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021 怨念【参】

 ——霊気というものがある。




 不可視の力、心の源泉とも呼ばれる。霊子力学における生命と無生命の差は、霊気を有するかどうかで判別される。生命は物質と霊気が渾然一体となった状態で生まれ、成長し、そして死んでいく。物質は灰となり現世へ、霊気は霧散し霊脈となって常世へと還る。物質が現世の力だとすれば、霊気は常世の力である。そして本来は交わらないそれらを結びつけているのが、生命である。


 生命が死する時、生きていた時の想念の強さから霊気が残滓する事がある。それらは剝き出しの霊気のまま現世に留まり、その過剰集積によって時折現世へと干渉する。それが怨霊や幽霊、そしてそれに付随する現象の原因である。怨霊や幽霊とは、霊気という常世の力が現世をノックする「音」なのだ。




 童顔の少年は、追善市で一番高いビルの上でのんびりと昼食を摂っていた。デリバリー用の紙パックに入ったパスタとサラダ、そして紅茶。有名店のデリバリー品らしいが、少年は店の名前は知らない。ついさっき知り合った女性に『お腹空いた』と言ったら用意してくれた。対価は笑顔で払った。六道先輩は素晴らしい先輩だけど、ちょっと古くさい。今時現金はねえ。見えない価値こそプライスレスっていうじゃないか。


 少年は足をブラブラさせながらパスタを食べる。彼は落下防止用の柵の外側、ビルの縁に腰掛けていた。足の下、百メートルほど下は道路になっている。雨傘を差して行き交う人々は、誰も少年の姿には気づいていない。


 少年は傘を差していなかったが、濡れていなかった。よく見れば、雨が少年を避けて空から地上へと降り注いでいる。霊術師であれば少年の周囲に、青い空気が回遊しているのが視えるだろう。霊気である。彼は、霊気を操る天賦の才の持ち主だった。


「なにやっとん、お前」


 少年の横に、からんと高下駄の音が鳴る。ぱああと少年の表情が華やぐ。隣に立ったのは和服に高下駄の男、六道だった。


「やっぱり先輩は優しいなー。アタシのこと心配になって、見に来てくれたんだー」

「アホぬかせ。余計な事せんように見張りにきたんだ」


 追善市の上空には雨雲と重なる形で、膨大な赤い怨念が渦巻いている。それは時折、絡み合う龍の姿を見せつける。雨雲の出現は怨念と無関係ではない。あまりに巨大な怨念が、現世に影響を及ぼしつつある。降りしきる雨粒一つ一つに赤いものが混じり、その雨水が都市を染め上げていく。


 六道は舌打ちをする。六道ほどの霊術師が、昨日までは視えなかった。この怨念は深く静かに潜行し、こうやって大きく成長するのを待っていたのだ。ここまで成長するのに何年かかったのか。一年? 十年? ……いや、きっと大元は五十年前だろう。


 かつてこの地に存在した常世への入口。そこに集まる怨霊の群れ。当時、追善湖を埋め立てることによって祓ったはずの其れ等の残滓が、長い年月をかけて、都市の成長と共に膨らむ人々の怨念を食らって育ったのだ。


 ぎろりと、六道は童顔の少年を睨んだ。


「お前。最初からこの怨念が視えていたな? なぜ教えなかった!」

「ひゃん、だって教会長が黙ってろって言うんだもん。アタシはイヤだって言ったのに」

「あのクソジジイか」


 六道は唾棄した。全国の霊術師の多くが所属する霊術師教会。そのトップの妖怪爺の顔が脳裏に浮かぶ。連中、分かっててコレを放置していたな。目的は何だ? 実験か? 棘具回収か? どっちにしても碌でもない。怨霊祓いに失敗すればその影響は現世に及ぶ。これだけの大怨霊だ。ビルが二、三棟吹き飛ぶぐらいで済めば良いけどな。今後何十年に渡ってテレビで鎮魂の特番が組まれるような大災害に転じる可能性だってあり得る。


 機嫌が悪い六道に縋り付く様に、童顔の少年が和服の袖を引っ張る。


「でもでも。そんな中、こうやって助力に駆け付けたアタシは健気だと思わない?」

「そういうのは年上のねーちゃんに言うんだな。気持ち悪い以外の感想が必要か?」

「酷い! でもそういう素直な先輩って好きだな」


 満面の笑顔を向けてくる少年を一瞥し、六道は容赦無く袖を払った。「いけずだなあ」そう言いながら少年は立ち上がる。その視線は六道と一緒で、天空に渦巻く怨念の渦へと向けられた。渦の形は急速にその輪郭を整え始めている。全長百メートルはあろうかという龍の化身。その頭の数が一つずつ増えていく。


「先輩。ちなみにこのお仕事、幾らで請け負ったんですか?」

「契約内容には守秘義務があるからな、教えてやらん。……まあ、高くはない」


 六道は溜息をついた。高くはないとはいっても、それなりの金額は貰う予定だ。しかし元々、追善駅周辺で起きていた連続自殺事件の怨霊祓いとして請け負った仕事だ。こんな大災害級の怨霊が原因だと分かっていれば、億単位で請求するところである。でも一度請けた以上、その金額でやるしかない。そこはフリーランスとしての六道の矜持であった。下調べで失敗した例として、今後の教訓にしよう。


「アタシへの報酬はタダでいいですよ?」

「勝手に顔を出しておいて図々しいにも程が有るが、仕事をする以上は報酬は払う。受け取らないなら帰れ」

「わーい。先輩のそういうトコ大好きですよー」



 ——ゆっくりと、世界が静止していく。ゼノンの矢の様に、雨粒が地表を目指して永遠に落ちていく。



「この濃度だと擬宝珠を使う必要はなさそうだな」

「そうですね。もう生まれそうです」


 六道は懐から棘具の柄を取り出して片手で振るった。刃先が煌めき、死神の鎌が顕現する。少年も棘具の柄を取り出した。それは刀や槍では無く、少年の背丈ほどもある長大なライフル銃へと変形した。


