無感の花嫁 【短編版】
興味を持って下さり、誠にありがとうございます。
この短編は【現在連載中のタイトルの七話分】をまとめたものになります。
楽しんでいただければ幸いです。
少女が生まれたのは母が十四の歳の頃であった。
少女が聞かされた話によると、母はヒナトという極東の島国から遥々やって来た熱心な信者のひとりであり、ひどく華奢で薄い身体の幼子だったという。
やがて母は日々の中で、その幼さに秘めた情熱を偉大なる父から認められ、父の子を身ごもることを許された。だが元より身体の弱かった彼女は、出産と同時にその命を落としてしまったのである。
それが今から、およそ十二年前の出来事だった。
「聖女様、おはようございます。本日も、わたくし共の度重なるご無礼をお許しください」
少女の世話人を務める女がそうへりくだり、礼をする。
彼女の後ろに控えていた十数名の女性、童女たちも同じように規則正しい流れで深く頭を下げた。
右の手のひらを心臓に当て、一度両手を合わせてから胸の辺りで合わせたままの両手を滑らせる。
左の甲が上に来るのが、目上に対する一般的な挨拶だった。
「聖女ツキノの名に於いて、汝の罪を許します」
凛とした言葉が、神秘さと妖しさの双方を孕んだような広い神殿に響き渡る。
聖女と呼ばれた少女――ツキノの姿は、その神殿の頂である祭壇に在った。
母と同様、華奢な腕に薄い胸、儚げな蝶を思わせるまっさらな白銀の髪と冷たく鋭い蒼氷の瞳。
陶器のように割れやすい様相をしたツキノは、どこにでもいるようでどこにもいない、齢十二の少女だった。
ただ一点、四肢が鎖に繋がれていることを除けば。
ツキノは御神クォセヴィトニアを降臨させるための贄――つまりは、聖女であった。
術式の紋様が刻まれた祭壇の上だけで生活をし、特殊な鎖を通じて供物たる〝感情〟を差し出す。
それが聖女の適性を持ったツキノに、生まれながらにして与えられた役割。
たった13㎡程度の空間だけが物心ついて以降、彼女の世界の全てだった。
それでもツキノの保護者――宗教団体〝デゼルネルピス〟にとって御神クォセヴィトニアの降臨は大命であり、悲願。
基本的には現総大主教の父よりも生存が優先される存在と言える。
故に置かれた状況に反して、待遇そのものは司祭や信者の誰より優遇されていた。
端的に言えば、大事にされていたのである。
しかし無論それはツキノというひとりの人間としてではなく、聖女としてに過ぎない。
彼女がそのことに初めて気が付いたのは、皮肉にも感情の大半を失った後だった。
無感情。無感動。無表情。無関心。
あらゆる事象が他人事のように感じ始め、自身の置かれた状況を冷静に俯瞰して客観視できるようになってしまった結果である。
何より毎日のように接する相手の明確な変化を目の当たりにし、何の疑問も驚きも示さない世話人や無数の信者たちの反応が決定的だった。
この場所では誰ひとり、聖女を名前で呼ぶことはない。
だから無意識に〝聖女ツキノ〟と名乗っていたのだろう、と彼女は淡々と自らを分析していた。
――この場所を抜け出して、外に出たい。
それは搾りかす同然の〝強欲〟だった。
だが聖女であるツキノにそのような機会など与えられるはずもない。
文字通りの皆無。選りすぐりの狂信者だけが集められたこの施設で、彼女を連れ出してくれるような味方などできる道理もなかった。
であれば、ツキノに取り得る選択肢はただ一つしか存在していない。
それは、やり遂げたら自身の存在がどうなるのかも定かではない儀式の完遂。
感情が少しずつ吸われていく日常を送り続け、最後に芽生えた欲も目が覚めるといつの日か泡沫の如く消え失せていた。
結局、彼女に残されたのは〝外に出たいと思っていた自分の目的を果たす〟という無機質な義務感に似た何かだった。
(わたしは……自分が。不幸であることすら知らず、死ぬのでしょうか)
死への恐怖はない。未来への失望も、自身への落胆も。
何もない。ツキノという人間は、本当に何ひとつ持ってはいなかった。
だが――降臨の儀式が完遂間近となったある日。最初にして最大の転機が訪れた。
この場所を突き止めたエフド王国から派遣された、騎士団による襲撃があったのである。
さらにその日は主要な司祭の大半が出払っており、恐らく最も警備が手薄な日の一つだった。
本当に、偶然と言うには奇跡に等しい幸運――〝運命〟のようだと、目下で次々と倒れていく信者たちを前にツキノは静かに思った。
「おのれ、デゼルネルピス……攫って来た幼い少女にこのような仕打ちなどと」
祭壇の上。鎖で繋がれたツキノを目にし、返り血を浴びてなお淡い輝きを放つような煌めきを含んだ褐色肌の青年が唇を強く結ぶ。
それから彼は、左手首から上半身にかけて刻まれた蛇の紋様を起動させる。
途端、細い指先から現出した〝蛇〟が〝聖女〟を縛っていた鎖を噛み千切った。
その様子を無感動に捉え、ツキノは自らを解き放ってくれた男の琥珀色の瞳を仰ぎ見る。
「――さぁ」
ツキノは差し伸べられた手をそっと取る。
これがのちに無感の花嫁と呼ばれる少女と、彼女の隣を歩んでいく男――リエンの一番最初の出会いだった。
*
王都にレトロで大きな洋館を構える名家、ラズラプラ家の朝は常と変わらない空気に包まれていた。
手入れの行き届いた食堂でスコーンにクロテッドクリームを塗り、ベーコンエッグに羊の腎臓のソテー等を食す姿は、庶民のそれとはかけ離れた優雅さがある。
「……いまいちね」
ティーカップをテーブルにそっと置き、呆れ交じりでこぼれた声に食堂内の空気が緊張の糸を張る。
「そうは思わないかしら、ユユ」
「えぇ。もちろん同じ思いですわ、リリ」
しかし続く姉妹の言葉を聞いた使用人たちは一転、内心でまたか、とため息をついた。
そして彼らの想像通り、ラズラプラ家の朝は常と変わらない光景を繰り広げる。
「あぁ。やはり、姉妹ね」
「えぇ、美人双子姉妹ですわ」
「「――いらっしゃい、ツキノ」」
互いに笑みを浮かべた後。重なる声で呼ばれ、使用人の列から一歩前に出たツキノが二人の傍に目を伏せて静かにたたずんだ。
