001 幽霊と怨霊【壱】
「……それ、あんまり楽じゃないよ?」
それはくたびれた青年へと向けられた、優しい音色の言葉だった。突然のことに朝生沙門は思わず振り返る。久しぶりに、本当に久しぶりに自身に投げ掛けられた、優しい言葉だったのだ。だから別に誰でも良かった。それが、この冬の寒空にヘソ出しホットパンツ姿の年下の少女であろうとも。その身体が半透明で、つまり幽霊だったとしても。
——自分を見てくれた。ただそれだけで嬉しかったのだ。
—— ※ —— ※ ——
追善駅で飛び込み自殺をするのは難しい。東京を発した東北本線の電車の多くはこの駅が終着駅。十五両にも及ぶ長大な列車は三面六線の追善駅にゆっくりと入線してくるからだ。出来るだけ楽に死にたいとするならば、走行速度を維持したまま通過する回送列車を選ぶのが好ましい。
二十二時四十九分。時刻表には記されていないが、最終電車の一本前に回送列車が通過する。通過時の速度はどのタイミングが一番速いのだろうか。やはりホーム進入時か。冷静に、だが虚ろな目をした朝生沙門は、ゆっくりとホームの一番北側に立った。空に浮かぶ月は美しい。
朝生沙門はうら若きサラリーマンだった。紺色のスーツに白いシャツ。ネクタイは緩んでいる。やや高めの背丈だったが、その背はずっと丸まっている。短く刈り揃えた黒い髪が、昔は快活なスポーツ少年だったであろう面影を辛うじて残している。
さっきトイレで感情を爆発させたばかりだった。堪えきれない鬱屈とした思いが胸中に渦巻いている。
『ホっント役に立たねえヤツだなッ! やる気がねえんなら仕事止めちまえッ』
——やる気はあります……必死に頑張ってます。頑張って仕事しています!
『こんなのは仕事の内に入らねえんだよ。余計な手間増やすなよ!この給料泥棒がッ』
——それは……その、すみません。もっと、頑張ります……。
『頑張る? そんなんじゃなくて結果出せよッ。お前なんざどこいっても通用しねえよッ!』
——……あ……う……。
『なんだよッ、聞こえねえよッ』
——……。
そして今日ついに、会社を無断退勤をしてしまった。逃げ出したのだ。入社して三年目。激しく鳴り響くスマホの電源はさっき切った。沙門は、限界というのは思いの外あっさり来るもんだなあと思った。昨日も仕事で失敗して激しく叱責された。その夜、明日こそは頑張ろうと誓った。あの誓いはどこへ行ったのだろうか。ふわっと、本当にふわっと限界は訪れた。今日も怒鳴られて、そして気がつけばここに居た。
ホーム上には何人かのサラリーマンやOLが居る。皆どこか疲れている。だから沙門が虚ろな目でホームの端に立ち、飛び込もうとしていることに誰も関心を払わない。ここにいる人間だけじゃない。世界中の全ての人間が、沙門というちっぽけな存在には無関心なのだ。
人工的な女性の声が回送列車の通過を予告する。沙門がその濁った瞳でホームの先を見つめる。暗闇の中から光が近づいてくるのが見える。沙門にはそれが救いの光に見えた。ああ、あともうちょっとで楽になれる。光量が増し、勢い良くレールの繋ぎ目を叩く車輪の音が聞こえてくる。
「……それ、あんまり楽じゃ無いよ?」
突然。背後から響いたのは、鈴の音の様な美声だった。女性、いやちょっと若めの少女の声。沙門は思わず振り返った。背後で回送列車が通過していく。
デニム地の帽子とジャケット。胸の大きく開いたTシャツに白いホットパンツにスニーカー。高校生ぐらいだろうか。今時の若者のファッションだろうが、すらりと伸びた細い足と引き締まったお腹が露出している。だがそれよりも沙門が気になったのは、彼女の姿が半透明で透けていることだった。
「あれ? あたしのこと視えるんだ?」
自分から話掛けておいて、その少女は少し驚いた表情を浮かべた。半透明の彼女のいる場所を、一人のOLが歩き抜けていく。何事もなく擦り抜けて、OLが少女に気づいた様子も無い。どうやら少女のことが視えているのは沙門だけの様だった。
沙門には心当たりがあった。——幽霊だ。子供の頃から霊感が強かった沙門には、普通の人には見えないものが視えることが良くあった。祖母の葬式の時、お棺の前に立ち尽くす半透明の祖母の姿を見て、あれは幽霊なんだ、と思う様になった。
