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004 霊術師【壱】

 灰河蓮太郎(はいがれんたろう)は今年で四十を迎える。高校、大学とバスケ部に所属し、高い背と精悍な身体つきは未だ健在だ。年相応といえば最近少し白髪が交じるようになった頭髪だが、黒く染め直してはいない。メイセイドラックという大企業の部長職にある者として、相応な貫禄になるかと思っているからだ。


 午前七時。事務所の窓の外からは眩しい朝日が差し込んでくる。始業二時間前に出社することは、灰河にとっていつものことだ。複数の店舗を統括する彼にとって、時間は幾らあっても足りない。缶コーヒーを三本ほど並べた机の上で、自前のノートパソコンを黙々と叩いている。上長——彼の上は常務、そして社長である——への報告メールを作成している。業績データ自体は自動的に送信されるが、所感や報告書の内容はそうはいかない。一万文字以上になろうかという報告書が次々と作成され、電子メールとして送信されていく。


 これを毎日二時間、始業時間の九時までに終わらせる。始業から十時まではミーティング。それから店舗巡回へと出る。店舗巡回では現地の店長や従業員への打ち合わせや指導を行う。店舗の営業時間は基本十時から二十一時までなので、その間に大体三、四店舗を巡ることになる。それれが終わったら事務所に戻って再度ミーティングをする。仕事を終え、事務所を出るのは大体二十三時を過ぎてからだ。


 この生活をかれこれ二十年以上続けている。灰河は楽しかった。無論失敗したり落ち込んだりすることも多々あったが、打てば響くように仕事の手応えが感じられるのが良かった。出世して偉くなること自体には興味なかったが、職位が上がればやれる仕事の内容も増える。そういう意味では出世は悪くなかった。今は部長。そろそろ常務へとの声も聞こえてきている。


 そんな灰河を悩ませることがあった。ノートパソコンを打つのを中断し、机の上に置いたスマホに手を伸ばす。通話アプリから発信履歴を選択し、再発信する。昨晩から何十回としている行為なので、その動作には淀みが無い。



『朝生沙門』



 スマホの画面にはそう発信先が表示されている。コール音は数回で途切れ、「お掛けに鳴った電話番号は、現在電波の届かない範囲にいるか電源が入っていない為、掛かりません」というメッセージが流れる。


 だんッ。


 灰河は机を強く叩いた。並べられた缶コーヒーががちゃりと音を立てる。灰河の眉間には峻険な谷間のような皺が寄り、ぎりぎりと歯が音を立てる。怒気と表現するのがぴったりだった。


「あの野郎ッ、ふざけんなよ!」


 灰河一人しかいない事務所に怒声が響く。朝生沙門は彼の部下だった。三年ぐらい面倒を見ているが、とろ臭くって失敗ばかりをする。新入社員だ。最初の内は優しくしていたが、三年経ってこれでは話にならない。何よりも一番腹が立つのが、その失敗の尻拭いの為に灰河の時間が割かれることだった。


 今も、彼の貴重な時間が割かれている。朝生沙門は昨日灰河に叱責され、そのまま逃走した。文字通りの意味だ。職務中にも関わらず、タイムカードも押さず、断りもせず、謝罪もせず、無断退勤したのだ。


 正直、そのまま消えてもらって結構だと思っている。だが悲しいかな、朝生沙門が未だ従業員である以上、上司の灰河には監督責任がある。仮にこのまま事故にでも遭ったりしたら、その責任を問われかねない。だから灰河は仕方が無く朝生沙門に連絡を取ろうとしているのだが、出ない。なんだこいつ。そんなにオレを怒らせたいのか?


 灰河は鼻息荒く、もう一回机を叩いてから報告書作成に戻った。カタカタカタとノートパソコンを叩く音が言霊する。壁に吊された時計が八時を示すと、その音がぴたりと止む。


「おはようございまーす」


 八時一分になって、灰河の部下たちが事務所に姿を見せた。男女数名がぞろぞろと入ってくる。


「おせえぞッ、おまえら! 八時には出てこいって言っただろうが!」


 朝生沙門の件で増幅された灰河の怒気が、事務所の窓ガラスが響かせた。




  —— ※ —— ※ ——




『朝生ッ! てめえふざけてんのか!』



「うわああああっ!」


 沙門は汗だくになってソファーの上から転げ落ちた。ごちんと床に額を打つ。絨毯が敷かれていたが、古くて薄い。無いも同然だった。下はもしかしてコンクリート剝き出しなのだろうか。妙に固くて痛かった。額を抑えながら、よろよろとソファーの上に戻る。


 悪い夢を見た。仕事の夢を見るのは精神が病んでいる証拠だという話を聞いたことがあるが、なら沙門は病院へ行くべきだった。恐る恐るお尻のポケットに入れたスマホを取り出す。良かった、電源はオフになったままだ。ごくりと唾を飲む。このまま連絡をブッチしていていいんだろうか……恐怖心から電源を入れようとするが、止める。どっちも怖い。