返事はない。
だがそのことをリリとユユだけでなく、当主とその妻も咎めようとはしなかった。
「ねぇ、ツキノ。この紅茶、飲めないの。だから上を向いて口を開けて、代わりに飲んでもらえるかしら」
命令されるがまま床に両膝をつき、ツキノは水面から顔を出して餌をねだる魚ような姿勢を作る。
「ふふ、素敵な間抜け面ね」
「えぇ、とても素敵な間抜け面ですわ」
そうお淑やかに言って、二人はツキノの――顔に、熱い紅茶をゆっくりと注いだ。
「あら、なんだか難しいのね」
「えぇ、どうしてか難しいですわ」
口の届かない鼻先辺りを重点的に攻めながら姉妹は白々しい声で笑う。
そもそも同時に別々のところへ注いでいる時点で、飲ませる気など到底ないことは明白だった。
真っ白な使用人の装いはすっかり色がつき、床はまるで粗相をしたような有様である。
「ふふ、赤ん坊みたいね。どうもありがとう、ツキノ」
「えぇ。朝からとてもいい気分ですわ、ツキノ」
「「――着替えてらっしゃい」」
ずぶ濡れのツキノは一切の表情を崩さず、ぎこちない一礼を返す。
それからずるずると足を引きずり、屋根裏に隔離された狭い自室へと向かった。
*
術式刻印。それは名家を名家たらしめる理由のひとつだ。
世界各地に跋扈する悪鬼や業魔を屠り、あるいは国の発展に多大なる恩恵をもたらす、人知を超えた超常の能力。
その力を己が肉体に刻む者たちを、人々は敬意を込めて〝刻者〟と呼んだ。
であれば当然、名家の一つに数えられるラズラプラ家にも代々継承されてきた術式刻印がある。
それが――〝切断〟の術式刻印だ。
ラズラプラ家に引き取られた後のツキノが、声を発することができないのも、上手く歩くことができないのも全て、この〝切断〟が原因であった。
(わたしの声帯は、もう二度と治らないのでしょうか)
濡れた衣服を脱ぎ捨て、姿見を前に下着姿のツキノは自身の喉に触れる。
今、彼女の声帯は切断されており、消え入りそうな掠れ声しか発することができなかった。
それからツキノは改めて足元へ視線を落とす。
こちらも一見、何の外傷もないように見えるが、両足の靭帯が見事に切断されていた。
つま先立ちなどは到底不可能で、屋根裏まで上がってくるだけでも常に怪我と隣合わせである。
デゼルネルピスの教団施設から救出され、身寄りのないツキノがラズラプラ家に引き取られてからすでに三年。
彼女は一度たりとも洋館の外へ出る機会を与えられていない。
初めて見る外の世界に右も左も分からなかったツキノは、気付いた時にはラズラプラ家へ引き取られることとなっており、そうして姉妹と対面した開口一番。
彼女たちはツキノにこう言った。
「「これからよろしくね、私たちの可愛い可愛いお人形さん」」
「よ――」
直後。返事をするよりも早く、ツキノの声帯と両足の靭帯は切断された。
さらに切断されたのはその二つだけではない、ということをツキノが知ったのは明らかに使用人の務めですらない仕打ちを知らず受け続けて、一か月ほどが経った頃である。
無知であるツキノは当初、生まれ育った施設同様に何らかの〝仕来り〟が存在しているのだろう、と認識していた。
だが彼女の後に働き始めた同じ年頃の少女との、扱いの差を目の当たりにし、比較することで理解した。自身の置かれた状況は客観的に見て劣位にあるのだと。
それでもツキノはそびえ立つ現実に対し、無力だった。
学どころか基本的な文字すらも知らない彼女は、他人を頼る他に選択肢を持たない。
当然の帰結。そしてそれは、姉妹にとっても想像の範疇にある思考に過ぎなかった。
(わたしはどうやら、周囲からあまり良く思われていないようですね)
同じ使用人に避けられている。恐らくは巻き添えを嫌ったのだろう、ということは感情を失ったツキノにもさほど時間は掛からず察することができた。
そんなある日、顔色ひとつ変えずに思案するツキノに姉妹――リリとユユが、くすくすと楽しげに告げた。
「あら。逃げようとしても無駄よ、ツキノ」
「そう。呆れるほど無駄ですわ、ツキノ」
「「――あなたはもう、私たちのモノなの」」
姉妹はツキノの肌に優しく触れながら、嬉々として続ける。
「身寄りはない、自分の名前も書けない、年端もいかない、無感情の宗教女」
「そんな子、どう考えても後で面倒ごとに巻き込まれそうですわよね」
「だからツキノ、あなたを預かろうと手を上げる家は全くと言っていいほどありませんでしたのよ。まあ、リエン様が誰もいないのならとおっしゃっていたそうですけれど。ですがそんな幸運……ちょっと受け入れられないの、当然でしょう?」
だから私たちが手を挙げたのだと、リリとユユは恍惚に微笑んだ。
「これはお互いのためになることなのよ」
「私たちは楽しい、あなたは路頭に迷って身を売る目には遭わない。ね、誰も損はしてないですわ」
物を知らないツキノにも彼女たちの言い分が身勝手で、自身が理不尽な境遇に閉じ込められていることは直感的に悟れた。
そう思い、ツキノは廊下の奥。顔を背けている女性に視線を送る。
「だから言ったでしょう、ツキノ。無駄なのよ」
「私たちがこの〝切断〟の術式刻印で断ち切ったのは、声帯と靭帯だけではないのですわ」
「「――あなたに繋がる〝人の縁〟。ツキノにも理解できる言葉で言うと、誰もあなたのことを気にかけてはくれないし、助けてはくれないということなの」」
助けを求める無機質な仕草を目にし、からからと笑う二人は雪のように白い肌をはだけさせ、刻まれた〝砕けた鉄鎖〟を思わせる証をツキノに突き付けた。
双子であるが故の、二人で一つの〝切断〟の術式刻印である。
「…………」
それからツキノの無反応さを、言葉を失ったと勘違いしたリリとユユは末っ子を可愛がるように耳触りのよい言葉を並び立てていく。
「でも大丈夫、決して悪いようにはしないと約束するのよ」
「えぇ。とても大切にすると約束しますわ。後見人として、当然の義務ですもの」
いつの日か、壊れるまでは――――。
彼女たちの双眸は、そう告げているようにしかツキノにも聞こえなかった。
