転生したら勇者の親友になった件について
「どうもー!勇者ですっ!転生よろしくお願いしまっす!」
──からん、と乾いたドアベルの音に続けて響いたのは、底抜けに明るい声だった。にっかりと、まるで後光でも差しているかのような満面の笑みを浮かべた男が、カウンターの前に立っていた。
──ここは死後の世界。煉獄と呼ばれる場所。
天国のような慈愛に満ちた穏やかさもなく、地獄のような身を焼く苛烈さもない。ただ、死んだというのに生きているかのような、生温い時間が無限に続く場所。 そんな煉獄の一角にあるのが『死後転生課』だ。
現世で言うところの、市役所の一部署。そんな表現がしっくりくる。ずらりと並んだスチール製のデスク、ひっきりなしに明滅するモニターとひっきりなしに印刷される紙と、天使と呼ばれる存在達が飛び交っている。
──この世界のルールはこうだ。
地獄に堕ちた魂は、永い時間をかけて罪を贖い、その存在をまっさらに洗い流されてから次の生へと送られる。天国の住人は、いつでも自由に転生を選ぶことができる。
そして煉獄の住人──天国へ行くには善行が足りず、さりとて地獄に堕ちるほどの罪もない。そんな中途半端な魂たちは、比較的軽度な贖罪を終えた後、希望すれば転生の門を潜ることが許される。
そういうわけで、俺もとっくに転生の権利は手にしている…のだが、次の人生にこれっぽっちも希望を持てずにいた俺は、贖罪を終えた後もこうして職員の手伝いという形で、この場所に留まり続けている。
ひたすらモニターにデータを入力し、転生希望者に詳細を説明し、流れ作業のように彼らを転生の門へと案内する。そんな、昨日と今日の区別もつかないような日々。果たして、何年、いや何十年が過ぎ去ったのか。
悪役令嬢と呼ばれ、断頭台の露と消えた少女。パーティを追放され、失意のうちに生涯を終えた魔法使い。家族に虐げられ続けた令嬢に、無能の烙印を押された貴族の息子。
様々な人間たちの、最期の続きを見てきた。達観した者、絶望した者、次こそはと意気込む者。いろんな人がいた。
だが、未だかつて開口一番「どうも勇者です」などと、これからピクニックにでも出かけるかのようなテンションで入ってきた奴は一人としていなかった。
「……?」
俺が呆然と思考の海に沈んでいると、勇者を名乗る男は不思議そうにこてんと首を傾げた。その仕草には、一切の悪意も計算も感じられない。
「あ、ああ、いえ。なんでもありません」
我に返った俺は、慌てて誤魔化すように一つ咳払いをして、所定の用紙を取り出す。
「では、こちらの書類に必要事項を記載してください」
「はーい!」
実に気持ちのいい返事と共に、勇者と名乗った男は用紙を受け取ると、カウンターで意気揚々とペンを走らせ始めた。まるで夏休みの宿題でも片付ける小学生のようだ。
「いやぁ、不思議なもんすね!死ぬ前はここのことなんて微塵も覚えてないのに、死んだ途端、全部思い出したっすよ!」
ニコニコと人懐っこい笑みを浮かべながら、男は驚くほど慣れた手つきで項目を埋めていく。その言葉に俺の眉がぴくりと動いた。
おかしい。転生とは、魂に刻まれた人格や性質こそ保持されるが、前世の記憶は綺麗さっぱり洗い流されるのが絶対のルールのはずだ。そうでなければ、魂は過去に囚われ、新しい生を歩むことなどできはしない。だというのに、なぜこの男は覚えている?
