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短編小説

死神

 僕が死神に会ったのは深夜三時過ぎだった。その時、僕は執筆していた。

 僕は執筆をいつも深夜に行う。コーヒーと音楽が執筆には必要だ。リビングにテーブルがあって、ノートパソコンで書いている。椅子が二つあるが、僕は一人暮らしなので、一つしか使わない。

 いつもの通り、そうやって書いていると、空いているはずの椅子に誰かが座っているのに、急に気づいた。最初に気づいたのは、「足」で、少年のようなほっそりとした足が目に見えた。

 そういう場合、まず驚くのが自然な反応だろうが、僕は、足を見て(ああ、誰か来ているな)と思った。執筆の時の朦朧たる感覚と、コーヒーの微妙な陶酔によって僕の頭は眠っているような感じだったのだろう。僕は驚きもせず、空いている椅子に誰かが座っている事を受け止めていた。

 いずれにせよ、普通の存在ではない、異形のものだろう、とは想像がついた。ぼんやり予感していた、と言うべきか。僕は手を休めて、足から上に視線を上げていった。

 それは少年だった。色白の、細い少年で、チェックのシャツを着ていた。髪は短髪で真面目そうだが、どこか憎らしい顔つきをしている。僕が少年を見ると、少年はこっちを向いて、ニカッと笑った。その顔には見覚えがあった。少年は僕の顔をじっと見ていた。僕は、彼が誰かを思い出そうとしていた。そうして思い出した。僕だった。少年の頃の、僕自身だった。確か、こんな顔をしていたはずだ。写真で見た事がある。

 「よお」

 少年は喋った。声は、僕に全然似ていなかった。甲高くて、微妙に人を苛つかせるような声だった。

 「来てやったぜ。お前が俺を呼んでたからよ」

 「誰だよ、お前は。呼んでなんかないぞ」

 僕は言った。僕は少年の存在をごく自然に認めていた。少年は僕にとって、異質であるような、また同時に僕自身の一部であるような、そんな不思議な感じだった。

 「いや、お前が俺を呼んだんだよ。…というより、お前は俺をいつも呼んでいたけどな。正確には、お前は俺を頼りにしているんだ。そうだろう? …おい、自分じゃ、どう思うんだ?」

 「ごたごた言う前に、自己紹介してくれないか? お前が誰なのか、僕には全然わからないんだよ」

 「俺は死神さ」

 死神と名乗った少年は、僕のコーヒーカップを勝手に取って、口をつけた。飲むと「不味いな」と一言言って、カップを戻した。

 「俺は死神だよ。驚いたか」

 「死神? へえ、そう。…それで、どうして僕の少年時代の姿でやってきたんだ?」

 「そりゃあ、あれだよ。簡単な事さ。お前がそう望んだからだ。お前はいつも寝る前祈っていただろ? 『死神様、どうぞ、出てくる時には僕の少年時代の姿で現れてください。僕は、死神様にもお会いしたいし、美少年だった子供の頃の自分の姿も、もう一度、この目で見ておきたいのです。お願いします、死神様』ってな」

 「そんな事、言った覚えはないさ。お前はホラ吹きだな。死神だけあって」

 「死神がホラ吹きだって伝承はどこにもないぞ。また、お前の記憶間違いだよ。お前は最近、記憶間違いが多いからな」

 「大きなお世話だよ」

 僕はため息をついた。死神か…。こいつは面倒な奴がやってきたらしい。おそらくはまともに相手してやらないとこいつは帰らないだろう。僕は、こいつと向き合おうと思った。

 「それで? 死神が来たって事は、僕の命を取りに来たのか? もうお迎えが来たのか?」

 「残念ながら、そりゃまだ先さ」

 死神は僕にウインクして見せた。僕は苦笑した。

 「お前が死ぬのはまだ先だよ。多分な。俺もスケジュール帳に色々書いてて、忙しいんだからな。一体、この世界でどれだけの人が死ぬと思う? 俺達は、お前らの言う『アルバイト』よりもタフに働かされているんだ。…まあ、俺も、昇進したから、命の刈り取り作業はもうやってないけどな」

