003 幽霊と怨霊【参】
がきん。
鈍い音が響く。どこから持ってきたのか、ミカゲがバールのようなもので想霊棘をフルスイングした。「いたーいっッ」ミカゲの手が痺れ、バールが線路の間に落ちる。想霊棘に変化はない。見た目よりずっと丈夫らしい。
「くそ、どうするか……」
沙門は忌々しげに想霊棘に睨む。迷っている暇は無い。人魂は相変わらず沙門やミカゲを狙っているし、隣のホームから響く甲高い音がぐんぐんと近づいてくる。想霊棘の異変に気づいた怨霊鮫がこっちに向かっている。
沙門は決断した。想霊棘を両手で掴み、ぎゅっと握り締める。痛い! 表面を覆う棘が手のひらに食い込み、肉に食い刺さる。血がだらりと想霊棘を濡らす。「ふんぬッ」それを堪え、沙門は大地に突き刺さった杭を抜くように、全身の力を込めた。壊せないのなら抜くしかない。沙門はそう判断した。
「ぐぬぬぬっ」
両脚を大きく開き、枕木を貫いて地面に突き刺さっている想霊棘を抜こうとする。だが微動だにしない。流れ出た血が枕木にまで到達する。一瞬。想霊棘が揺らいだ、と思ったが、逆に抵抗するかの様に枕木へと潜り込んでいく。
「あたしも!」
「おい、やめろ」
沙門が制止するのも聞かずに、ミカゲが想霊棘をぐっと握り締めた。その行動に躊躇いは無い。ミカゲの目元が痛みで細くなる。想霊棘を握り締めたミカゲの指先からも、赤い血が染み出してくる。沙門と力を合わせて必死に踏ん張るミカゲ。だが想霊棘は動かない。
(……ダメかッ)
沙門は諦めかけた。視界の隅で、ホームを砕きながら飛び込んでくる怨霊鮫の姿が見えた。後ろから六道が追い掛けてきているが、たぶん間に合わない。大きく開いた口が沙門とミカゲを狙っている。マズイ。せめてミカゲだけでも逃がさなくては。そう思った瞬間。
光が走った。
「えッ?」
「はあっ?」
光は沙門とミカゲの間から溢れ出していた。二人が流した血が想霊棘の表面で混じり合い、それが発光しているのだ。ずるりと、今までの抵抗が嘘のように想霊棘が地面から抜ける。そして長さ二メートルぐらいの棒が沙門の手元に収まる。今や光は二人の血だけではなく、棒全体からも滲み出ている。その光で蒸発するかの様に、人魂たちが姿を消す。
あとは、無意識だった。
振るった音はしなかった。光の棒は飛び掛かってきた怨霊鮫を縦一文字に斬り裂いて、その先端がレールを叩いた。光は消えている。怨霊鮫は宙で一瞬持ち堪えた後、破裂する様に赤い空気となって消滅した。
「や……やったの?」
「どうやら、そうらしいです……」
ミカゲに問いかけられて、沙門は淡々と答えた。一体何が起こったのか。荒い息を整えることも忘れて、沙門は手に握られた棒——想霊棘を見つめる。あの眩しいほどの光は無くなっていたが、溢れ出すほどの怨念も今は感じられない。単なる棘付きの棒だ。あ、痛い。沙門は棘の痛みに、ようやく想霊棘を手放す。からんと音を立ててレールの間に落ちる。
「やったじゃん、すごーいッ!」
突然柔らかい物体にタックルされ、沙門は線路の上に倒れた。ミカゲだった。彼女は喜びを全身で表現するかの様に沙門に抱きつき、すりすりと頭に頬ずりをする。
「なにアンタ、本当に素人? マジすごいんだけど。これで無能とかありえないッ!」
「あ、ちょっと、やめて」
沙門は耳朶まで赤く上気した。ミカゲの弾力のある胸が、これでもかとばかりに押しつけられている。これが女性の感触なのか、それとも幽霊の感触なのか。沙門は未知の感触に、ただ翻弄されるばかりだった。
その様子をホーム上から六道が呆れた目で見つめている。
「なにやっとんのか、あいつら」
死神の鎌を一振りすると、それは元の柄の状態に戻った。それを懐にしまい、ぐるりと周囲を見回す。咽せるばかりに充満していた赤い空気が、急速に霧散していく。それと同時に、水晶の身体となっていたサラリーマンやOLも元の肌色に戻って動き始める。心なしか、その顔色は良い。電光掲示板の時計も時を刻み始める。怨霊が祓われ、霊圏が解けたのだ。
「おーい。あんまりいちゃこらしてると、本当に飛び込み自殺することになるで」
スピーカーから流れる人工的な女性の声は、最終電車の入線をアナウンスしていた。
—— ※ —— ※ ——
薄々感じていたことではあったが、この世には幽霊とか怨霊とかいう霊的現象が実在するらしい。人々の未練や怨念といったものが集積し、霊的エネルギーを形成する。普段は接点を持たないが、あまり一所に集積しすぎると現世に悪影響を与える。それが怨霊であり、それを祓うのが霊術師の役割だそうだ。
今回の事例でいえば、追善駅に集積した怨念が「飛び込み自殺を誘惑する」怨霊と化した。なるほど? 沙門が飛び込み自殺をしようとしたのもそれが理由か。いや、でもそれは切っ掛けにすぎないだろう。沙門はそう思う。今の会社に新卒で入って三年目。毎日のように罵声や叱責を浴びせられ続けた社会人生活だった。怨霊の影響がなくても、どこかで飛び込んでいただろう。そんな奇妙な確信だけはあった。
そして会社から逃げ出してしまった沙門に、もう戻るところなど無いのだ。彼はそう思っていた。
