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032 追善【肆】

 追善市に降り注ぐ赤い雨は、止む気配を見せない。巨大な霊圏に覆われた追善市の中で、動いている物はごく僅かだ。赤い怨念は、その数少ないものの一つだ。




 ——郊外の一軒家。幽霊である佐藤平治は、愛する幸子の肩に毛布を掛けた。彼女は霊圏の影響で静止して、水晶のマネキンとなっている。平治はその傍に寄り添い、じっと窓の外の雨雲を見つめている。その身体からは、じわりと薄い——ほんの僅かだが赤い怨念が滲み出ていて、細い糸の様に空へと伸びていく。




 ——新市街地に立つビル。下の階にはキンザン不動産の従業員が、最上階には明らかに堅気では無い男たちが詰めている。白いスーツに赤いネクタイをした社長もその中にいる。全員、水晶のマネキンと化している。そのマネキンからも赤い怨念は出ていて、絡み合う線となって空へと向かっている。




 ——マンションでは一人、田中加代子が自室で震えていた。彼女は霊感が強かった。だから水晶のマネキンにはならなかった。それが彼女にとって良いことなのかは分からない。さっき巨大な龍の化け物が直ぐ窓の外を通り過ぎていった。それを見た瞬間、彼女の霊感が激しく怯えた。巨大な怨念の渦に当てられたのだ。がちがちと歯の根が止まらない。そんな彼女からも、赤い怨念は空に伸びていく。




 ——ホストクラブの中では紫煙を食い尽くした怨霊たちが、まるで赤子の様に鳴いている。床には食い残された手足が残っている。そんな状態でも紫煙に意識はあった。霊圏で受けた身体へのダメージは、心に行く。だから死にはしない、肉体的には。この霊圏が解消された後、彼の心がどうなるのかは、現段階では誰も知らない。紫煙の残骸や怨霊たちから出る赤い線は、やはり空を目指して伸びていく。




 ——そして地下排水路に続く通路に倒れた灰河蓮太郎も、怨念の根源の一つだった。彼から出る怨念の線は、そのまま通路を進んで地下排水路へと入る。そして追善市のあちこちから集まってきた他の怨念を糾合して、ついには巨大な渦巻きとなって鎧武者——その核たる想霊棘へと注がれていった。





  —— ※ —— ※ ——




 はっ、と沙門は意識を取り戻した。どれだけ意識が飛んでいた? 沙門は周辺を見回す。温かいミカゲの体温を感じる。どうやら殆ど時間は経っていない。鎧武者から想霊棘を引き抜いた直後だった。


 丸い想霊棘を沙門とミカゲが一緒に引き抜く。確かに引き抜いた。しかしその刹那に想霊棘が放った衝撃に弾かれて、沙門たちの手から零れ落ちていく。


「なんでよ?!」


 ミカゲが悲鳴に近い声を上げる。二人で抜いた想霊棘は無力化されるはずだ。しかし今抜いた想霊棘はまるで意思があるように地面を跳ねて、他の鎧武者たちの方へと向かっていく。それだけでは無い。先に抜いた想霊棘やまだ抜いていない鎧武者の首も、磁石に引かれるように転がっていた。


『……不味いな。怨念が強すぎて祓い切れていな』


 六道の声が途中で途切れた。漆黒の化物の頭部が突然弾けて、中から想霊棘が飛び出した。それもまた鎧武者たちの元へと集結する。漆黒の化物の体躯は崩れ去り、小さな銀玉だけが残される。


「ちょっと、また一からやり直しなの? 冗談じゃ無いわ」


 鎧武者たちが集結した地点に、巨大な怨念の渦巻きが立つ。沙門もミカゲも視える。追善市全体から集められた怨念の細い糸が、束になって渦巻きと化している。ミカゲは吐き気を感じて口元を押さえた。それほどの怨念が注がれている。


「大丈夫だよ」


 ふっと、沙門はミカゲの肩を抱き寄せた。「なっ?」突然のことにミカゲは咄嗟に身を捩るが、思いのほか沙門の力は強く引き剥がせない。沙門の息がミカゲの顔にかかる。ぷいっと顔を背けるミカゲ。少し顔が赤い。