──俺の疑念が顔に出ていたのだろうか。
「おっと、お兄さん。俺がどうしてここのことを覚えてるか、気になります?」
悪戯っぽく片目をつぶり、男が聞いてくる。
「え、ええ、まあ……」
その有無を言わせぬ勢いに、俺はつい頷いてしまった。すると男は、胸をどんと叩き、満面の笑みでこう答えた。
「そりゃあ、俺が勇者なんで!」
答えになっていないだろう。聞いた俺が馬鹿だった。心の内で一つ、深いため息をつく。これ以上関わると、こちらのペースまで掻き乱されそうだ。
「はい、書類提出ありがとうございます。あなたの転生は5日後になります。それまではご自由にお過ごしください」
俺は書き上がった書類を確認するのもそこそこに、受付番号が刻印されたプラスチックの札を手渡す。その声が、自分でも驚くほどつっけんどんになってしまった。しかし、男はそんな俺の態度など微塵も気にする様子はない。
「あざっす!」
彼は札を受け取ると、来た時と同じ太陽のような笑顔を俺に向け、片手をひらひらと振りながら去っていく。
からん、と再びドアベルが鳴り、転生課にいつもの静寂が戻ってくる。
俺は、男が去っていった扉をしばらく見つめていた。数十年と澱み、停滞していたはずのこの空間の空気が、ほんの少しだけ、かき混ぜられたような気がした。
二日目
手伝いが休みの日、俺は煉獄で唯一、美しいと呼べる場所で横になっていた。
天国との境を流れる、どこまでも広大な川。その河川敷には、現世のどんな植物園も裸足で逃げ出すほどに美しい、色とりどりの花が咲き乱れている。
ちなみに地獄との境には見ているだけで気分が滅入るような、おどろおどろしい山脈が連なっている。両極端な光景を見られる、というのが煉獄という場所だ。
話は戻るが、俺はやることがない日は、ひたすらに眠るようにしている。思考のスイッチを切り、感情のボリュームをゼロにして、意識を深く沈めていく。何も考えないようにするために。空っぽの心に、余計な何かが流れ込んでこないようにするために。
そうして次の手伝いの日が来るのを、ただじっと待つ。それが、転生の権利を放棄し続ける俺にできる…唯一の自己防衛だった。
──だというのに。
「あれ? 昨日のお兄さんじゃないすか!」
「……げ」
鼓膜を揺らす快活な声。ゆっくりと目を開ければ、案の定、太陽みたいな笑顔を浮かべた男──勇者と名乗った男が、俺の顔を覗き込んでいた。
「お兄さんお昼寝してたんすね、もしかしてお昼寝好きとか?そうじゃない?そしたらお兄さんは何か好きなものとかあります?俺は柔らかいパンが好きで!あ、食べ物じゃないなら誰かの笑った顔っていいですよね!見てるこっちも元気でるっていうか!というか敬語やめていいっすか?敬語とか苦手で!!」
俺が返事をする間もなく、勇者は隣にごろりと寝転がると、まるで息継ぎを忘れたかのように言葉を紡ぎ続ける。
最初は「はあ」「そうですか」と気の抜けた相槌を打っていたが、五分も経つ頃にはそれすら面倒くさくなり、完全に沈黙を貫くことにしていた。だが、この男はまったく気にしない。俺の無言を意に介しているのか、いないのか…。その判別すらつかないまま、彼の独演会は続いていた。
──こいつは何故、こんなにも話しかけてくるんだ。マシンガンのように繰り出される言葉があまりに騒がしくて…俺はとうとう根負けした。
「……なんで、そんなに話しかけてくるんですか。暇なんですか?」
「お、反応してくれた!」
ぱあっと、花が咲くように表情を輝かせる勇者。その屈託のなさに、なんだか気まずくなって視線を逸らす。違う、そうじゃない。俺はお前と話したいわけじゃないんだ。内心で深く舌打ちをしてしまう。
