みんな持ってる力」――その言葉が、昨日の光景と繋がる。
濁流が膨れ上がり、水の一粒一粒が増殖して巨大な岩を砕いた、あの信じられない光景。あれが、彼の使った「力」なのだろうか?
サリュは男の目を真っ直ぐに見つめた。
「それ、おれにもある? いや、ありますか?」
男はサリュの真剣な眼差しをじっと受け止めた後、再びフッと笑った。
「そりゃあ、あるでしょうよ」
その言葉に、サリュの心臓が大きく跳ねる。しかし、次の言葉で、期待は一瞬にして打ち砕かれた。
「でもお前はダメだ」
(どうして……!)
男の長い指がサリュを貫くように突きつけられる。
サリュは酸素を求めてパクパクとあえぐ魚のように、息継ぎをし「なんで?」と声を絞り出した。
男はスッと表情を変える。その柔和だった顔から表情が消え、まるで獲物を追い詰める捕食者のような鋭い眼差しになる。部屋の温度が一気に下がったような気がした。
男はぐいっとサリュに顔を近づけ、その距離はあっという間にゼロになる。彼の視線は、サリュの脳裏を見透かすように突き刺さった。
「お前には、欲がない」
冷たい声が、サリュの鼓膜を震わせる。
「この力は欲望だ」
男の声が、徐々に熱を帯びていく。その声には、狂気にも似た暗い情熱が宿っていた。
「もっと欲しい、もっと生きたい、もっと感じたい!」
男は言葉を吐き出すように続ける。苦しげに眉根を寄せたその表情は、鬼気迫るものがある。
「欲望だ」
彼の瞳は、サリュをを射抜き、圧倒していた。
「死んでもいいなんて奴に、欲望なんてあるかよ」
男は苛ただしげにサリュから離れ、ドンと床を踏んだ。
「もっと欲張れ」
その声は、一つの指令のようにサリュの脳裏に刻まれる。
「もっと貪欲になれ」
彼はまるで、サリュの内に眠る何かを無理やり引きずり出そうとしているように、声を殺して言った。サリュはその迫力に、ただ息を呑むことしかできない。
やがて、男は急に目をそらし、まるで興味を失ったかのようにサリュから離れた。その表情は、先ほどのものから一変し、再びどこか掴みどころのない飄々としたものに戻っていた。
「ま、そーいうわけで、お前には無理だ」
まるで、当たり前のことを言い聞かせるように呟くと、男はくるりと踵を返し、何事もなかったかのように荷物を持つと、部屋の扉へと向かった。
彼の指が扉に伸びる。このままでは行ってしまう。サリュは胸の奥底で、熱いものがこみ上げてくるのを感じた。
「待って! 待ってください!」
リリスがピクリと動く。そっとサリュの様子をうかがっている。
サリュの声は、自分で思っていたよりもずっと余裕がなく、切羽詰まる調子だった。
男は動きを止め、ゆっくりと振り返る。その表情は、やはりどこか掴みどころがなく、でも次の言葉を待っているようだった。
振り向いた彼を前に、サリュは(なんて言えばいいんだ?)と一瞬ためらう。言葉が喉まで出かかっているのに、うまく形にならない。しかし、あの時の光景がサリュの脳裏に浮かぶ。目の前で岩を砕いた光景が鮮明に蘇る。
「おれは……人を助けたいんです」
絞り出すようにそう言うと、言葉が堰を切ったようにあふれ出した。
「その力があれば、もっとおれはできる! もっと多くの人の役に立てる!」
サリュの声は震えていた。しかし、その中に確かな希望がこもっていることを、自分でも分かっていた。
かつて、何もできなかった無力感。そして、あの暗い記憶。その全てが、サリュを突き動かしていた。
男は何も言わず、ただサリュの言葉を聞いていた。その沈黙が、サリュの決意をさらに固める。もう後には引かないと決めた。
「だから……っ!」
サリュは彼に向かって一歩踏み出し、叫んだ。
「おれにそれを、教えてください!」
サリュの全身から、何かがほとばしっていた。それは、焦りと後悔、そして償いたいという純粋な欲求であり、人を守りたいという強い衝動だった。