やがて今朝の食堂の掃除を済ませた後。ツキノを含めた使用人たちは列を作り、王都きっての高等学院へ向かう姉妹を玄関先で見送る。
姉妹との歳は二つほどしか変わらず、本来自分にも学びの機会があったのだろうなとツキノは日々、他人事のように思っていた。
使用人たちがそれぞれの仕事へ戻っていく中、ツキノはひとり逡巡する。
この三年間、少なくとも自分は従順に振る舞ってきた。その確信がある。
しかしこの関係が改善されるような兆しは、一向に見られないことは明白。
ならば、もう――――
(決めた)
言葉の意味は知らずとも、その決断は確かに合理的な反抗心であると言えた。
*
エフド王国において刻者同士の婚姻が認められることは、如何なる場合においてもない。
それは過去、異なる術式刻印を継承した赤子が母子共々に例外なく全身が膨張・破裂するという事件が相次いだことに起因している。
刻者の減少は国家の損失に他ならない。
よって事件以降、刻者たちは術式刻印を持たない者――〝素者〟と婚姻を結ぶのが慣習となっていった。
また傾向として赤子の刻者としての力に、母体や子種の優劣で極端な差が見られないことから、健康でさえあれば一般庶民の誰にでも平等に名家の一員へ加わる可能性が生まれてもいた。
つまり、刻者からすれば縁談の場というものは気に入る相手を品定めする場と評しても過言ではない。
そして、ラズラプラ家の姉妹であるリリとユユにとって重要視するべき点は、ただ一つだった。
「――リリ様とユユ様はどういった方とご結婚をなさりたいのでしょうか……」
「あら、急にどうしたのかしら。ツキノ」
「えぇ、とても急にどうしたの。ですわ、ツキノ」
湯気に満たされつつある豪勢な浴室。
そこで生まれた今にも消え入りそうな音に、疑問符が重なって反響する。
ツキノの声にならない掠れ声は余程聴力に優れている者か、歪ながらも彼女を愛している姉妹以外には決して聞き取れるものではない。
ユユはリリの頭を優しく洗っていた手を止め、あまりにか細い声へ耳を傾けていた。
「……いえ。以前、執事の方々がお嬢様たちとご結婚というものをなさりたい、というような話を他の皆様としておりましたので……結婚の意味も含めてどういうものなのか、と」
「あら、一介の執事風情が何を思い上がっているのかしら。ねぇ、ユユ」
「えぇ、顔が比較的マシなだけの執事風情の思い上がりですわ、リリ」
何か余計なことを言ってしまったのかもしれない、とツキノは頭上より届く声音から推察する。
というのもツキノは今、リリの椅子として浴室で両手両膝を床につけていた。
自分たちの気に入ったモノにしか肌を許さない姉妹にとって、お互い以外が直接触れるこの光景は他の使用人たちからしても前例のない事態だ。
「いい、ツキノ。術式刻印を持つ刻者にとって結婚はね、相手をモノにするということなのよ」
「えぇ、ツキノ。私たちのように美しい刻者にとって結婚はね、顔さえさ良ければ誰でもいいのですわ」
「……お顔、で御座いますか」
「「そうよ。男は顔なのよ、ツキノ」」
姉妹はそれぞれツキノの顔へ手を伸ばし、割れ物を扱うように細い指先を添えて微笑む。
「あのね、ツキノ。呆れるほどにどうしようもない人間だとしても、顔さえよければ大抵のことは許せるものなの」
「えぇ、ツキノ。反対に呆れるほど醜い人間は、大抵のことを許せないのですわ」
「他所の家の赤子が大して愛おしく想えないのと同じですのよ。ねぇ、ユユ」
「えぇ、リリ。美しい男が語れば夢、醜悪な男がほざけば戯言。世の中そんなものですわ」
「「まぁ、ただ一人だけを一生愛し続けるなんて私たちには到底無理なのけれどね」」
「……そういうもの、で御座いますか」
姉妹は何も知らない彼女に強く頷く。
だが、どれだけ力説されようとも容姿の価値はツキノには響かなかった。
当然である。生まれ育った施設は信者という言葉で一括りにされ、容姿による差を感じられる機会も考えも彼女にはなく、このラズラプラ家にも劣る側の人間がいないのだから理解できるはずもない。
「ねぇ、ツキノ。もしかして他の刻者に助けてもらおうだなんて考えてはいないわよね」
「えぇ、ツキノ。刻者が婚姻を結べるのは何も刻まれていない素者だけですもの。無駄ですわ」
「素者……」
「刻者同士の赤子は母子ともに呪われるのよ」
リリが囁くように告げ、ユユが同意を重ねた。
口ぶりからして素者が術式刻印を持たない人間だという程度のことは、ツキノにも理解できる。
姉妹が言うような意図などは毛頭なかったが、ラズラプラ家とは無関係の誰かの手を借りなければこの境遇から逃げ出すのは実質的に不可能。それは事実である。
どの道、何らかの手段で運よくひとりで逃げ出したところで〝名家の庇護下にある少女〟から〝無学で身寄りのない少女〟になるだけ。今より状況が悪化するのでは逃げ出す意味がない。
「呪いさえなければ、今すぐにでもリエン様へこの身を捧げますのに。ねぇ、ユユ」
「えぇ、リリ。障害さえなければ、今すぐにでもリエン様へこの心を捧げているのですわ」
「……リエン様、で御座いますか」
大げさな身振り手振りで天に手を伸ばす影を淡々と見つながら、ツキノは名を反芻した。
「そうよ。エフド王国第二王子、リエン・オ・ヴァーツラヴ様」
「〝覇蛇天征〟の術式刻印を持つ……あぁ、蛇のことですわ。蛇が何か知っていて、ツキノ?」
(蛇……)
ツキノの不愛想な表情から読み取ったわけではないが、ユユが補足を付け足す。
「まぁ、そうですわね……細長い管、のような生き物ですわ」
「あなたも一度は会っているはずよ。だって私たち、あの方との縁も切ったのを覚えているもの。まぁ、縁を切られたあなたは覚えていないでしょうけど」
言われ、ツキノは三年前。デゼルネルピスの教団施設を襲撃し、自らに手を差し伸べた琥珀色の瞳を思い出した。
(細長い管……蛇の術式刻印……もしかするとあの方が、そのリエン様――……っ)
瞬間。胸の先端と下腹部に捻じれるような痛みが走り、わずかに表情筋が反応を示す。