「俺以外にもいるでしょう、話す相手くらい。その人たちと話したらどうです?もしくは、ほら、天使とか。」
まあ、彼らがお前の雑談に付き合うほど暇だとは思えないが。なんて心の中で毒づきながら──ふと、もしかしたらこの男は天使が苦手なタイプなのかもしれない、とも思った。
この煉獄を管理する「天使」と呼ばれる存在。その見た目は、正直言って不気味だ。初めて見た時は腰を抜かしそうになった。巨大な翼そのものに、無数の「目」がぎょろりとついているのだ。会話も口を使わず、直接脳内に語りかけてくるテレパススタイル。確かに初対面時は、不気味さで一歩引いてしまうのはわからなくもない。
──だが、彼らはその見た目に反して、魂を慈しむような、すべてを包み込むような優しさを根底に持っている。誰かの意見を決して否定しない。優しく包み込むような、まるで陽だまりの中で眠るような暖かさがある。
だから転生を待つ大概の人間は、ここにいる数日でなんとなく彼らにほだされていくのだ。…まあ、最後までそのグロテスクな見た目を受け入れられず、心を閉ざす者がいるのも事実だが。そういう人間への対応は、大抵俺の仕事になる。だから彼も天使が苦手なのかと思ったのだが
「あそこにいる天使さんたちとは、もうあらかた話しちゃったんで!だから、まだ話したことのない人と話してみたくて!」
違った。こいつはただの、生粋のコミュニケーションお化けだった。
合わない。致命的に合わないタイプだ。俺が本日何度目かのため息をつくが、勇者はそれを気にすることなく
「ほんと、ここはなんもねえよなぁ」
としみじみと呟いた。
当たり前だ。ここは贖罪と転生を待つための待合室であって、観光地じゃない。見渡す限りの荒野と、晴れることない曇り空。あとは転生課と書庫のある建物に転生の門、そして簡易的な寝床がいくつかあるだけ。
──何もない俺には、お似合いの場所だ。
「……貴方、ここに何度も来ているようですが、天国へ行こうとは思わないんですか?勇者なんでしょう?なら、天国へ行く資格くらいあるんじゃないんですか」
ふと、昨日からの疑問が口をついて出た。魔王を討伐するなり、世界を救うなり、それ相応の偉業を成し遂げたはずだ。天国への切符くらい持っていて当然だろう。
「んー、無理だな。俺は天国には行けねえ。」
勇者は俺の言葉に首を振る。
「確かに俺は魔王を倒した。だが、それもまた命だから、奪った俺に天国へ行く資格はない。かといって決まりで地獄にも行けない。だから自動的に、いっつもここ煉獄に送られるってだけの話っすよ。それに、そもそも滞在日数もそんなに長くないから、煉獄のほうが何かと都合がいいんすよね!」
彼はそう言って、またニカッと笑った。
──天国に行けない勇者。
命を懸けて魔王を倒したのに?だが、それを問いただせば、きっとまた面倒なことになる。俺はそれ以上聞くのをやめて、再び口を閉ざした。隣では、また勇者の独り言が始まっている。その声をBGMに、俺はただ、地面をずっと見つめ続けていた。
三日目
──からん、と乾いたドアベルの音がして
「おっす!! おはよーございまっす!!」
聞き慣れてしまった声が建屋に響く。
「……なんでまた来たんですか」
カウンターに肘をつき、俺は隠そうともせずに深いため息をこぼした。書類の山にうんざりしていた顔が、今は目の前の男に対する呆れに塗り替えられている。
「やることなくて!!」
悪びれもせず、胸を張って言い放つ勇者に、もう一度ため息がこぼれた。どうしてこう毎日毎日、顔を出すんだ。
だが、まあいい。どうせ今日含めてあとは3日間を乗り切ればいい。嵐のようなこいつも、すぐにいなくなる。そう思うと、ほんの少しだけ気持ちが軽くなった。
