第39話 初めて会った日
「マスター、もつ煮込みねー!」
「もう煮込みは終わりだ」
「えー、本当にないのー?」
「ねえよ。文句あんならよそに行け」
近くのカウンター席に座ったサラリーマンの要求が、ハチマキを巻いた強面の店主に突っぱねられている。居酒屋という場所に来たのは初めてだが、どうにも怖い場所だな……。
「はあ……」
なんとか注文出来たウーロン茶のグラスを口につける。恨むぞ、桜。私をこんな店に誘っておきながら、突然恋人との予定が出来たなんて言って。入店してから電話してきたものだから、帰るに帰れないじゃないか。
カウンターの上、天井近くに貼ってある品書きをじっと見る。たしか桜は刺身が美味しい店だと言っていたな。お造り、舟盛り、後は……どれが刺身なんだ? 桜刺し、というのは何のことだろう。桜を刺身にしてやりたいのは私の方なんだが。
「……」
店主に何か聞こうにも、カウンターの向こうでずっとムスっとして包丁を扱っているから聞きにくい。いかにも気難しそうだ。
よく周りを見たら、この店にいる女はわたしだけじゃないか。テーブル席を囲むお年寄りのグループに、さっきのサラリーマン。あとは……反対側のカウンター席に座る若い男。
ずっと女子校だったから、こんな空間に身を置くのは初めてだ。酔って絡んでくるような輩はいなくて安心だが、それはそれとして不慣れだな。なんだか知らない世界みたいだ。
男、か。大学に入ってから、桜に恋人が出来たと聞いたときにはとても驚いた。同じ女子校育ちなのに、どうして異性とそんな深い関係になれるのか。理解が出来ない。
別に恋人がほしいとは思わないが、周りは勝手なことを言う。彼氏なんているのが当たり前とか、早く作った方が良いとか、篠崎さんなら良い相手が見つかるとか。皆、私の気持ちも知らずによくもそんなことが言えるものだ――
「おい、姉ちゃん」
「?」
「そこの姉ちゃんだよ。他にいねえじゃねえか」
「わ、私か?」
気がつくと、強面の店主がカウンター越しに私の前に立っていた。じっと睨みをきかせてくるから、思わず構えてしまう。
「さっきから何も頼んでねえが、それじゃ困るんだよ」
「困る?」
「ウーロン茶だけで居座られちゃ商売にならねえんだ。何か頼んでくれや」
「でも、私は……その……」
こんな店で何を頼めばいいのかも分からないのに、こんなに詰められたらもっと困ってしまう。品書きを見ても得体のしれないものばかりだから、怖くて頼めたものじゃない。だが、注文しなければ店主に――
「マスター、お姉さん困らせたらダメだって~!」
「えっ?」
どこからか助け舟が現れて、困惑する。きょろきょろと見まわしてみると、左の方のカウンター席に座っていた若い男が、ワイングラスを片手に笑っていた。
「ごめんねお姉さん、根は良い人だから許してやって!」
「えっと、その……」
「女の子から見たら怖いんだよ、マスター!」
「うるせえ、黙ってな」
「それより何か作ってあげたら? 刺身の一人前とか、出来るでしょ?」
「まあ、用意できるが」
「じゃあ作ってあげて! お姉さん、生ものは大丈夫?」
「へ、平気だが……」
「よかった! ここの海鮮は本当に美味いから、食べてって!」
若い男はニコッと笑って、グラスを傾けていた。何も知らない人間に手を差し伸べてくれた、この人に……私は少し興味を持った。