 沙門は部屋の中を見回した。埃を感じる冷え切った部屋。八畳程度の空間にソファーやら机やらミニキッチンやらがぎゅっと詰め込まれている。そして積まれたダンボールと木彫りの人形があちこちにおかれている。一見、怪しい雑貨屋に見えなくも無い。ここが六道の事務所兼住居、ということらしかった。


 ……本当についてきて良かったんだろうか。沙門の心中に不安がよぎる。昨晩は勢い任せて弟子入りしてしまったが、そもそも霊術師っていうのは真っ当な職業なんだろうか? ヘンな壺とか仏像とかを売りつける商売だったらどうしよう。沙門はちらりと木彫りの像の一つを見る。なんだか、怪しい。


「うっひょー! つめたいーッ!」


 聞き覚えのある少女の声が響いてきた。あの幽霊だった少女、ミカゲの声だ。ミニキッチンの隣に扉がある。水音も聞こえてくるので、たぶんそこにユニットバスがあるのだろう。


「いやー、この冷たさ。たまんないわねー」

「ぶっ」


 扉がばんと開き、沙門は思わず吹き出した。バスタオルで濡れた髪を拭きながらミカゲが出てくる。すっぽんぽんだ。沙門は慌てて両手で自分の目を隠し、それだけでは足りずにソファーの座面に顔を押しつける。


「あれ? どーしたの?」


 ミカゲがすぐ隣に立つ気配がする。


「どどどうしたのじゃない! 服、着ろよッ」

「え、あー。大丈夫よん。六道みたいにお金取ったりしないから」

「そういう問題じゃ無い!」

「えー」


 しばらくごそごそしている音がして「いいよー」という声で沙門はようやく顔を上げることが出来た。ミカゲは昨晩と同様、Tシャツとホットパンツの格好をしている。バスタオルは頭に巻いてある。まだ完全に水気を取り切れてないのか、うっすらと浮き上がった腹筋に沿って滴が垂れる。沙門は視線を彷徨わせつつ、ソファーに深く座り直す。


「いやー、やっぱり実体って良いわねー。シャワー浴びるのなんて何年ぶりだろ」


 ミカゲは妙にうきうきした表情をしている。がしがしと頭髪をバスタオルで拭いて、乾かす様に頭を振る。髪の毛が美しい曲線を描き、ふんわりと柑橘系の香りが沙門の鼻をくすぐる。


「シャワーなんて、いつでも浴びれると思うけど……」

「そりゃ生きている人はねー。幽霊はさ、水も風もびゅんと通り抜けちゃうからさ」


 そんなものなのかな? 沙門はいまいちピンと来ない。微妙な表情をしていると、ミカゲが突然後ろから抱きついてきた。ぱさりとバスタオルが落ちる。


「なな、なにっ?!」

「こうやってね、触れている感触って大事なんだなーって、幽霊になって思ったわ」


 反射的にソファーから腰を上げた沙門の身体を、ミカゲの両腕が捕らえる。首筋に冷たい肌が密着する。耳元には吐息が。はっきり言おう。沙門にはそういう免疫がなかった。だから顔を赤くさせてまま、なすがままになっている。


 ぐう。お腹の鳴る音がした。ミカゲだった。ミカゲは沙門から離れると、やっぱり嬉しそうにお腹をさすった。


「いやー、実体ってお腹減るんだねー」

「な、何か買ってくるよ」


 沙門は咳払いをしながらソファーから立ち上がる。部屋の隅にある小さな冷蔵庫が目に入ったが、さすがに人の部屋の冷蔵庫を漁る趣味はなかった、昨晩ここへ来る途中、ハンバーガーショップを見かけたな。そこでいいか。


「あ、待って。お金出すよ」


 え? 幽霊ってお金持っているの? ミカゲはホットパンツの後ろのポケットに手を突っ込んむ。抜き出したのは半折りの財布だった。赤色で、適度に使い込まれた風合いをしている。


「じゃん!」

「……」


 財布の中から取りだして開いた紙幣を見て、沙門は苦虫を噛み潰した表情を浮かべた。初めてみる柄だった。いや正確には昔クイズ番組で見たことがある。胸の前で板を持った人物の肖像画が描かれている。旧紙幣というヤツだった。


 一体何年前のものだろう。確か今でも使えるはずだが……と思いかけた思考を沙門は停止する。待てよ。ミカゲは幽霊で、昨晩なぜか実体化した。そのミカゲが持っていたお札は、一体どこから来たのだろうか。一緒に実体化したのか? ……ひょっとしてそれは、とても広い意味において偽造になるんじゃないだろうか……。


「い、いいよ。今回はボクが奢るよ」

「えっ、ホント? らっきー、ありがと」


 結局、沙門は自分の懐から二人分の食事代を捻出した。ハンバーガーショップで買物をした後、沙門は財布の中に残ったお札の枚数を数えた。給料日前で心許ない。はぁ、と溜息をついてとぼとぼと事務所へと戻っていった。


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