「……で、今日は何の用ですか」
俺は一度、作業の手を止めて彼に向き直る。その途端に勇者の顔がぱっと嬉しそうに輝いたのが見えた。
「話に来ただけ!!」
「ならあちらの待合室へどうぞ」
すぐに作業に戻ろうとする俺の袖を、しかし勇者は遠慮なく掴んで引き留める。
「えー!! 話そうよ、お兄さん!!」
ああ、面倒くさい。この手のタイプは無視を決め込んでも無駄だ。むしろ、無視すればするほど騒がしくなるだけだ。俺は観念して、もう一度彼と向かい合う。
──そこで初めて、まともに勇者の顔を見た。
黒の短髪。快活さと、それでいてどこか精悍な印象を併せ持つ顔つき──見た目は少年と青年のちょうど中間くらいだろうか。
だが、何よりも特徴的なのは瞳だった。
深い濃茶の、どこにでもありそうな色のはずなのに。まるで夜空から掬い取ってきた星々を、そのまま溶かし込んだかのような強い輝きを宿している。
──その真っ直ぐな光に見つめられると、心の奥底まで、すべて見透かされているような気がして…なぜか酷く居心地が悪かった。
その居心地の悪さを振り払うように、俺は慌てて言葉を探した。
「……えっと、貴方は、どうして自分が勇者だってわかるんですか?」
「そういう生まれだからっす!! 俺はどんな境遇に生まれ落ちても、必ず確定で『勇者』になるんすよ!」
なんとか振り絞った質問に返された答えと、一点の曇りもない笑顔が、俺の胸の奥深くで何かが軋む音を立てさせた。
どんな生まれでも、必ず勇者になる。自分が何者であるかが揺らぐことなく定まっている。
それはなんて──恵まれていることなのか。
言葉が、頭の中で何度も、何度も反響する。
「……なんで、俺なんかと」
視線を逸らし、喉の奥から絞り出すように言葉を紡ぐ──なんで、そんな恵まれたお前が、何もない俺なんかに構うんだ。
「んー? なんか、自分で言うのはなんすけど…俺と似てるなって。だから、話したくなったんすよね」
その一言に、奥歯をぐっと噛みしめた。口から飛び出しそうになる汚い言葉を、必死に飲み込む──ちょうどその時だった。
「勇者さん、少々よろしいでしょうか。次の人生について、いくつかご相談が…」
一体どこから現れたのか、天使が勇者に話しかける。
「はーい!! ちょっと失礼するっす!!」
勇者は俺に片手を上げると、軽やかな足取りで天使についていった。
一人残されたカウンターで、俺は大きく息を吐く。
『特別』『恵まれている』
──言葉が、錆びた刃物のように胸を容赦なく抉る。
──俺には、何一つなかった。家族も、家も、友人も。温かい記憶なんて、何一つ。
覚えている一番古い記憶は、店の親父にタコ殴りにされ、投げ捨てられたゴミ捨て場から見上げた、虚しい曇り切った夜空。そして最後の記憶は、名も知らぬ戦場で見た、星ひとつない絶望的に暗い、曇った空。
痛くて、苦しくて、自分の人生に意味なんて欠片もなくて。ゴミ屑みたいに生きて、ゴミ屑みたいに死んだ──それが、俺の人生のすべてだった。
その事実が鉛のように胸を締め付け、呼吸を浅くする。
──勇者と自分。その圧倒的な違いを見せつけられたような感覚と共に、どす黒い何かが腹の底から湧き上がってくる。
昨日まで抱いていた呆れや無関心は、今やはっきりとした輪郭を持つ、憎しみに近い感情へと変貌していた。
──何が、似ているだ。馬鹿にするな。
お前と俺は、何もかもが違う──そうだ、アイツはずっと恵まれた人生だったに違いない。生まれながらに『勇者』であることが確定している人間の人生なんて、どうせ煌びやかで、素晴らしいものに決まっている。