「いい、ツキノ。もう切ったのよ、だから期待するなんて駄目。それは思い上がりだもの」
「えぇ、ツキノ。あの方は本来、あなたのような得体の知れない宗教女が関わっていい方ではないのですわ」
この気まぐれで向けられる暴力的な敵意さえなければ、今のままでも構わない、と。
ツキノも思ってはいるが、現実はそうでないのだから今のままでいるわけにはいかなかった。
(……わたしは直接的にはもちろん、字が書けませんから間接的に誰かに助けを求めることもできません。もし仮に示せてたとしてもその人物がラズラプラ家の邸内に入れて、かつ〝切断〟の術式刻印に対抗できる人間でなければ意味がない)
でなければまた〝縁〟を切られてそれっきり。
従順だからこそ許されている今も、たった一度でも叛意を見せれば消え失せるのは想像に難くない。
(とすると求められるのは、一度で問題を解決できるラズラプラ家より立場が上の人間であり、刻者。しかもわたしは家から出ることを禁じられていますから、その方にここへ来てもらうしかない……当然、そのようなあてはありません。候補も今は、お二人が慕っているというリエン様だけ)
物を知らずとも、これが実現性皆無の夢想であることはツキノもすぐに思い至れた。
(反抗すると決めてもこれでは、ただ巡り合わせを待つことしかできません……)
ツキノは改めて、自らの無力さを痛感する――――その時であった。
浴室の外。近づいてきた慌ただしい足音と息遣いが、勢いよく扉を開け放つ。
当然、三人の視線が音の先へと向かう。
そこに立っていたのは現ラズラプラ家当主、姉妹の実父。オグルだ。
「……いくらお父様とはいえ、これは」
「これはちょっと許せないですわ」
しかし、その怒気を含んだ眼差しはオグルの一言によって全て吹き飛んでいった。
「縁談……縁談をっ、取り付けてきた……!」
「「……取り付けてきた? お、お父様……まさか――」」
「そのまさかだ。相手はシャルアビム騎士団、独立遊撃隊の……」
「「ど、独立遊撃隊の……?」」
「オルトランド卿、であるっ!」
「「きゃああああっ、ヒスイ様ぁあああっっ!!」」
途端、姉妹の黄色い悲鳴が浴室に甲高く響く。
喜びのあまり二人は裸であることも忘れ、無邪気に父へ抱き着いた。
姿勢を正すことを許可されていないツキノはその場を動かず、ただ傍観する。
ややあってそれに気が付いたユユが嬉々として告げた。
「ほら、ツキノ。そんなところで遊んでないであなたも私たちの幸運を喜んで欲しいですわ」
「喜ぶ……そのヒスイ様という方は、お二人がお認めになるほど美しい御仁なのですか?」
「えぇ、もちろんですわツキノ。あなたも一目見ればそう思えるはず。いえ、思いなさい」
「それにね、ツキノ。ヒスイ様はリエン様の部下であり、古くからのご友人。つまり、私たちにとってこれ以上ない優良物件なのよ」
「? よ、よく聞き取れるな、お前たち……わ、私にはまるで聞き取れん」
人をモノに例えるのが適切なのか、とツキノは疑問に思いつつも言葉を呑み込む。
それから促されるまま四人で手を繋ぎ、まるで家族の一員であるかのように踊った。
だが、それは二人の機嫌がいい時だけの一方的な〝縁〟だとツキノもこの三年で理解している。
「……ですがお嬢様がた。お相手はひとりではありませんか? この場合、リリ様とユユ様のどちらがご結婚なさるのでしょう」
「「――……どちらともよ」」
一度お互いを見合い、一拍置いて小さく微笑んだ後。異性を惹きつけるためだけに発せられたような姉妹の声は、ツキノの鼓膜のみを妖しく震わせた。
*
シャルアビム騎士団。独立遊撃小隊の隊長を務めるリエン・オ・ヴァーツラヴは、その性と『オ』の称号が示す通り、エフド王国を治める血族の王子だ。
鮮やかに焼けた小麦肌の肉体と紅茶を沈めたような琥珀色の瞳の奥に、男性的な凛々しさと雄々しさを秘め、しかしどこか女性的な淑やかさや繊細さをも併せ持った、今年で二十四となる男でもある。
嫉妬さえ介在しなければ、老若男女を問わずその美しさに感嘆の吐息を漏らすだろう。
そんな彼は今、自宅と小隊宿舎を兼ねる洋館の私室――その窓際の椅子に腰かけ、読みかけの本に手製の栞を挟みつつ、静かにこめかみを抑えたところだった。
「――スイ。お前、気は確かか?」
「あぁ、何度でも言ってやる。俺は本気だ、リー。俺にはお前が必要なんだ……いや、お前しかいないと言っても過言じゃない。後生だ、どうしても……駄目か?」
囁くように懇願し、女好きのする軽薄そうな顔立ちをした男は、リエンが一つに束ねる黄金の秋を思わせる長髪へと手を伸ばす。
それを慣れたように振り払いながら、リエンは呆れの一切を包み隠さず言い切った。
「駄目も何もない。提案として論外だ。ごく一般的な感性を持ち合わせていれば、通常あり得ないだろう――縁談に付き添ってくれ、などと。私を、お前の母よりも過保護にさせる気か」
「この際、諦めてくれ。なぁ、知ってるだろ、俺が女らしい女が苦手なのも! 俺が好ましいと思うのは、枯れた女と無垢な少女だけだってことも!」
ヒスイ・オルトランド。戦場において【剣乱威風】の異名を持つ素者の騎士。
名は体を表す通り青みがかった緑髪をした長身で、切れ長の紅い眼に丸眼鏡を掛けた彼は、王族のリエンにとって数少ない友と呼べる人間のひとりであった。
「二十年来の付き合いで今更なにを。理解はしている、お前のトラウマもな。だがそれはそれだ。そもそも婚約ではなく縁談だろう? 嫌なら断ればいい。そうできない理由でもあるのか?」
「困ったことにそれがあるのさ。なんとアーチボルト王、御自らのお言葉が実家に届いたそうなもんで」
その一言で、これまで話半分に耳を傾けていたリエンの眉根がほんのわずかに寄せられる。
「……父上からの? 縁談の相手はどこだったか」
「ラズラプラ」
「〝切断〟か……何かあるな」
術式刻印にはいくつか分類があり、それは大きく分けて四つ。
対悪鬼や業魔、対人戦闘に適性が高い一等刻印。
応用次第だが、基本的に戦闘には適さない二等刻印。
全く別系統の能力を複数発揮することが可能の特等刻印。
