死にたがり
はじめまして。
長い物語を書きたいと思います。
読んでもらえると、うれしいです。
その日、村を流れる小川のほとりは、穏やかな陽光に包まれていた。清らかな水面がキラキラと輝き、まるで絵画のような幸福な風景が広がっている。
川岸の広々とした草地では、裕福な家族がピクニックを楽しんでいた。若く美しい母親と、優しく朗らかな父親。そして、まだ3歳になったばかりの幼い男の子が、無邪気にチョウを追いかけている。両親は、バスケットから取り出したパンやチーズを広げながら、和やかに談笑していた。
その時、山の上で突如として降り始めた豪雨が、静かに、しかし確実に、この穏やかな光景を侵食し始めていた。 両親が目を離した、ほんの一瞬の隙。チョウを追いかけていた幼子は、ふらりと足元を滑らせ、そのまま川へと転がり落ちた。
「きゃッ!」
母親がその様子を目の端に捕らえ、平和な空気が一変する。母と父が慌てて立ち上がった瞬間、轟音と共に、激しい水流が上流から押し寄せてきた。
山からの雨水が一気に流れ込み、普段は穏やかな小川が、瞬く間に茶色の濁流と化していく。幼子は、その猛烈な勢いに抗うこともできず、あっという間に川の中央部へと押し流され、小さな体が激流にもまれた。
「坊や!」
「誰か、助けてくれ!」
慌てふためく両親は、ただ呆然と立ち尽くすばかりで、濁流に飛び込む判断ができない。
その時、一人の少年が迷うことなく飛び出した。
「待ってろ!」
亜麻色の髪をなびかせ、水しぶきを上げながら濁流に飛び込んだのは、サリュだ。
14歳になったばかりの細身の体だが、その動きには一切の躊躇がない。
「憑りつかれているうえに、イカレてる」と親友のリリスに良く揶揄されるが、サリュは「人を助ける」ことを己の使命としていた。
その様子が行き過ぎているゆえに、「死にたがり」と周囲にうわさされていることも承知している。
激しい水流がサリュの体を押し流そうとする。冷たい水が容赦なく襲いかかり、視界を奪う。それでも、彼は必死に手を伸ばした。
「大丈夫だ、手を伸ばして!あと少し!」
幼児の小さな頭が、水面からそこに引き込まれそうになっている。わずか数メートルの距離が、永遠にも感じられる。
濁流に逆らい、全身の細い筋肉を震わせながら、サリュは一掻き一掻き、必死に幼子へと向かった。
水中の抵抗は想像を絶するほど強く、何度も体が流されそうになるが、彼は決して諦めなかった。
(あきらめるな!助けるんだ!)
彼は自分に命じる。何を捨てても、今度は間違えないのだと、自分に言い聞かせる。
ようやく幼子の小さな腕を掴んだ瞬間、異変を知り前方の橋に駆け付けた村人たちの声が聞こえた。
「サリュ! これを使え!」
粗末な細いロープと、慌てて見繕った小さな浮袋が、水面へと投げ込まれる。それらをキャッチしたサリュは、一瞬で状況を判断した。
この細いロープと小さな浮袋では、自分と幼子の二人を岸に戻すことはできない。無理に引っ張れば、ロープが切れる。
水に押し流され続け、ロープの束はみるみる間に手の中で短くなっていく。
(この子だけでも、助ける!)
サリュは迷わず、掴んだ幼子に浮袋を巻き付け、ロープをしっかりと体に縛り付けた。
「いいか、坊や。大丈夫だよ。もうすぐママのところに帰れるからね」
もはや意識があるかないかの幼子に、水を飲みながらも大きな声で叫ぶ。
そして、遠くなりつつある背後の橋の上の村人たちに向かって、大声で叫んだ。
「この子を引いてくれ! 早く!」
ロープが引かれ、浮袋に支えられた幼子がゆっくりと橋の方向に手繰り寄せられていく。
母親はヒステリックな安堵の叫びを漏らし、幼子が無事に引き上げられたのを確認したサリュは、ようやく視線を前方に向けた。
その間も、身体は強く押し流されている。
村の人々の姿は、もう視界から遠く消えていた。
「この馬鹿!死にたがり!」
リリスの声が耳元でリプレイする。サリュは薄く笑った。
(死にたいわけじゃないけど、まあ、悪くない)
その瞬間、彼の体は激流にさらに深く引きずり込まれた。
幼子を助けることに集中していたため、体力を限界まで消耗している。濁流は容赦なくサリュを押し流し、彼はさらに下流へと運ばれていく。
視界の端に、巨大な岩が迫ってくるのが見えた。このままでは、激突する。
脳裏に、走馬灯のような映像が流れるのを、サリュは見ていた――
「あーっ! 僕のボールが!」
石畳の広場に、幼い声が響き渡った。見上げれば、広場の一角に立つ古びたオークの木。その枝の股に、真新しい革製のボールが挟まっている。子供たちの背丈では、どう頑張っても届かない高さだ。