「ボクたちなら、充分祓えるよ」

「何よいきなり、自信満々に……らしくないわ」

「おかしいかな?」

「初心者のくせに生意気だわ。もっとオドオドしてればいいのに」

「随分酷いことを言われているのは分かるよ?」


 赤い渦の中で、鎧武者たちの影が一つになっていく。八つの想霊棘が放つ赤い光も合わさっていく。そしてゆっくりと渦がほどけ始め、鎧武者の新たな姿が露わになる。身の丈十メールはあろうかという巨人。阿修羅像の如く、八対の腕に八つの武具が握られている。一歩踏み込むと、コンクリートの床が砕けた。


「もう一度、アイツの想霊棘に触りたい。力を貸して欲しい」

「え? それはいいけど、抜いてもまた復活するんじゃないの?」

「大丈夫、算段はある。今度はボク一人が触れればいい」


 沙門はじっと自分の右手を見つめた。棘で傷ついて血だらけの手だが、指先の一つ一つにまでくっきりと神経が通っているのが感じられる。ミカゲに初めて触れた時を思い出す。大丈夫、いける。


「よく分からないけど、あとでちゃんと説明しなさいよ」

「ああ」


 沙門はゆっくりと剣を正眼に構えた。その後ろにミカゲが控える。巨大な鎧武者の全身が震え、まるで雄叫びのように大気を震わせる。その巨体に似合わぬ速さで、長剣と槍が沙門目掛けて襲いかかった。





『——本来、生まれた怨念は現世を彷徨い浄化され、余剰分は常世へと落ちていく。しかし常世の入口を封印したせいで、その余剰分が現世に留まる様になった。それが今の八頭龍じゃな』

「じゃあその封印を解いて常世の入口を開けば、八頭龍は常世に落ちていく?」

『そういうことじゃな』

「……それって、封印を解く為にはあの青い想霊棘を壊す必要があるってこと?」

『まあ、あの娘も——幽霊としてじゃが——長生きしたし、頃合いじゃろ』

「却下です。他の方法は?」

『え、折角一番確実な方法を教えてやったというのに』

「ということは、他の方法もあるんですね?」

『ちぇ、人の好意は素直に受け取っておくものだぞ。……まあいい。もう一つの方法は、お前の能力を使う方法じゃな』

「ボクの?」

『そう、お前の「幽霊を具現化する」能力じゃ。その本質、理解しているか?』

「本質……?」

『はっきり言って、あまり無闇に使うのではないな。あれは、お前の因果と相手の因果を交換する秘術だ』

「因果を……交換? もっと分かりやすく説明してもらえると助かるんですが」

『単純に言えば、あの娘に掛けられた怨念——呪い——をお前が引き受けることによって「人柱での死」という現実を回避して実体化しておる』

「なるほど……?」

『それと同様、八頭龍を構成する怨念をお前が引き受ければ、八頭龍は消えてなくなる。但し、その怨念はお前の身に降りかかる』

「なんか即死しそうな話なんですが」

『まあ常世の因果は、現世での因果とは時間の経過が違うからな。今日受けた怨念が発現するのが明日かも知れないし、五十年後かも知れない。ただあれだけの怨念の数だ。お前は一生、あれらの怨念に纏わり付かれることになる』

「なるほど。じゃあそれで行こう」

『即答じゃな。いいのか? もっと考えた方がよくないか?』

「ボクはプロの霊術師になりたいんです。これ以上転職はしたくないですからね。怨念と付き合う覚悟は出来ていますよ」


 そう言って、沙門はニヤリと笑った。





 赤い怨念と青い霊気が真正面から衝突した。びりびりとコンクリートの壁が震える。沙門は雄型の剣の力を全て解放した。眩いばかりの光が刀身から発せられる。上へ一振り、下へ一振り。その度にじゃきという音がして、沙門目掛けて突き出された巨大な長剣と槍が斬り落とされた。


 一歩。沙門は踏み込む。振り下ろした剣はまだ動けない。そこへ戦槌が真横から薙いでくる。後ろからミカゲが羽衣を飛ばして壁を作る。ミカゲの羽衣も、沙門の光を受けて強く輝いている。ぐわん。戦槌をもろに受けた羽衣の壁はちりぢりになったが、戦槌も砕け散った。


「沙門っ!」

「おうッ!」


 沙門は鎧武者の巨人に向かって駆け出した。それと平行する様に羽衣が伸びていく。沙門はその上に跳び乗る。羽衣の伸びる先はぐいっと上昇して、巨人の首元のそばを擦り抜けていく。