そして、単体で世界転覆を実現できる可能性が高い反世刻印。
リエンが刻む〝覇蛇天征〟は特等、人の縁すらも容易く切り裂くラズラプラ家の〝切断〟は反世にそれぞれ属している。彼が疑念を抱くのも当然のことだ。
「やっぱりそう思うか? 〝俯瞰〟の刻者がいなけりゃ恐らく存在すら許されない反世の術式刻印を持つ、ラズラプラ。そこに計らわれる、王から便宜」
「あぁ。察するに、何らかの借りをお前の縁談で返せるのならばあまりに安い、とそんなところか」
「この程度は余計だろう! 幼馴染で部下の一大事だぞ、助けてくれたっていいじゃねぇか。それに前から言ってたろう? 三年近く続いてる違和感の正体を探してる、って」
ヒスイが言うようにリエンには、ある日を境に突然訪れた強烈な違和感が長年続いていた。
しかし少ない暇を見つけてはその正体を探り続けてきたものの、手掛かりの一切も得られない八方塞がりの状態にあったのである。
「……〝切断〟と何か関係があると?」
「それは俺が考えることじゃない。けど、それだけ続く違和感。都合のいい捉え方かもしれねぇが、可能性としてはあり得るんじゃねぇか? 運命の赤い糸みたいなものが知らず切られていて、宙に浮いた運命がお前を呼んでんだ」
「…………」
リエンがわずかに苦い表情を浮かべた理由は、彼が運命や予言といった言葉を是とする男ではないからだ。
あらゆる物事は個々の意志決定に基づく行動の結果に過ぎないと、そう信じている。
彼は誰かのせいに、何かのせいにする他責を心から嫌う真っ直ぐな人間だった。
それでも確かに可能性としては、ゼロであると言い切れないのも事実。
いや、どちらか言えば直感的にはすでに〝そうかもしれない〟と感じている己の存在に、むしろリエン自身が信じ難く思っているほどだ。
「……だが、どうする。私は御免被るぞ。部下の伴侶がどんな相手か不安で居ても立っても居られず、付いてきてしまったなどという妄言を吐くのは」
「そうこなくっちゃな、親友。任せてとけって。俺にいい考えがある」
ヒスイが得意げな笑みを浮かべ、肩を叩く。
リエンは知っていた。こういう時の彼の言葉が、如何に質量を伴っていないのかを。
*
(これがいい考え、か……)
期待はしていなかったが、それでもまさかここまでとは、と。
あっさり了承してしまった己を、リエンは今更になって恥じていた。
「くっ、くく」
その証拠に、馬車の中。彼の向かいで腰を下ろすヒスイは愉快そうに喉を鳴らしている。
「お前……不敬罪で一族もろとも路頭に迷わされたいのか」
「嘘です嘘です、冗談。似合っていますって、リエン王子」
「しかし、よく見つけてきたなこんな被り物」
浅いため息をこぼし、改めて赤い髪先をそっと掬い上げる。
ヒスイが用意したもの。それは舞踏会で使うような派手な仮面と、作り物の顔面が一体化した被り物だった。
フォーマルな正装に身を包んでいるとはいえ、およそ見合いの場に相応しくない代物であることは間違いない。
「いやぁ、実は前々からの個人的な特注品」
「ほぅ、ぜひ本来の用途をお聞かせ願いたいものだな」
「今と変わらない」
想像を超えなかった空気よりも軽い返答に、リエンは迷わず術式刻印を起動。
左手の指先から小さな〝蛇〟を現出させ、ヒスイの首に甘く噛みつかせる。
痛みはあまりないだろうが、その代わり一日程度は残る痕跡だけが付けられた。
「ば、こいつっ! 仮にも今からお見合いしようって人間が、首にキスマークみたいなの付けて行っていいわけあるかって話でしょうがっ!? 何っ、俺は貴殿の所有物なのですかっ!?」
「知らん。とりあえず、お前が悪い」
何もしていませんとばかりに、リエンは子供っぽくそっぽを向く。
「こ、この王子…………っ!」
「ふっ、いい気味だな。それ、大人しくお前も婚約してこい」
「ぅげぇ……行きたくねぇ。どうにかして失望されねぇと」
「諦めろ。先日、少々聞いて回ったが、極度の面食いだそうだ」
ヒスイとて容姿に自惚れがあるわけではないが、これまでの人生で一度も悪いと評されたことがないという事実だけが彼の自己評価を形成していた。
がっくりと肩を落とすのと同時、馬車がラズラプラ邸の前で止まる。
「まぁ、気を張って行きますかね」
「頑張ってください、お坊ちゃん」
「ぐ、っ……」
馬車を降り、二人は道なりに進んでいく。
途中、出迎えで列を作る使用人たちが一斉に頭を下げる、統率の取れた動きが視界に入った。
しかし、リエンにとって数十名規模のそれは見慣れた光景。いやむしろ、実家と比べれば圧倒的に劣って然るべきものであり、意識を割かれるような要素は何ひとつ存在しない――はずだった。
「「――――――――」」
だが。リエン・オ・ヴァーツラヴはその日。その瞬間。重なった視線の先に。
一介の侍女であるはずの白銀の少女が宿す、蒼氷の瞳に――己が運命を見た。
*
「あの……リリ様、ユユ様。こういったことは家名に傷が付くものと、私は考えるのですが……」
「あら、こういったこととは何を指していらっしゃるのでしょうか、ヒスイ様。ねぇ、ユユ。あなたには分かる?」
「いいえ、リリ。私にも何のことをおっしゃっていられるのか、さっぱり分からないですわ」
「で、ですから――………」
笑みは絶やさずに白を切る姉妹が、有無を言わさない勢いでさらに文字通りの両脇を固めていく。
ソファー席で両手に花という、男ならば嫌がる者の方が少数派であろう状況において、ヒスイはその整った色白の顔を薄っすらと青くしていた。
騎士団に席を置くとは言え、ヒスイ自身は名家出身の素者ではない。
故に刻者優位が常である縁談や婚姻に際しては、単なる〝若くて女らしい女を苦手とする若者〟に過ぎなかった。
「お顔も素敵ですけれど、衣服の上から触れても分かるこのたくましい肉体……ねぇ、ユユ」
「えぇ、リリ。さすが、当代の【剣乱威風】の名を支えるお身体ですわ……」
「い、いえ。み……未熟者の自分にその名は、まだまだ過ぎたものですから」
エフド王国において最も剣の腕に優れ、かつ弱気を助け強気を挫く慈愛の心と戦場を駆ける勇敢さを先代より認められた者だけが授かる称号。
