第10話 モラトリアム
改めて互いの名前を知った後、俺たちはいろいろと会話を交わした。出身地のことなど、基本的な情報を交換したのだ。
まずひとつ、夏織さんは東京出身らしい。小学校から高校までずっと由緒ある女子校に通っていたとか。妙に礼儀正しいとは思っていたけど、そういうバックグラウンドがあるなら納得がいく。
両親からは東京の大学に進学するよう勧められたらしいが、思い切って一人暮らしを決意したとのこと。それで、仙台にある森宮大学を受験したというわけだそうだ。
「へえー、じゃあ夏織さんはお嬢様なんですね。すごいなあ」
「別に、昔からそうだったからな。特に何も思わない」
追加で頼んだごぼうチップスをつまみながら、夏織さんがそう答えた。最初はやたらと緊張していたみたいだけど、だんだん落ち着いてきたな。
「そういえば、怜はどこの出身なんだ?」
「僕は大崎市というところから来ました。宮城の県北ですよ」
「そうか、地元なんだな」
「いえ、仙台に住み始めたのはここ数年の話ですし。立場は夏織さんと変わりませんよ」
実際、あまり仙台が地元という感じはしない。東京から来る人よりはよっぽど慣れているだろうけどな。
「その……ひとつ聞いていいか?」
「何ですか?」
夏織さんが箸を止め、俺の持つビールジョッキ(三杯目)に目を向けた。何か気になることがあるのかな?
「こんなことを聞くのは申し訳ないんだが、怜はどうして酒を飲めるんだ?」
「ああ……」
なるほど、そういうことか。たしかに現役入学の一年生なら年齢的に酒を飲めないのが普通だ。そりゃ二十歳にもいかないで飲んでる奴もいるけどさ。
「簡単ですよ、僕は二浪してますから。本来なら、学年的には夏織さんの二個上なんです」
「そっ、そうだったのか。すまない、聞かない方がよかったか」
「いえ、悪く思わないでください。僕は気にしていませんから」
夏織さんは申し訳なさそうに頭を下げていたが、勉強せずに怠けていた俺が悪いので気にする方がおかしい。どちらかというと、むしろ二浪もさせてくれた自分の親に申し訳ないな……って、あれ?
「どうかしました?」
「いや、その……」
口元に手を当てて、考え込んでいる夏織さん。今度は何が気になるんだろう。
「やっぱり、怜は大人だな」
「大人?」
「昨日から思っていたんだ。同じ一年生なのに、怜はずいぶんと思慮深い。そうか、二個も年上なら納得だ」
「あはは、浪人の二年間なんてただのモラトリアムですよ。大した意味はないです」
浪人で社会性が磨かれる……なんてよく言われるけど、戯言に過ぎないと思う。実際、大半の浪人生は予備校なり自宅なりで勉強して過ごすわけだからな。むしろ頭が凝り固まってしまう気すらするけど――
「うえっ!?」
「怜、君に頼みがあるんだ」
なんだ急に!? ジョッキに伸ばそうとした手を掴まれてしまって、思わず変な声を出してしまった。夏織さんは真剣な表情で俺の顔を見ている。
「この通り、私は何も知らないんだ! 居酒屋の作法すら、私の辞書には存在しない」
「べべ別に、そんなの知らなくたって生きていけますって!」
本当にこの人の行動は読めねえな! 俺は慌てて首を振って手を放そうとするが、夏織さんはがっちりと掴んだまま。
「私はずっと箱庭の中で育てられた。この街に来てから、ずっと知らないことだらけのなんだ」
「は、はあ」
「だから怜、これから私に教えてほしい。怜が学んできたこと、身につけてきたこと、みんな私に」
「どうして……」
「なんだ?」
「どうして僕なんですか?」
心からの言葉だった。俺はたまたま夏織さんを口説いた(らしい)だけの男。きっと両親に大事に育てられてきたであろうこの人に、物事を教える資格があるのだろうか?
俺が問うたあと、夏織さんはきょとんとしていた。そして、まるで俺の問いが愚問であると言わんばかりに――口を開く。
「私が怜に教えてほしいと思ったからだ。他に理由が必要か?」
――綺麗だ、と思った。真っすぐに見つめる夏織さんの目が、凛とした声が、何より素直な心意気が。
「夏織さん」
「!?」
空いていた左手を、夏織さんの両手にそっと添えた。予想外だったようで、またまた顔を赤く染めている。
「な、なんだ急に!?」
「たぶん、夏織さんが知らずに僕が知っている知識なんてほとんどありません。どんぐりの背比べですよ」
「そっ、そんなことは――」
「でも」
夏織さんの手をそっと撫でる。柔らかく、すべすべの肌。さっきこの人がしてくれたように、努めて視線を真っすぐにして、はっきりと言った。
「僕も夏織さんに教えたいと思いました。だからこれから、精いっぱい頑張ります」
互いの目を見つめあう。向こうが何を思っているのか、俺には未だに分からない。それでも、ひとつ予感したことがある。――夏織さんとは長い付き合いになるんだろうな、なんて。
「そろそろ締めにしませんか? ここはお茶漬けも美味しいんですよ」
「そっ、そうなのか? それはぜひ食べたいな」
二人で一緒にメニューを眺める。梅か鮭かちりめん山椒かを選びながら、ふと思った。
ああ幸せだな、と。