 そして。彼らの眼前でゆっくりと、その大怨霊は八つの頭を持ち上げた。巨大な八頭龍の化身。その咆哮は、追善市に降りしきる雨の幕を震わせた。




  —— ※ —— ※ ——




 何もかもが上手く行かなかった。灰河蓮太郎は一人、事務所でパソコンを叩いている。部下たちは全員、店舗の応援に出払っている。灰河も直前まで外出していた。椅子の背に架けたコートは水を吸って重く垂れ下がり、革靴は靴下まで濡れて気持ち悪い。



 かたかたかたかたかたかた



 事務所はがらんとしている。寂しくキーボードを叩く音が響く。そして天井や壁を叩く謎の音——きっとそれは怨念のものであり——も、その速度を増していく。だが灰河は気づかない。キーボードを速く叩けば叩くほど、それらの音も速度を増していき、一瞬重なった後、はるか後方に抜き去っていく。



 がたがたがたがたがたがた



 上手く行かない時ほど、雑務というのは増えるものだ。社長への報告は日に一回から二回に増えていた。店舗の売上げが悪いからだ。悪いからこそ現場を回る必要があると思うのだが、悪いからより多くの報告を求められ、結果、現場を回る時間はどんどん減っていく。矛盾だ。そしてその矛盾のしわ寄せは全て灰河にのし掛かってくる。


 ちろん。作業中のパソコンにメールが届く。一瞬どきりとするが、送信元を見てほっとする。本社の総務部からだった。朝生沙門の件で問い合わせをしていた。相変わらず連絡が取れない。自宅も無人。親元にでも逃げ帰ったのかと思ったので、登録されている身元保証人を確認したのだ。


 結果は灰河を落胆させた。登録されていたのは親族ではない、全く別の名義だった。なんだ、両親はもう他界しているのか? ヤツと家族の話とかをしたことは無いので、判断がつかない。くそ、面倒臭い。居れば居たで、居なければ居ないで厄介ごとばかり押しつけてくる。不愉快だ。



 がたんがたんがたんがたん



 今度はスマホの着信音が鳴り響く。机の上でぶるぶると震える。今度は何だ? スマホの画面には見慣れぬ電話番号が表示されている。名前が表示されないということは、少なくとも灰河の関係者ではないはずだが……。


「……はい、もしもし。誰?」

「追善市警察の高原と申します」


 相手は男性で、妙に落ち着いた声だった。高原と名乗った相手は淡々と灰河の身元を確認し、事情を説明してくる。灰河の顔が少しずつ青くなっていく。一昨日の深夜、体調が悪いと電話を架けてきた部下の件だった。あの時出てこいとはいったが、結局出社してこなかった。またか。幸い、こっちは電話で連絡がついた。出てこいと怒鳴りつけてやって、病院に寄ってから出社するということで妥協した。


 そして今、警察から連絡が入る。その部下が交通事故に遭い、病院に搬送された。しかも目撃者からの情報によれば、部下は赤信号にもかかわらずふらふらと車道に出て——つまり、飛び込み自殺の疑いがあるとのことだった。


 灰河は通話切断のボタンを押した。灰河の瞳が震えている。怒りか、恐怖か。もしくはその両方か。部下が自殺? オレの、オレの責任なのか。警察は「事情」が聞きたいと言っていた。まさか、オレに責任を押しつけるつもりなのか。



 ががたんががたんががたんががたん



 ——詰んだ。灰河は髪の毛を毟った。自分の責任となれば、降格は免れないだろう。業務成績も悪いから、本社の連中は嬉々としてオレを追い落としに来るはずだ。くそ! 折角ここまでやってきたというのに、全部水の泡になるのか。ここまで頑張ってきたのに!


 ヤツだ。朝生沙門のせいだ。三年前にアイツがやってきてから、とことんツキが無い。今も無断退勤、音信途絶で迷惑をかけられている。……まさか、オレを追い落とす為にわざとやっているのか? そうだ、そうに違いない。ふざけるなよマジで! オレは、負けん!



 がたん



 天井を叩く音が、一段大きな音を立ててから止んだ。しんと静まりかえる事務所。そしてがりがりと頭を掻き毟る音。灰河だった。血走った眼の視点は合っていない。その全身から赤い怨念が滲み出ている。どす黒い、空気に触れた血が変色した様な濁った赤。それが渦を巻いて増殖して、灰河を包み込む。


 灰河の視界は赤に染まり、そして思考は怨念一色に染め上げられて静止する。




 『ぐぼわばはははああああっ』




 口から吐瀉物を撒き散らしながら、灰河の全身が入り込んだ赤い怨念によって泡立っていく。手足が脱落し、床の上で蒸発する。灰河の身体は急速に変換されていく。頭部が鰐、身体が鯨の形をした、異形の「怨霊」へと。


 窓の外を見れば、外は赤い空気に染め上げられていた。上空には八頭龍の怨霊が回遊している。追善市の市街地は霊圏に覆われ、時計は静止し、行き交う人々の殆どが水晶のマネキンと化している。


 そこで動くものは二種類だけだ。霊感が強くて霊術師の適性がある人間と、怨霊か幽霊である。八頭龍が噴き出す怨念に釣られて、様々な怨霊があちこちから顔を出し始めている。


 元は灰河であった鰐の怨霊もまた、その一つだった。それは咆哮を上げながら、窓ガラスを水晶のように砕いて外へと飛び出す。そして不幸にも霊感が強く霊圏の中で動ける人間を無作為に襲い始めた。


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