それが【剣乱威風】である。
「謙遜なさることありませんのに。ねぇ、ユユ」
「えぇ、リリ。もう少しくらい堂々としてらしても、誰も文句など言いませんわ。それに」
「「――私たち、少し乱暴なくらいの殿方が一番好きですもの」」
「…………っ!」
両隣から甘く囁かれ、与えられた名に相応しくない、無力感に溢れた顔を晒す男を目の当たりにして。
扉の前で控えている仮面の従者――リエンはわずかの笑みを噛み殺し、本来であれば分不相応にも口を挟むこととした。
「御二方も既に噂程度にはご承知と思いますが。ヒスイ様は特定の異性からの肉体や精神的な接触を大層、苦手としております」
「あら。ヒスイ様がそうおっしゃったのかしら、今」
笑顔で答えるリリの声の奥には、従者風情に咎められた、という事実に対する怒気が多分に含まれている。
だがこういった突き放すような言動は、ある種リエンにとって新鮮なものであり、不快感を抱くこともなかった。
「少しですが、読唇術に覚えが御座います」
「そう。自分は顔を隠して相手の唇は読もうだなんて、やらしい方。ねぇ、ユユ」
「えぇ、リリ。ひどい火傷だというのですから、隠したいお気持ちは理解できますけれど」
言いながら二人はヒスイの太ももや脇腹にいじらしく触れ、恍惚を浮かべて続ける。
「そもそも私たち、婚姻を結ぶのはもう決めていますから。だからもう今は、関係を積み重ねていく段階ですのよ」
「他愛のない話で言葉を交わしながら、お互いのことを知っていく段階なのですわ」
だろうな、とリエンは内心で頷きを返した。
友であるヒスイ・オルトランドが自ら選ぶことを放棄しようとも、おのずと選ばれてしまう側の人間だと。
異性から見て、そう在って当然の人間的な魅力を持ち合わせていることは、リエンも理解していることだからだ。
「苦手というのでしたらいっそのこと一対一のありきたりな結婚よりも、私たちと二対一の結婚をした方が色々と慣れると思いますもの」
「……成程。それは一理、御座いますね」
「――――っ!?」
同意が返った途端。誰が見ても一目で分かるほどの不満と驚きが、青白い顔に乗せられる。
彼の反応を目にしたのも含めて、姉妹が楽しげな笑みをこぼした。
「ふふ、面白い方」
「けれど殿方には面白さよりも、優先するべきものがあるのですわ」
(ふん。顔か、財力か、丈夫な身体か。いずれにせよ、ヒスイ自身の内面ではないのだろうな。腹立たしい)
「た、他愛ないお話ついでに。か、彼女について、お聞きしたいのですが……よ、よろしいでしょうか」
ヒスイが声を絞り出すようにして、少しでも自分から離れてくれることを願いながら話題を逸らす。
それはリエン同様、扉の傍で控える――白銀の彼女についての問いだ。
事前にいくつか理由を考えてきたリエンとヒスイだったが、想定よりも容易に縁談の場へ同席することを認められたのは、彼女の存在によるところが大きい。
「「……ツキノが何か?」」
「い、いえ。私が言えたことではありませんが、何故立ち会っているのか気になっていまして」
それに加え、一目見て〝何か〟を感じたリエンはその旨を屋敷への道中でヒスイに伝えていたこともあり、全く突拍子もない無意味な疑問というわけでもなかった。
(見たところ、足を怪我しているようだが……いや、それよりもあの目だ。あの蒼氷の瞳を、私は知っている……ような気がする。だが、ツキノという名は極東寄り。そういう名前の少女は印象に残っていても不思議はないが、記憶を辿ってもまるで覚えがない。この感覚は、一体……)
奇妙な感覚の答えは一向に出ず、姉妹は変わらず笑みを浮かべる。
「彼女がうちに来てもう三年になるのですけれど私たち」
「ツキノのことを、妹のように可愛がっていますの」
(……三年?)
違和感が生じてから、現在までとおおよそ同じ期間を示す数字。
リエンはここでも、信じてはいない運命の存在を疑わずにはいられなかった。
「そんな彼女が、私たちがどんな相手と結婚するのか知りたいと言うものですから」
「えぇ。それにきちんと顔が良い殿方を見る機会も必要でしょうから」
「な、なるほど。しかし、それはそれとして。どうにも足の――……」
言いかけ、しかし遮るように身体をまさぐるように触れられたヒスイが言葉を失う。
そのため何を訊こうとしたか理解するリエンは、恐らく敵意が向くことを承知で先を続けた。
「足の具合が悪いようですが、働くのに支障があるのではありませんか」
ツキノと呼ばれた少女が小さく首を横に振る。
「いやしかし両足というのは、同じく仕える主を持つ者としてどうかと思いますが」
「…………」
まるで精巧な人形のように佇ずむツキノは、今度は何も答えない。
「あぁ、ツキノは口が利けませんのよ」
「えぇ、文字もあまり読めないのですわ」
「! そうでしたか。それは大変、失礼致しました。ツキノ様」
リエンは従者の立場であることを良いことに片膝をついてツキノの手を取り、普段は決してやらない騎士が姫へ忠誠を誓うような優しい口づけを手の甲に交わしてみせた。
途端、リエンに姉妹の明確な敵意と激しい怒りが矢のように飛ぶ。
――が、すぐにクスクスと嘲笑する声へと塗り替わり、室内に重なって響いた。
(やはり、どことなく〝妹のように可愛い〟以外の執着を感じるな……)
第二王子という立場上、周囲から彼へ荒波のように向けられる〝感情〟は多種多様である。
当然、それらの感情は決して良いものばかりではない。だが二十数年に及ぶ経験の蓄積が、リエンの感情に対する感度を異様なほど鋭敏にさせていることは確かだった。
「ふふ。いい顔ですのよ、ツキノ」
「えぇ。本当に素敵な顔ですわ、ツキノ」
それだけ言うと、姉妹は関心を失ったのか。再びヒスイの身体に絡み始める。
助けを懇願するような情けない瞳と目が合ったものの、リエンはひとまず無視をした。
(まぁ、いい。今は彼女だ。こうまでされて、何の感情も私に向けてこない彼女だ。こちらの言葉は通じているようだから、あとは唇さえ読めば……――――っ!)