見てやろう──俺は衝動的に席を立つと、地下にある記録書庫へと向かった。
地下の書庫には、煉獄を訪れたすべての魂の人生が記録されている。数十年近くここで働いている俺は、その存在も、使い方にも精通していた。
移動用のリフトに乗り込み、勇者の申請書類にあった名前をコンソールに入力すれば機械が静かに作動し、俺の身体は広大な書庫の奥深くへと運ばれていく。やがてたどり着いたのは、天まで届きそうな巨大な本棚。そこに、彼の記録はあった。
上から下まで、ぎっしりと詰め込まれた人生の記録。その膨大な量は、彼が何度も、何度もこの煉獄を訪れた証左だ。
恵まれた人間関係。恵まれた生まれ。恵まれた環境。
それを持っていたからこそ、だからこそ、お前はそんな風に笑っていられるんだろう。ゴミ捨て場で殴られ、戦場で死んでいった、何者にもなれなかった俺とは違うんだろう。
俺は舌打ち一つすると、棚から一番手前のバインダーを乱暴に引き抜いた。
──突きつけてやる。
綺麗事ばかりを見てきたに違いないお前に。「似ている」などという戯言を口にしたあの男に。
お前と俺は、決して交わることのない、まったく別の世界の人間なのだということを。
四日目
「どしたの、顔真っ青じゃん」
記録書庫から戻った俺は、手伝いをサボって、いつもの河原で膝を抱えていた。見たものが忘れられず、何をする気もなれず、手伝いの約束を数十年で初めてすっぽかして、河原に来ていた。
そんな中で不意に聞こえた声に顔を上げると──勇者がいた。
「なんで、ここに……」
「天使たちが言ってたんだよ、アンタがいないって。すっげえ心配してたからな!だから俺が探しに来たんだ! あ、もちろん俺も心配したぜ!」
──カラッとした、一点の曇りもない笑顔。
その顔が見られない。昨日の俺なら憎悪を向けたはずのその笑顔を…今はもう、直視することができなかった。俺がわずかに目を逸らせば
「なあ、散歩しようぜ!」
勇者はニッカリ笑いながら手を差し伸べた。
煉獄の荒野を2人揃って歩く。俺は無言で俯きながら。勇者はいつも通りに、楽しそうに、生前の話をしていた。
「……んで、肉食べながら歩いてた時にさ、呼び止められて。すっげえ可愛い子に花を渡されちゃって……」
明るい…キラキラとした日常の話。そうだ、俺が嫉妬した…彼の輝かしい人生。
「どうして……」
「ん?」
「どうして、そんな風に明るくいられるんですか……っ!!あんな、あんな仕打ちを受けてまで、どうしてまだ誰かを助けようなんて思えるんですか!!!」
俺はその場に立ち尽くし、喉が張り裂けんばかりに叫んでいた──脳裏に、あの記録が蘇る。
スラムで生まれ、奴隷として育ち、戦災孤児として彷徨った人生。家族から考えうる限りの暴力を受けた人生。幼馴染に嵌められ、地獄を見た人生。
世界を救った挙句、その力を恐れた人々に裏切られ、殺されるだけならまだいい。生きたまま体を切り刻まれ、兵器として利用されようとしたことさえあった。
得た褒賞を巡って、周りの人間が醜い争いを繰り広げるのを、ただ見ているしかなかった人生も。
──記録の九割以上が、そんな碌でもない人生と碌でもない結末。凄惨な記録の数々は、人の悪性というものを煮詰めて固めたような…という表現がまさしく相応しいだろう。
見たものが、読んだものが、脳に焼き付いて離れない。文字だけのはずなのに、その一つ一つが悪臭を放ち、おぞましい映像となって俺を苛むほどに…凄惨なものだった。
だからこそ──混乱する。こいつは、この地獄の全てを記憶している。どうして、こんな過去を持つ人間が、あんな風に笑える? どうしてまだ、人を信じ、助けようとする?
