1話「春、波音が聞こえた」
1話「春、波音が聞こえた」
春の風は、少しだけ塩の香りがした。
窓の外に広がる海と、見慣れない町並みに、私は黙って視線を落とした。
転校初日。東京を離れてやってきたこの汐見町は、思ったよりも静かで、人通りも少なかった。
でも、不思議と“寂しい”というより、“落ち着く”と感じた。
電車を降りてからずっと続く坂道。
その先にあるのが、これから通う高校――汐見高校だ。地元では「しおこう」と呼ばれているらしい。
「……遠いな、学校」
思わず漏れた独り言が、潮騒に溶けていく。
すると、後ろから声がした。
「慣れるとそうでもないよ。海風さえ我慢できればね」
驚いて振り返ると、そこにいたのは一人の少年だった。
制服は同じ。だけど、ネクタイの色が違う。二年生だろう。
柔らかな髪が風に揺れている。目元は穏やかで、だけどどこか影があるような、そんな表情だった。
「あ、ごめん。驚かせた?」
「……ううん、大丈夫。ありがとう」
私は小さく会釈した。
彼は笑った。
「俺、瀬戸蒼。二年のB組。君、転校生でしょ? 今日から?」
「白石天音、A組です。……よろしくお願いします」
「A組か。教室近いね。案内しようか?」
「え……でも、まだ時間ありますし」
「遠慮しないで。俺も今ちょうど、病院から戻ってきたとこだから」
病院? と思ったけど、それ以上は聞けなかった。
彼――蒼のペースに引き込まれるようにして、私はまた坂を登り始めた。
その道すがら、彼は何でもないように町の話をしてくれた。
「このあたり、シャッター閉まってる商店街多いけど、たまに面白い店もあるんだ。喫茶店“うたかた”とか、好きだよ。古いけど落ち着く」
「“うたかた”……?」
「海辺にあるんだ。放課後、案内しようか?」
不思議なことに、私はすぐに「うん」と頷いていた。