そして、姉妹の意識が逸れた瞬間。どうやら同じ考えに至る聡明さを持ち合わせていたらしい、と。
感嘆する以上に今、彼女がゆっくりと明瞭に見せた意思表示にリエンは驚きを隠せなかった。
――助けてください、蛇の方。三年ぶりで御座いますね。
ツキノと呼ばれた見知らぬはずの少女は、確かにそう言ったのである。
*
――今後、二度と訪れない幸運だと。
彼の瞳を目にした時、ツキノはこの日の巡り合わせに感謝を覚えた。
(……わたしは覚えている。あの日、あの時。わたしを連れ出してくれた彼の瞳を覚えている。だからきっと間違いない。顔も、髪の色も違う。それでも、この方は〝蛇〟の方……リエン様だ)
ツキノは無表情にリエンの琥珀色の瞳を見つめながら確信する。
それは言わば、生まれたばかりの雛が初めて見たものを親と認識してしまう感覚に近いものだった。
(ですがまだ、置かれている状況を正確に伝える手段がないという問題に変わりはありません……言葉や文字以外の方法……縁談が始まれば、きっとわたしはお嬢様たちの傍を離れられない。かと言って今、何かを訴えかけたところで、この場の誰かがすぐにでも二人に伝えに行ってしまう)
機を逃すのは論外としても、時機を見誤るわけにはいかない。
己の立ち位置を理解する彼女にできる最も簡単なことは、ただ彼を真っ直ぐに見つめ、少しでも印象に残ることだけであった。
(わたしの顔が、好みでしたりするのでしょうか……少し、目が合った時間が長かったような気がします)
屋敷へと向かう背を見送りながら客観的にそう思う。
(縁を切断されてしまっている以上、リエン様にわたしの記憶は残っていないはず。ご友人らしいヒスイ様の縁談に姿を変えて付き添っているのも、恐らくは〝切断〟の術式刻印を警戒してのことでしょう)
「――おい、何をしている。お前はお嬢様たちに呼ばれているんだろう、早く行ったらどうだ」
隣から届いた不機嫌さを隠さない声に促され、ツキノはゆっくりと歩き出した。
そうして、〝侍女が来るのを待つ〟という常人には理解不能の状況から縁談が始まる。
ツキノはただ扉の傍に立ち、じっと行動に移すべき機を待ち続けた。
(お嬢様たちは排泄行為をなさる際、必ずお二人で行かれる。もしもわたしを一緒に連れ出さないのであれば、動くべきはその時しかないでしょう。そして、伝えるべきはわたしとお嬢様たちの関係性。この両足と失った声の理由を、身振り手振りで悟って頂くしかありません)
言葉にすれば容易ではあるものの、実際は今よりも更なる幸運に身を任せる選択だろう。
たとえ状況を伝えられたとしても〝今、この場で救われなければ〟後日、再び縁を切られて全てが終わってしまうからだ。
しかし、現実は彼女の想定よりも遥かに運命的な幸運であった。
読唇術。やはりこれも言葉の意味は理解できずとも、唇を読むことの価値は彼女にも理解できるものだ。
『――助けてください、蛇の方。三年ぶりで御座いますね』
「…………っ!」
仮面の従者の瞳に驚愕の色が見え、ツキノは自身の見立てが間違いではないことにわずかな安堵をこぼす。
それから相手の返答を待たず、返ってくるであろう疑問を想定して一方的に話し始めた。
『教団の祭壇で初めてお会いしました。デゼルネルピスの〝聖女〟という言葉に覚えは御座いませんか』
声を出すわけにはいかない以上、どちらかが聞き手に徹するのが最善。
状況を鑑みれば、リエンが適しているのは明白だろう。
『わたしは〝切断〟により縁も身体も切られてしまいました。自分の力だけではどうすることもできません。ですので助けては頂けませんか。できれば今日、ここで』
「…………」
ツキノから伝えるべき言葉はこれ以上、存在していない。
だから、ここから先のことは全て、彼――リエン・オ・ヴァーツラヴ次第だ。
視線が重なる。
無機質で儚げな蒼氷と、縛り付けていた人形が無抵抗を演じていたことを知った〝女〟の憎悪の双眸が。
「……許しませんのよ」
「……許せないですわ」
「読唇術ができるなどとそちらの方が言い出した途端にこれ、ですのね」
「えぇ、起動の準備をしておいて正解でしたわ」
姉妹の肌に刻まれた〝砕けた鉄鎖〟の刻印が強い光を放ち、激情を発露させていく。
刻印や刻者自身の体質に左右されるものの、鍛錬で起動までに要する時間をある程度短縮することは可能だ。
(見かけによらずよく鍛錬している……っ!)
中でもリエンが刻む〝覇蛇天征〟は、起動まで例外的に速い部類に属している。
だが、仮にこちらが起動させたところで蛇が刻者へ到達する前に、相手が起動を完了することが直感的に理解できた。
「――ヒスイ、やめさせろッ!」
瞬間。応答よりも素早く打ち出された拳が、ユユの顔面に迷いなく叩き込まれる。
そこには女を前に狼狽える男は既に影もなく、ただ一人の騎士がいた。しかし、
「ふふ、ほんの少しだけ。遅かったですわね」
「ふ、ふふふふ」
姉妹の笑みが見据える先。〝切断〟の刻者のみに許された視界の中。
張り巡らされた無数の糸の合間を、流星の如き刃が疾走していく。
刃は瞬く間にツキノから伸びる二本の糸以外の全てを鮮やかに断ち切って見せた。
(――糸が、視える……?)
そして本来、視えるはずのない世界は。素者に過ぎないツキノにも観測できていた。
だとしても術式刻印の効力の前では、無力であることに変わりない。
「…………私は、何故。今、殴れなどと言った……?」
「…………?」
縁を切られたリエンとヒスイが状況を飲み込めず、混乱に陥る。
伴ってツキノの身体から琥珀と翡翠の糸がはらりと落ちていく。
反射的に手を伸ばすも、糸は呆気なく手のひらをすり抜けていった。
彼女の動作の意味を理解できるのは無論、刻者のリリだけだ。
「……ツキノ、あなた。まさか私たちと同じ世界を……」
ユユは血の混じった唾を吐き捨て、感嘆するリリと共に嗤いながらゆっくりと侍女のもとへ歩みを進める。
それから頬を思い切り引っぱたき、リリも無防備になった腹部を蹴り飛ばした。
声にならない苦悶が、ツキノの鉄面皮を強引に反応させる。
「嬉しいわ、ツキノ。でも今後一切、あなたには私たち以外の誰とも会わせません」
「えぇ、当然その程度の覚悟はしていたでしょう? ツキノ」
素直に頷いて見せた顔が、再び何度も乱暴に扱われた。まるでモノのように。
やがて何度目かの躾を終え、ある程度満足した二人は身を翻し、微笑みを浮かべながら告げる。
「婚約は確定事項ですから、また後日。仕切り直しと致しましょう、ヒスイ様」
「えっ、あぁ……その。突然、申し訳ございませんでした」
「構いません。言ったはずですわ、少し乱暴なくらいが好み、と」
本心からの言葉だった。口の中を切り、鼻から血を流したユユもそれは同様である。
何故ならば〝顔が良ければある程度のことは許せるから〟だ。
「それと、そちらは従者ではなく。リエン様でしたのね。全く気が付きませんでしたの」
「……何を仰っているのか、分かりかねますが」
「ふふ、否定に意味は御座いませんのよ。だってリエン様と同じ琥珀色の糸でしたもの」
言ってリリは床に力なく倒れるツキノを乱雑に掴み、部屋を後にしようとした。
だが、その時――――
「「――――っ!?」」
素者であるはずのツキノの肌が、眩い光を放ち始めた。
