暖炉の部屋で
心がザワザワとする。外の雨が激しくなるのも、まるで私の心を表しているかのよう。子供部屋からリビングに戻ると、彼は暖炉の埃を払っていた。一層私の心は鐘を鳴らすみたいに騒いでいる。
彼のことを後ろから驚かせる気もなく、そっとキッチンテーブルの方へ回って歩けば私が来たことに気付いたみたい。それでも彼は決して振り返ることはしなかった。
「アミンは寝ました」
「そうか」
背中越しに返事をし、その後はソファーに浅く座っている。
「あの、さっきはごめんなさい。ひどい勘違いを子供の前で……」
「何か目的がある場合しか私達は動くことが無い。疑ってくれるのは君が良い兵士だった名残だろう」
彼なりの気遣いは、私には優しく思えた。自分の不甲斐なさや無力さにずっと悩んでいたからだ。こんな私にも華のあった時期があったのだと教えてくれたことになる。
「子供が居たんだな」
しかし喜んでもいられないのだとすぐに痛感した。
「六歳……。君が兵士を辞めたのも六年前だ」
お城ではよくある事。思いがけない事件の結果で女の兵士は去っていくことが多い。彼女達の事情は、おそらく彼の耳にだって入っていることだろう。だけど事実として確認するほどでもない。
あろうことか彼の溜め息が聞こえてきた。溜め息なんて吐くことがあるんだ、と思うのは置いておいても、いつもきちんと正した背筋が今だけ丸いような気がしている。
「ええっと、驚きましたか?」
「少し。でも君はとても幸せそうだ」
「あなたは?」
「……複雑」
また彼は溜め息。背中もやっぱり丸まっている。
雨で冷える夜だから何か暖かいものでもとホットコーヒーを淹れた。彼のもとへ持っていくと受け取ってくれて、小さく「おいしい」と言ってくれる。
座る位置をズレてくれたことから、隣にどうぞという意味だと思った。私は自分の家だけど遠慮しながら少し近くに座った。
「なにかあったんですか?」
仕事の悩み……。失敗……。まさか死刑執行部隊をクビになったとか。
彼は私が隣に座っても視線を上げるなどはしないで、カップの中の黒い渦を眺めたり、足元の絨毯を見つめたりするばかり。絶対に何かは思い詰めている。
「実は」と、彼がようやく顔を上げた。それでも私じゃなくて壁掛けのものを眺めながら。
「同僚から君に嫌われてこいと言われて来たんだ。しかしいざ君を前にすると踏ん切りが付かなくて」
「……えっ?」
瞬間的に彼との時間が頭を巡った。初めて出会った時から最後に話したところまで。知らずに両思いだったなんて甘酸っぱい思い出も蘇ってくる。
「六年も。好きでいてくれたんですか」
「そうなってしまった」
ふわりと湯気が立つと彼はカップに口を付ける。小さく「おいしい」と言っているのは無意識なんだろうか。至って彼は私のことで思い悩んでいるみたい。
「君に嫌われそうな要因は山のようにはあるんだが」
「言ってみて下さい。全部」
怖いもの見たさだったのかも。本当に引いてしまうような話を聞いたら私は彼のことを大嫌いになってしまうかもしれない。そうなりたくない。だけど知りたい欲求の方が勝っていた。
「じゃあ、まずは……」
彼の非行な武勇伝が語られるものかと思っていた。でも内容は彼の生い立ちからだ。裕福な家に生まれたものの幼いうちに家族を離れて兵士に拾われたという話。
たくさんの戦争に行き、たくさんの街や国を焼き、王様を十一人殺したということも聞いた。しかしその十一人の中の半数がセルジオ国王暗殺が多いのだと言う。
「あ、あの。こんなこと私に話して良いんですか!?」
彼はガッカリと項垂れた。
「やっぱり失望するか」
「そ、そうではなくて」
私に嫌われてしまう以前のこと。身内の暗殺だなんて極秘案件の情報なのではと心配しているのに。
「死刑執行部隊は自分で望んで入った。この顔付きが人を殺す武器になると先輩兵士に言われたのがきっかけだ。しかし何も得られないと分かってからはやる気を失くした」
「何もって?」
「やり甲斐……と言うのは変だな。単純に、罪人を始末したら果たして国は良くなるのかと考え出したのかもしれない。私は指示を受けるまま暗殺を遂行し、帳簿と同じ番号の人間を殺し続けるのが理想の兵士だっただろうか。と、悩んでいた時……君が楽譜を失くしているのに出くわした」
煌びやかな会場の裏でカバンをひっくり返す私が浮かぶ。まさかあの時を見られていたなんて。
「真っ青になったピアニストが何を弾くのかと思えば、アルティミスがリクエストした小夜曲に似た別の曲だったな。私はあの曲が妙に頭から離れなくて気に入ってしまったんだが、アルティミスには効果がなかったらしい。君のことを相当恨んで死刑にする手続きまで長官に言いつけていた。だからその晩に」
彼は話すのをやめる。何故ならカップを持つ手に、頼りない私の手が添えられたから。それでも「十二人目だ」とだけ、彼にある使命感に駆られて告げてしまった。
「嫌いになってくれ」
小雨の静かな夜に彼の言葉が寂しく溢れた。
掬い上げるにはあまりにも重たい。私ひとりでは到底持ち上げることなんて出来るわけがない。でも、寄り添っているだけではいけない? 人を殺すことだけが私を救えたわけじゃない。彼はまだ気付いていないんだ。
「マーカスさんとの出会いがあったから私はピアノを辞められたんです。アミンが生まれたのだってそう。あなたに会えるんじゃないかって思って私は兵士になったんだから。私が今幸せなのは、あなた無しではあり得ない。だからあなたも幸せにならなくちゃ」
彼のコーヒーカップをテーブルに預けて、私はその小さくまとまった両手を握った。
「私を見てください」
踏ん切りが付かないのは嫌われることじゃなく愛されることなんじゃないの?
私は、彼に幸せな日々が訪れるように願った。彼は少し躊躇いながらこちらを向いてくれる。
冷酷な顔。冷たい瞳。確かに彼に見られた人は、もう何もかもを失うだろうと絶望するかもしれない。じっと見つめられると私でも不安を煽られる。深い紫を帯びた瞳の中に映る光はまるでない。
だけど目が離せなかった。また私は囚われた。彼からゆっくりと顔が近付くと唇が触れていた。柔らかいけどザラつきもある。暖かくてほのかにコーヒーの香りがする。
両手を彼の背中に回したら、私たちはまるで一千年の恋が叶ったかのように抱き合える。ずっとキスをしてその都度見つめ合い、首も腕も胸も足も全てを確かめ合った。
私は彼が好き。この人を離してはならない。一巡して口付けを。また彼の瞳と出会うたび、私は心に正直になっていった。
「あなたの瞳がずっと大好き」
やっと伝えられると、彼は柔らかな微笑を落とす。
「ありがとう」
彼の愛に抱かれた夜はとても長く、優しくて暖かかった。
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