「んー、どうしてって言われてもなぁ……」
勇者は俺の剣幕に臆することもなく、少しだけ首を傾げた。
「困ってる人がいたから、かな?いや、違うか。……俺が頑張れば、笑ってくれる人がいたから、だな」
その言葉は、声色には嘘偽りも、悲壮感も微塵もなかった。あれほどの人生を歩んでなお、人からあれほどの扱いを受けてなお、彼は笑ってくれるから助けようと言っているのだ──その計り知れない魂の在り方に、もはや苛立ちや反発を超えて、畏怖に近い感情を抱き始めてしまう。
「そ、そんなの、嘘だ!! 家族もいない時もあって、信じていた人間に裏切られて、挙句に、社会からいらないと言われてるような扱いなんだぞ!!なのに、どうして……どうして、世界のために戦えるんだ……っ」
震える声で問いかければ、勇者は少しだけ、曇った空を見上げる。
「……魔王が世界を侵略してる時、俺に花をくれた子がいた。笑顔が、すげえ素敵な子だったんだ──俺が魔王を倒せば、あの子の笑顔は守られるだろ?」
──彼は、懐かしむように目を細める。
「俺を産んで育ててくれた母さんたちがいた。見守ってくれた父さんたちがいた。俺を好きでいてくれた人がいた。支えてくれたダチがいた。……それに…俺がいなくならないといけない理由も、わかるんだ。魔王と張り合えるような力を持つ奴がそばにいたら、そりゃ怖いだろ? だから排除したくなる気持ちも…まあ、仕方ない。それで誰かが安心してくれるなら、まあ、いいかって」
──そう言って、彼はまた笑う。
「だから、世界のために戦えるっていうのか……?」
「んーん…、そんな大したもんじゃない。俺はただ……俺の手が届く人に、笑顔でいてほしかっただけなんだ」
──俺には、何もない。
家族も、家も、友人も。温かい記憶なんて、何一つ。ゴミ屑のように生きて、ゴミ屑のように死んだ。
ずっと、それが「間が悪かった」せいだと思っていた。天使にもそう言われた。生まれも、タイミングも、環境も、すべてが悪かったのだと。
そういうのを加味されて俺は煉獄行きになった。天使たちからもそう言われた。
そういうものだと──納得できるわけがなかった。
それはつまり…次の人生でも「間が悪かった」ら、また同じことの繰り返しだと言われているようなものじゃないか。
だから転生なんてしたくない、するくらいなら、何も考えない石のように、ただ毎日を過ごしたい。
運のいいことに天国の民はここにいない。何もかにもに恵まれて──優れた特別な人間はいなかった。悪行を自らの意思でこなした、という結果を持った、特別な悪人も地獄からくることはなかった。いるのは自分と同じような人間──そうだ、俺はそれを見て安心していたのだ。
──ああ、惨めなのは俺だけじゃない、と。
──なのに、お前が現れた。
『特別』で『恵まれた』お前が。
醜い嫉妬に駆られて、お前の人生を暴いて、安心したかった。お前が恵まれていたから成功したのだと、お前が特別だから全てを持っていたのだと。
──だから俺が失敗したのも仕方ないと、そう思いたかったんだ。
だが、結果は違った。
お前の人生は、俺なんかよりも、ずっと、ずっと悲惨だった。
「持ち上げるだけ持ち上げて! 最後はいらないって切り捨てて! そんな世界を、笑ってくれる人がいるからなんて理由で救っちまって……!どうして、なんで……似てるだなんて……俺なんかが、お前と、似ているわけがない……!」
「──いいや、似ているよ。」
嗚咽混じりに吐き出す俺に──勇者は静かに、でもはっきりと首を振った。
「……だってアンタは、俺を切り捨てられなかった」
その言葉の意味がわからず、俺は呆然と顔を上げる。
「嫌なら切り捨てればよかったんだ。話しかけられても完全無視して、応答もしなければよかった。だけどアンタは…文句を言いながらも相槌を打って、俺を知ろうとしてくれた。そこが、俺と似てる」
「……っ」
「何より、アンタは天使たちを手伝っていただろう?見たくもない、転生もしたくない、ただ怠惰に過ごす、という選択肢がある中で…。それは、アンタが優しい人だからだと思うんだ──アンタは、誰かに手を差し伸べられる人なんだよ」
