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居酒屋で記憶をなくしてから、大学の美少女からやたらと飲みに誘われるようになった件について  作者: 古野ジョン


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第41話 恋

 マグロの刺身を口にしてみる。……美味しいのだろうけど、味がよく分からない。隣の男が気になっているのか? 私がそんな――


「お姉さん、醤油つけないで食べるなんて珍しいね」

「!?」


 男の声に、思わず箸を落としてしまいそうになる。醤油をつけるなんて、そんな些細なことも忘れてしまうほど動揺しているとは思わなかった。


「それにしてもなあ、本当にアイツなあ……。ったく、彼女と俺のどっちが大事なんだっての」


 男はよほど腹に据えかねているのか、また友人の話を始めた。私だって同じ気持ちだな。先に約束していたのは私の方なのに、桜ときたら恋人の方を優先したのだから。


「恋人、というのはそんなに良いものなのだろうか」

「ん?」

「私と君の友人は、私たちとの約束を反故にしてまで恋人と会っているようだが……そこまで大切なものなのだろうか?」

「そうだなあ……」


 考えているような表情を見せながら、男は再びワイングラスを傾けた。私は恋を知らない。恋人が出来たこともないし、誰かを好きになったこともない。どうして皆がこぞって恋をしようとするのか、私には分からないのだ。


「お姉さんはどう思うの?」

「私か?」

「恋って良いものだと思う? ああいや、答えにくいか。ごめんね」

「いや、それは大丈夫だ。ただ……良いものだと思ったことはないな」

「ほう?」

「実は今まで恋人が出来たことがないんだ。でも、私はそれでいいと思ってる。それなのに、周りは『彼氏を作れ』だの『好きな人はいないのか』だの鬱陶しいことを言う」

「なるほどね」

「だから……恋、というものには良い印象がないんだ。これでも私は恋をした方がいいのだろうか?」


 男はグラスを持ったまま、じっと考え込んでいた。この人は何を言うのだろう。もし皆と同じように「恋人を作れ」とでも言い出したら残念だな――


「それでいいんじゃない?」

「えっ?」

「話を聞く限り、お姉さんって好きな人もいないんじゃない?」

「……まあ、そうだ」

「だったら無理しなくていいよ。たしかに恋は尊いものだけど、必要不可欠ってわけじゃない。しなくても生きていける」


 意外な答えだった。今まで、こんなことを言ってくれた人はいなかった気がするな。


「好きな人ができたら恋をすればいいよ〜。それで遅くないから」


 男はグイッとワインを飲み干した。この人はどこか皆と違う。他人のことをよく見ているし、よく考えている。……こんな人と共に過ごすことが出来たら、どんなにいいことだろう。


「……君みたいに思慮深い人間が相手なら、恋をするのも悪くないな」

「えっ?」

「えっ?」


 きょとんとした男の顔を見て、自分が何を言ってしまったのか気がついた。……これでは、私がこの男と恋をしたいと言っているようなものではないか!?


「ち、違うんだっ! 今のは物の例えというか、その……」

「あはは、全然大歓迎だよ〜」

「!?!!?!?」


 何を言っている!? わっ、私と恋をしても良いと言っているのかこの男は!?


「ほ、本気か!?」

「だってお姉さん面白いんだもん。むしろ俺なんかでいいの?」

「しっ、信じていいのか!? わっ、私はっ……」


 鏡を見なくとも、自分の顔が真っ赤になっているのが分かる。この時初めて、私は自分の心がこの男に捕らわれていることに気がついた。……いや、気がついてしまった。


「お姉さん顔赤いよ? 実はウーロンハイ飲んでる?」

「ちっ、違うんだ! 顔が赤いのは、そのっ……!」


 まさか、君のせいで頬を紅潮させているのだと言えるはずもない! 私はどうしたらいい!? 私はっ、この男に何を言えば――


「なんなら、お嫁さんに貰ってもいいくらいだよ〜」

「おおおおお嫁さん!?」


 おっ、お嫁さんって……あの、白無垢を着た!? 本当に何を言っているんだこの男は!?


 初対面の男と結婚を考えるなんて、普段なら馬鹿馬鹿しいと思うことなのに。今の私はむしろ前のめりになってそれを真剣に考えている。


 私の頭は大混乱でも、男はニコニコと笑うのみだった。しかし、彼はチラリと自分の腕時計を見て、そっと席を立つ。


「マスター、お会計置いておくから!」


 男はいつの間にか財布を取り出していて、何枚かの札と小銭をテーブルに置いていた。このままではこの人が帰ってしまう。その前に、せめて名前だけでも――


「お姉さん」

「!?」


 て、手を掴まれた!? 両手で!? ちょっと、そんなに私のことを正面から見つめないでくれ! それじゃ何も言えな――


「『待っている人』がいるから、今日はこれでおしまい。じゃあね」

「えっ、えっ?」

「マスター、ごちそうさま!」


 呼び止める間も無く、男は扉を開けて颯爽と店を出て行った。置いてけぼりにされた私は、ただただ呆然とする。


 待っている人? あの男には……家で待つ奥方が既にいるということなのか? それじゃ、私と彼は……。


 男のいた席をじっと眺めながら、ウーロン茶のグラスを顔に当てた。神経を走る冷たい感覚とは対照的に、皮膚が火照っていることがよく分かる。ああ、そうか。


 私は、彼に恋をしたのだ。

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