十歳にも満たない村の子供たちが、口々に「どうしよう」「取れないよー」と困り果てていた。
「仕方ないなぁ、まったく」
そう言いながらも、その口元には笑みが浮かんでいる。
サリュはひょいと身を翻し、慣れた手つきで木の幹に足をかけた。鍛えられた体は軽く、あっという間に枝を伝ってボールの元へと到達する。
「落とすぞー!」
ひょいとボールを掴み、下で目を輝かせている子供たちに向かって放り投げた。
「わーい! サリュ兄ちゃん、ありがとう!」
「すごい、サリュ兄ちゃん!お猿さんみたい!」
歓声が上がり、子供たちはボールを追って再び広場を駆け回る。
その姿を、サリュは木の枝の上から満足げに見下ろしていた。
彼らにとって、サリュは困った時にいつも助けてくれる、頼りになる優しいお兄ちゃんなのだ。
穏やかな時間。のどかな風景。しかし、背景からイライラとした女の声が飛んでくる。
「サリュ! あんた、いつまで遊んでるんだい!」
村の顔役である雑貨屋の女主人だ。彼女の手には、使い古された鎌が握られている。
「ほら、今日の草刈り、早く済ませちまいな! 日が暮れる前に終わらせないと、今日のパンは抜きだよ!」
サリュは枝から軽やかに飛び降り、女主人に駆け寄った。
「はい、はい。今すぐ!」
朗らかに返事をし、鎌を受け取ると、村はずれの畑へと向かった。
「あーあ、また効率の悪い使われ方して」
その一部始終を眺めていた少女リリスがため息をつく。
彼女もまた、サリュと同じく親のいない孤児だ。年はサリュと同じ十四歳。腰まで届く豊かな黒髪と、神秘的な紫色の瞳を持つ美少女だが、その口ぶりは育ちのせいでどこか粗野だ。
リリスは、村の大人たちが舌を巻くほどの植物の知識を持っていた。どの草が薬になり、どの実が毒になるか。どんな病にどの薬草が効くか。その知識は、村の年寄りたちをも凌駕するほどだ。
彼女はその知識を活かし、野山で摘んだ薬草を加工して大人たちに売ることで、日銭を稼いでいた。
「リリス、この熱にはどの薬草がいいんだい?」
「リリスちゃん、この傷には?」
村人たちは、何かにつけてリリスの知識を頼りにした。病や怪我の際には、医者にかかるよりまず彼女の元を訪れるほどだ。彼女は村にとって、なくてはならない存在だった。
だが、同時に煙たがられていることも、リリスは知っていた。
「あの子は、親もいないのに生意気だ」
「薬草の知識があるからって、偉そうに」
こんな陰口は、日常茶飯事だ。
リリスはそれを知っていても、特に気に留める様子はない。ただ、冷めた目で彼らを見つめ返すだけだ。
「利用するも、されるも、お互い様」
リリスはサリュと違い、割り切るのがとても上手だった。
「これはビジネス。賞賛やつながりなんて、1円にもならないじゃない」
サリュとリリスは、血の繋がりこそないものの、まるで兄妹のように助け合って生きてきた。
リリスは認めないが、互いの存在が唯一無二の親友で、家族。この厳しい世界で生き抜くための唯一の支えだった。
――大岩が目前に迫ったとき、リリスの声が聞こえた気がした。
「死にたがり!ばか!あきらめるな!生きろ!」
普段クールな彼女が、顔をぐちゃぐちゃにして必死で叫ぶ声が聞こえる。
その声が、麻痺しかけていた意識を現実へと引き戻した。
「ハッ!」と息を呑み、反射的に身を反転させる。
どうにか岩を回避しようと、必死に手足を動かす。だが、激流の勢いはあまりにも強く、体は意思に反して巨大な岩へと吸い寄せられていく。
(もうダメだ)
そう諦めかけたその瞬間。
「水よ、岩を砕け」
耳慣れない、だが凛と通った響きが、轟音と水しぶきが支配する空間に広がった。
濁流がさらに大きく、不気味に膨れ上がる。溺れかけ、沈み始めた視界の端で、水の一粒一粒が、まるで意思を持った生き物のように増殖していくのが見えた。
次の瞬間、まるで巨大な生物が咆哮を上げたかのような振動とともに、目の前に立ちはだかっていた大岩が、文字通り粉々に砕け散った。
無数の岩の破片を透明な膜のような水が包み込み、喰らい、一緒に弾け飛ぶ。
「なっ……!?」
衝撃と、目の前で起きた超常現象に、サリュは再び意識を奪われそうになった。
(しっかりしろ、しっかりしろ)
自分に鼓舞するが、ますます目の前が黒くかすむ。そしてモニタを消すように、ぷつんとすべてが暗転した。
続きはでき次第、またアップさせていただきます。
次も読んでくれると、うれしいです。