—— ※ —— ※ ——
「じゃ、そういうことで。お疲れさん」
六道はひょいと片手を上げると、からんからんと高下駄を鳴らして沙門とミカゲに背を向けた。追善駅西口。深夜ということで、小さなロータリーには客待ちしているタクシーすらいない。三方に伸びる古めかしいアーケード商店街も静まり返っている。
「ちょっと待ちなさいよ」
「アイタッ、何すんねんッ!」
六道が首を押さえて振り返る。今のは、六道の尻尾のように伸びた後ろ髪をミカゲが引っ張ったのだ。ミカゲは胸を反らし腕組みをして、ふんと鼻息を鳴らす。
「厄介ごとっぽいからって、そうやって逃げるつもり?」
「あ、自覚あるんだ。良かった。そう、厄介ごとそうだからおいとましようかと思って」
「せめて話ぐらい聞くとか、そういう人情はアンタにはないの?」
「そんな人情ある顔に見える?」
「見えないわね」
「ですよねー。それじゃそういうことで」
そうやって振り返った六道のしっぽを、今度は強めに引っ張った。ごき、という音が聞こえた気がした。
「やー、実体あるっていいわー。前からアンタのしっぽ、引っ張りたいと思っていたんだよねー」
両手をまじまじと見つめ、満面の笑顔を浮かべるミカゲ。沙門はどう反応して良いか分からず、中途半端な笑みを口元に浮かべる。
「っいたーっ。誰だあ! こんなあばずれに実体与えたヤツ!」
「この子です」
「え、あ、そういうことになるのかな? よく分からないけど……」
突然振られた沙門は戸惑う。からんころんと六道が躙り寄り、細めた目でまじまじと見つめる。
「お前、霊術師なのか?」
「いえ……ただのサラリーマンです」
だったと言うべきだったかな? そう思い出して沙門は心を重くした。いきなり表情を暗くした沙門を見て、六道は顔をしかめる。
「そんな珍しい能力持ちには見えないけどなー」
「珍しいんですか?」
「そだな。霊体を見たり触れたりってのは霊術師の基本技能だが、実体化させるってのは珍しいな。才能あるよ、お前」
「えっ?」
沙門は思わず喜色を浮かべた。才能ある。そんな些細な言葉が嬉しい。だが六道はますます顔をしかめて、振り返ってミカゲに問うた。
「なんかコイツ、妙に情緒不安定だな。ちょっと気持ち悪い」
「会社で虐められて逃げてきたらしいよー」
「おーおー、最近流行のブラック企業かー。どこだ?」
「あ、えっと……メイセイドラック、です」
「あー、メイセイドラックかー。結構でかいところだなあ。そっかそっかー、まあそんな感じだよな。納得だわー」
六道の声は妙にうきうきとしている。他人の不幸は蜜の味。
「まあ、人には合う合わないがあるさ。そんなトコロとっとと辞めて正解じゃない?」
「いや、まだ辞めたわけじゃないんですけど……」
「でも戻れないんだろ?」
「……はい」
「じゃあ、とっとと次の仕事を探した方が良くない?」
と言ったところで、六道はしまったという顔をした。その瞬間「はいはいー」と六道と沙門の間に割って入るミカゲ。ニヤニヤと口角を上げている。
「いやいやー、そこで三九二六道大先生の出番って訳ですよー」
「イヤだ」
「この才能豊かな青年に、霊術師という道を指し示す。いやー、大先生じゃないと出来ないことですよー」
「イ・ヤ・ダ。大体、なんでそんな金にならないことを、オレがせにゃならんのだ」
「この子が稼げる様になったら、指南料でもなんでも取ったらいいじゃない」
「モノになるっていう保証はあるのかよ?」
「偶然とはいえ、初手で怨霊祓っているんだよ?」
「ぐ、うむむー……」
「それに才能あるって、さっき大先生が認めてたじゃないですかー」
「ぐぬぬ……」
六道が考え込む。自分の与り知らぬところで話が進んでいく。戸惑っている沙門にミカゲはウインクをして耳元で囁く。
「どこも行く当てないんでしょ? まずは衣食住は確保しないとね」
「どうして」
「ん?」
「どうして、ボクの為にこんなことしてくれるんですか?」
「そりゃアンタには世話になっているし」
ミカゲはぽんぽんと胸元を叩く。実体化したことを言っているらしい。そういえばこの人、幽霊だった。ミカゲは、はにかむ様な笑顔を見せた。
「それに、なんかほっとけないのよねー」
「……!」
沙門はうっすらと唇を開いた。嗄れた心の奥底が暖かくなる様な気がした。それはきっと、ほんのわずかなどうでも良い好意が、そうさせているのだと思った。だから、それに応えたいと思ったのだ。
「六道さん!」
「ん?」
沙門は指先まできりっと正し、そして直角九十度で頭を下げた。
「ボクに、霊術師の仕事を教えてください!」
それを見た六道は一瞬躊躇った後、大きな溜息をついた。ミカゲがニヤリと笑う。六道が観念したことが、外見からも見て取れたのだ。
「あー、わかったわかった。寄り添う袖も多生の縁だ。……ついてこい」
「それじゃあ……!」
沙門が明るい笑顔を浮かべる。
「但し、金は取るからな。覚悟しとけよ」
からんころんと、六道の後ろに沙門とミカゲが付いていく。静まり返った商店街の向こうに三人の姿が消える。それは沙門が、霊術師としての人生を歩み始めた第一歩だった。