──戯言だ。綺麗事だ。俺の何がわかる。
そう叫んで、拒絶したかった。
なのに──どうして、涙が止まらないんだろう。
「ちが、う……違うんだ、俺は、ただ、転生したくなくて……」
「傷ついた人間が、次に進むのは難しいことだよ。俺だって、何度か勇者をやめたいって思った。だから、アンタの気持ちはわかる。」
「……なら、」
しゃくりあげながら、俺は問いを投げかける。
「なら、どうして……どうしてアンタは、前に進めたんだ……」
俺の問いに──勇者は微笑んだ。
「俺は、万人を救いたかったわけじゃない。ただ、俺の人生に関わってくれた人の中に、守りたい人がいた。笑ってほしい人がいた。俺が前に進み続ける理由なんて、本当に…ただそれだけなんだよ」
──煉獄の空は昼夜問わず、いつも分厚い雲に覆われている。星なんて…見えるはずもない。
──それなのに。
俺には、どうしようもなく輝く、一つの星が見えた気がした。
五日目の朝。
この五日間で、ついぞ一度も崩れることのなかった笑顔のまま、勇者は転生の門に向かって歩いていた。そして、俺の前で足を止めると、悪戯っぽく笑いかける。
「じゃあな!元気でやれよ!」
言葉と同時に、背中をバシンッ!と力任せに叩かれる。
「いった…っ!!痛えよ!!」
「ハハハ!あ、そうだ、アンタ、笑うと結構いい顔してると思うぜ!」
痛い、という俺の文句を無視して、彼は何度も、何度も楽しそうに背中を叩く。
やがて満足したのか、勇者はくるりと踵を返し、転生の門へと再び歩き出した。
──不意に、彼が振り返る。
そして、ニカッと歯を見せて笑うと、親指をぐっと立てて見せた。
「行ってくる!!」
──その声は、これから死地へ向かう勇者のものとは思えないほど、どこまでも軽やかで、でも相変わらずうるさくて。
まばゆい光の中へと進みゆくその背中は、どうしようもなく──
勇者は転生した──嵐が去った後のような静寂の中、俺は小さく息をつくと建屋の方へと向かう。
「……馬鹿な人だ」
呟きは、呆れか、あるいは親しみか。自分でもよくわからないまま、俺は転生課のカウンターへと足を向け、一枚の申請書を差し出した。
「転生します」
その言葉に、対応してくれた天使の無数の目が、驚いたように丸くなるのがわかった。
「……あんなうるさい人、一人で旅させるわけにはいかないでしょう」
俺は、その視線から逃れるように、言い訳がましい言葉を付け足した。どうして、と聞かれたわけでもないのに。勝手に口から出てきた言葉が、ひどく気恥ずかしかったし、天使の、どこか生暖かく、そして嬉しそうな視線が、さらに俺をむず痒い気持ちにさせた。
──俺はいつも空を眺めていた。
星なんてまるで見えやしない、分厚い雲に覆われた、曇り切った空を。
それは生まれてから死ぬまで、そして死んでからも…ずっと変わらない光景だった。
いつか、あの雲の向こうに輝く星が見えるかもしれない。そんな淡い期待はいつしか消えた。
途中から空を見るのをやめた。汚れた地面だけを見て歩くようになった。希望なんて見なければ、傷つくこともないと思ったから。
──でも、今、俺はもう一度、空を見上げている。
眩く輝く星を目指して。それといつか並び立つために、自分の足で、一歩ずつ歩き出すことを決めた。
──そこに、世界を救うような大層な理由はない。
誇れるような過去も、自慢できるような才能もない。誰かを羨む気持ちだって、怒りだって、憎しみだって、きっとこれからも消えはしないだろう。
それでも、ただ──俺は、あの星を裏切りたくない。あの日、あの時に見た輝きを、あれは幻だったのだと、自分の手で否定したくないのだ。
──曇り切った空の中で、たった一つだけ輝く星なんて、現実にはありえないのかもしれない。
──だけど、俺は確かに見たのだ。
この煉獄の、絶望の色をした空を裂くほどに、鮮烈に輝く、星の光を。
──もし俺が、勇者とは何か、と問われるならば。
勇者とは──誰かが前を向いて歩くための、天に輝く、道しるべのような星ではないか。
今の俺は──そう思うのだ。
──転生したら勇者の親友になった件について