「まあいろいろ大変なのは分かるけどさ、死んだら元も子もないよ? それに電車への飛び込みは結構痛いからオススメしないなあ。飛び込んだ子は何人か知ってるけど、大体後悔してるんだよね。もっと楽かと思ったーって」
心配そうな表情で話しかけてくる幽霊の少女。幽霊と会話するのは沙門も初めてだった。鬱屈とした気持ちが少し晴れて、ぎこちない笑みが口元に浮かぶ。幽霊と喋ったのが嬉しいのではない。自分なんかを気に掛けてくれる存在が居ること自体が驚きであり、嬉しかったのだ。無意識の内に、ホーム上に引かれた黄色い線の外側から内側へと歩み寄る。
「でも会社じゃ失敗ばかりで……もう戻れないし」
「あー、最近そういう子多いよね。わかるわー。別に辞めちゃえば? また新しいことやればいいじゃん」
「そんな……ボクなんて、どこ行っても役に立たないし……」
「え? もう何度か転職したの?」
「あ、いや。まだしたことないけど」
「なーにー、もう。その若さで、やる前から出来ないなんて言うもんじゃないよ」
カラカラと笑う少女。明らかに年下に見える少女から若さを理由に励まされる。沙門は妙な気分になった。あ、幽霊だから見た目通りの年齢とは限らないのか。
「まあ折角だし、話しだけでも聞くよ? ご覧の通り幽霊だから、それぐらいしか出来ないけど」
そういって少女は、沙門の肩をぽんと叩いた。
バチン。
その時、沙門は静電気で弾かれる様な空音を聞いた。え? 幽霊が触れた? 擦り抜けずに? 思わず少女の方を見る。少女もびっくりした表情で、自分の手を見つめていた。沙門も少女もおかしな点に気づいた。さっきまで少女の身体越しに見えていた隣のホームが見えなくなっている。半透明だった少女の身体が、透けていない。
少女はふわっとした視線で辺りを見回し、そしてゆっくりと両手を沙門に向けて伸ばした。そのしなやかな指が沙門の引き締まったほっぺたを抓り上げる。
「ひ……ひたひ」
「お……おおーっ! 実体だ……五十年振りの感触だーっ!」
少女の絶叫にも近い歓声が周囲に響き渡る。眠そうなサラリーマンやOLがびくっとこちらを見つめる。その視線をまるで気にも留めず、少女は沙門の両手を掴んでぶんぶんと上下に振る。
「いやー、スゴいよ! 幽霊を実体化させるなんて。噂には聞いてたけど、本当にそんな能力あるんだ!」
すごい? このボクが? 沙門は戸惑う。確かに霊感は強い方だとは思っていたけど、それが何かの役に立ったことはない。むしろ話せば気味悪がられる方が多かった。それがこんなにも喜んで貰えるなんて。またちょっとだけ、沙門の心を覆う暗い情念が打ち払われる。
「そ、そんなに珍しい能力なのかな? よく分からないけど……」
沙門は少し顔を赤らめながら少女に聞く。少女は久しぶりの感触を確かめるかのように、ぺたぺたと沙門の身体を触りまくっていた。距離が近い。異性とこれほどの距離で接するのは久しぶりだった。実体化した為か、少女が動く度に仄かな体温や香りを感じる。
「こんな能力持ってるんだったらさ、霊術師になればいいのに」
「霊術師?」
聞いたことのない単語だった。なればいいということは、何かしらの職務なのだろうか。
「そ。悪い怨霊を祓って、厄災から現世を守るお仕事」
「悪霊退散ーとか言って?」
「言わなくてもいいけど。ほら、こういう赤い空気が流れてきたらさ……」
そう言いつつ、少女の顔から笑みが消えていく。初めて見せる厳しい表情。赤い空気の様なものが漂ってきるのが、沙門にも視えた。
——気がつけば。
辺りはしんと静まり返っていた。時計の針は止まっている。周囲にぽつりぽつりといたサラリーマンやOLも微動だにしない。よく見れば、その身体は水晶の様なモノに変化している。沙門と幽霊だった少女を除いて、動く物は何も無い。ただ赤い空気だけが、脈動するように漂っている。
「これは……うッ!」
沙門は突然嘔吐いた。何が起こっているのか分からないが、その霊感の強さが激しく警告音を発している。何やら「良くないモノ」が集まってきている。それだけは身体が感じていた。
かつん、かつん。
高下駄の音が近づいてくる。沙門は振り返る。ホームに降りてくる階段を誰かが降りてくる。
年の頃は三十路だろうか。切れ長の目をした男だった。高下駄に灰色の和服。短く切り揃えた頭髪も灰色に染められている。男はホームにまで降りると、少しびっくりした表情で少女と、そして沙門を見つめた。