 沙門は巨大な刀の斬撃を躱し、手甲の突きを斬り落として肉薄する。「はああッ!」沙門は羽衣の上から跳躍し、雄型の剣を横薙ぎに振るった。一瞬、刀身が伸びた様に錯覚した。ぶはっと巨人の首から血が溢れる。沙門ははその血を浴びながら、巨人の胸元に着地した。目の前に切り口が見える。浅い! 斬撃は首の骨を半分しか断っていない。


 どんどん


 空気を震わす飛翔音とミカゲの悲鳴が聞こえたのはほぼ同時にだった。巨人の弓が三本の矢を放つ。一本はミカゲの直近の地面に突き刺さり、もう二本は後背の青い想霊棘へと深々と突き刺さった。根本から天井に向けてヒビが一気に入る。沙門の視界の隅で、ミカゲが胸を押さえて倒れるのが見えた。


 沙門は思わずミカゲの本名を叫んだ。思わず戻ろうとするが、その周囲を羽衣が取り囲んだ。がきん。双剣の刃先が羽衣に阻まれる。ミカゲは口元から血を流しながら、まるで「来るな」と言わんばかりに掌を沙門に向けていた。「くそッ」沙門は刃を食いしばり、ぐるりと剣を回す。青い刀身が羽衣ごと双剣を破壊する。


 沙門は巨人の胸元を蹴って、距離を取った。跳び退きながら斬撃を飛ばして、弓を持った巨人の腕を切り飛ばす。相手の武具、残りは斧のみ。沙門は地面に着地すると再び斬撃を放つ。青い閃光は巨人の腕を切り落とし、しかし、斧はその直前に投擲されていた。


「不味いッ!」


 叫ぶ沙門。巨大な斧は回転しながら飛んでいく。狙いは勿論青い想霊棘だ。倒れたミカゲの上を抜け、空を斬り裂いてそのまま青い想霊棘へと突き刺さる。



 がぎょん



 それはとても、人の手に当たった音では無かった。鋼鉄か、もしくはそれよりも高密度な物体同士がかち合った音。斧は、青い想霊棘の直前で静止していた。沙門には視えていた。今、上空から一人の少年が飛び降りてきて、巨人の斧を手で止めたのを。空いた天井から見える空には、一筋の飛行機雲が伸びていく。


「やっぱり主役は最後に登場するのがセオリーだよね」


 それは沙門は初めて会う童顔の少年、剣翔だった。剣翔が少し手に力を込めると、斧は青い霊気によって粉々に粉砕された。剣翔はにっこりと沙門に笑いかける。


「初めまして大霊術師のタマゴさん。こっちに気を取られていていいの?」

「!? ——うおおおっ!」


 沙門は絶叫した。渾身の力を込めて雄型の剣を振るう。噴出した霊気が巨人の体勢をぐらつかせ、そこに何本もの剣戟を放つ。再生する間もなく、巨人の四肢が切断される。最後に、振り上げた剣が巨人の身体を真っ二つにした。


 頭部に埋め込まれた丸い想霊棘は切断された頭部からぽーんと浮き上がり、そしてずしんと沙門の近くの地面に落ちた。大きい。人の身長ほどもある。


「はあ……はあ……はあ、うぐ、はあ……」


 荒ぶる息を整える間も惜しかった。また再生し始める前に終わらせる必要がある。沙門は丸い想霊棘に近づき、右手を近づけた。ゆっくりと、ミカゲと初めて触れた時のようにそっと指先を伸ばす。まだ触れていないのに感じる。想霊棘の内部に渦巻く怨念。それは沙門に絹を引き裂く様な悲鳴を幻聴させる。


 沙門はごくりと唾を飲み込む。少しだけ、躊躇った。この怨念を引き受けて、ボクはボクのままで居られるのだろうか。それほどに感じられる怨念の濃度は高かった。温厚な人格をも凶悪に変えてしまう様な悲鳴。人々のあらゆる怨念を溜め込んだというこの想霊棘からは、そういう凄味が漂ってくる。


 だが。沙門は一度だけミカゲの方を見て、それで決心がついた。ゆっくりとその指先で丸い想霊棘に触れた。


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