ユユは彼女が身に着けていた衣服を強引に破り捨て、発光の原因を明らかにする。
それを目にした直後。反射的に姉妹は自らの刻印へ視線を向けざるを得なかった。
「こ、こんなのあり得えない……」
「み、認められませんわ……」
肌に刻まれているはずの〝砕けた鉄鎖〟に似た術式刻印は、明確に色褪せていたのである。
もう一度、視線を戻す。しかし結果は変わらず、むしろ対照的なまでにそれは色濃く在った。
ツキノが突如として、輝き始めた理由。
それは、彼女に刻まれた〝砕けていない鉄鎖〟に似た術式刻印が原因であった。
*
術式刻印は通常、子が生まれ落ちた時に継承がなされるものだ。
その際、元の刻者の刻印は徐々に色褪せ、反対に子の刻印は色濃く刻まれていく。
後天的な発現を起こさないことから〝受精卵時にのみ発生する突然変異〟という説が、現代の一般的な共通認識だった。
つまり今、屋敷の一室で巻き起こっている発光現象は例外中の例外。
誰ひとり予期できるはずもない異常事態なのである。
「け、継承したわけでもありませんのに刻印が。い、色褪せて……き、起動しない……?」
「ユユ! 理解も納得も後回しですのよ! 仮に同系統のものならば――」
「き、気絶させてでも止めるしかないですわッ!」
物理にせよ、人の繋がりにせよ〝切断〟の力を知り尽くしているが故、誰よりも恐れているのは他でもない彼女たち自身。
何もできないと見下していたはずのツキノに対する、得体のしれない恐怖が、畏怖が二人を決死の想いで突き動かす。
(わたしの意志とは無関係に、何が起こっているのでしょうか……ですが、これだけは何となく理解できます。気を失わなければ事態は好転する、と……)
リリに両手で首を強く絞められながら、ツキノは状況を客観視していた。
あくまで冷静でいられるのも、この程度の苦痛は三年の間で慣れたことも理由の一つではある。
だが、それ以上に彼女は今。視界に広がる世界の変化に魅せられていた。
(切られてしまったはずの縁が……)
リエンとヒスイ。二人と繋がっていた二本の糸は中空を漂い、切断箇所まで浮かび上がると、まるで意思を持つ生き物であるかのようにゆっくりと結び目を作り始めていく。
「ツキノ、あなた……一体、どこを見て――……」
彼女の視線を目で追ったユユが異変に気付き、驚愕に声を震わせた。
「え、縁を……結び直した……?」
「――――っ!? あ、あり得ませんわ。そ、そんな……そんな芸当は、私たちにもできませんのよっ!?」
やがて可愛らしい結び目が完成し、一度は断たれた縁が再び繋がりを得る。
たとえ前例のない事象だとしても、復縁が成った以上。次に訪れる今は、ただの一つしかない。
「これが〝切断〟の術式刻印の力か……不愉快、極まりないな」
「あぁ。俺も思い出したぞ……そこのお嬢ちゃんには……あぁ、三年前に一度会っている」
欠落していた記憶が一挙に流れ込み、補完されていた偽りの記憶との落差を修正する脳の処理で朦朧とする意識を、二人はどうにか保ちながら言葉を作る。
「……なッ、断ち切った過去にまで遡って結び直したというのっ!?」
「関係ないのよ! 一歩でも動いてみなさい。ツキノ――――……がはァッ!?」
刹那、声が音と成るよりも疾く。
仮面を脱ぎ捨てた主と同様に煮え滾った怒りを宿す〝蛇〟がリリの細首に絡みつき、容赦なく天井へと叩きつけた。
首元から手が離れ、ツキノは咳き込みながら床に倒れる。
「――で、何か言ったか?」
「ひっ……」
冷たく言い放つリエンの声に、ユユは生まれて初めての小さな悲鳴を上げた。
頭上から滴る血の赤を目にし、そして痛感する。己が知る乱暴さなど、所詮は児戯に等しいものだったのだと。
「お、おかしい……そう、おかしいですわ! あ、あなた王族なのでしょう!? それなのにこんな陰気臭い不愛想な宗教女の言い分をあっさり鵜呑みにしてっ、この女がいい加減なことを言っている可能性なんて微塵も考えていないじゃな――……いっ、ぁ……」
「――それ以上、戯れてみろ女。姉妹仲良く天井まで首が飛ぶことになるぞ」
抜き身の刃のような鋭い声の主は、ヒスイだ。
彼は飾られていた古い刀剣を投げ、頬の薄皮一枚だけを掠めて壁に突き刺した。
受けてリエンは友の姿にわずかな笑みを浮かべ、軽く手を挙げて彼を制す。
「三年前、短い時間だったが……王都までの道中、生まれて初めて外に出たと。空が青いことすらも知らなかったと言っていた彼女のことを覚えている……覚えていたはずだった。それだけあれば、信じる以上に貴様への疑念を向ける理由に不足はない。もし仮に彼女が虚言を吐いたとなったその時は笑え。私が許す」
真っ直ぐな視線で告げられた彼の考えに、ユユの心は足元から崩れるように大きく揺らいでいく。
「そん、な……それだけの、ことで……? 人は……人は変わるのに?」
「変わらないようにと縛り付けておきながらよく言えたな。自分たちにはない無垢さを、尊いと想う気持ちが恐らくあっただろうに」
見透かすような核心をつかれ、羞恥に顔を赤く染め上げるユユ。
リエンの言葉は真実だった。姉妹は欲したのだ。幼い頃は確かに持っていたはずの、気付けば無くしていた穢れを知らない少女の心を。
「皆様、お取込み中のところ申し訳御座いません。これの止め方を、どなたかご存知でしょうか」
「「――――ッ!?」」
呼吸を整えたツキノの声が示す先。〝砕けていない鉄鎖〟の刻印は、姉妹が起動させた時よりも一層、輝きを増していた。
その影響力は〝切断〟の刻者ですらないリエンや、そもそも素者であるはずのヒスイの世界さえも塗り替えていくほどだ。
「うぉ、なんだこれ。糸が……解ける?」
「琥珀と……蒼氷。私と彼女の、縁か」
人と人の間で揺れる細糸は、螺旋状に絡み合うことで強固な糸を形成しており、やはりこれも幾度となく他人の縁を切断してきた姉妹ですら、初めて目にする事象だった。
「し、知らないですわ。糸が二色で一本だなんて、そんなの知りません……! そ、それにツキノ……あなた何故、声も取り戻して……」
「靭帯も完治したようです。それとユユ様リリ様、申し訳御座いません――限界です」
直後。姉妹が持つ三色の一方的な縁以外は、全て跡形もなく切断された。
一度にあまりにも膨大な数の縁を切られたことで、記憶の補完処理が彼女たちを苦しめる。
「「あっ、ああ……いやぁっ、リリ……助けて。リリ……お母様……ツキノ……お父様ぁ」」
異常を察知したリエンは、すぐさま〝蛇〟で天井に固定されたまま発狂し始めたリリを床まで降ろす。
襲い来る忘却の波に耐え切れず、気を失った彼女たちはしかし、次に目が覚めた時には確かに在った姉妹同士の繋がりさえ失っていた。
当然、ラズラプラ家とオルトランド家の縁談は破談。
そして後日、結果として束縛から解放されたツキノはリエン・オ・ヴァーツラヴの屋敷へ移り住むこととなったのである。
ここまで読んで下さり、本当にありがとうございます。
よろしければ八話以降の物語もぜひ一読頂けると嬉しいです。
加えて評価等の影響が執筆ペースに出やすい質のため、誠に恐縮ですが応援していただけるととても嬉しいです。
重ねてお礼申し上げます。ここまで読んで下さり、ありがとうございました。