 「なんだ? 死神の世界にも昇進があるのか?」

 「あるよ、そりゃあ。課長もいれば部長もいる。もちろん、これはお前らの語彙を用いての比喩だけどな。死神にも色々あるさ。俺達だって色々な仕事がある」

 「ふうん。じゃ、死神は複数なのか」

 「複数だよ。わんさと、沢山いるさ。最もその気になれば、一つになる事もできる。俺達はお前らの考えるような概念で生きているわけじゃない。だから、お前らが死神を単一の存在だとイメージしてもあながち間違いじゃないよ。俺達は、同一の精神で生きていると言えない事もないからな。単数や複数という概念を超越して俺達は働いている。それに、この世界だけじゃなく、別の世界の命の刈り取り作業だってやっている。最近は、もっぱらそっちの方が大変さ。人間は勝手に死ぬだけだからな。楽なもんだよ。もっと高度な生物になると、死という現象それ事態を破壊しようと抵抗してくる。大変なんだよ、死神だって」

 「へえ、面白そうだな。その話を聞かせろよ」

 「やだよ。お前に話したって理解できっこないし、説明に疲れるだけだからな。色々、世界の外側にはお前らが思いも及ばぬものが沢山あるんだよ。今の所、それだけ言っておけば十分だよ。…いや、それだって言う必要はないけど。ほんとは」

 「あ、そう。じゃあ、いいよ。……それで? 今日は何の用で来たんだ?」

 僕は尋ねた。どうやら、死神はとてもおしゃべりらしい。

 「いや、用件はお前の方がよく知っていると思うけどな。自分で呼び出したんだから」

 「僕が? 僕は呼んでないぞ。さっきから、よくわからない事を言っているけど、僕はお前を呼んだ覚えはない。僕にお前は必要ない。できれば、死ぬまで出て来ないで欲しいくらいだ。役者が出番を間違えたんだろう? 隣の家だったんじゃないのか? 行く事になってたのは」

 「…これだから、面倒くさいよね。人間っていうのは、強情だから。変なプライドってやつを持っていて、芥子粒みたいな自分という塊にしがみついてどうしても離れない。俺はね、死神だけど、嘘はつかないさ。嘘なんてついたってしょうがないからね。実際に、お前が呼んだんだよ。俺を」

 「僕は呼んでない。またそうやって、自分のペースに乗せようとしてるんだろう? いい加減に、用件を教えてくれないか? 頼むから」

 「わかったよ。まあ、どっちの口から出たって事実は事実だしな。心理的な、『客観的な』事実ってやつか? 『客観的』が好きなんだろ? 最近の人間ってのは?」

 死神は微笑した。それは子供の頃の僕自身の笑顔だったから、僕は一瞬、恐怖を覚えた。こいつが僕の姿をかたどっているという事は、僕の心を全て見透かしているんじゃないか。そんな事を考えてしまった。

 

 「俺はさ、お前を励ましに来たんだよ」

 「励まし?」

 拍子抜けしてしまった。励ましだって? 死神が励ましに?

 「なんだよ、それ。励ましって。死神が励ましだなんて、性に合わないだろ」

 「性に合わなくても、仕事なんだから仕方ない。それよりも、さっさと用事を済ませちまうぜ。…ほら、お前は今もそうやって、何かを書いているだろ? …まあ、何を書いているかは知っているんだけど」

 「…それがどうした?」

 「あのね、お前も気づいているだろうけど(だから散々言ったんだけど)、お前はその霊感をどこから得ているのか、という事なんだよ。今日、言いたかったのは。そしてこの事がお前を励ます事にも繋がっているんだ」

 「ふうん。まあ、そりゃ、励まされて悪い気はしないから勝手にやればいいけど。…それよりも教えてくれないか。僕を励ます事は、どういう意味があるんだ? 僕の寿命が縮まったりするのか? 一体何に関係があるんだ?」

 「いや、それは深読みのしすぎだよ。寿命だとかは関係ない。お前は死神の仕事を知らんからね。大体は、神の命令であっちこっちうろうろしているだけなんだ。で、お前にもそれなりの役割を神は期待していてね。なにせ、向こうから見るこの世界と、こっちから見る世界は違うもんで。お前にもそれなりの役割が期待されている。その役割を全うしてもらう為にも、お前にはもう少しばかり頑張ってもらわなきゃいかん」

 「頑張る? …頑張ってるさ、僕は。見て、わからないか」

 「もう少し、だよ。それにお前がある地点で挫折するのが、ある程度は予測されていてね。たとえ、お前がこの世界で何の成果も得られず野垂れ死にしたとしてもね、向こうから見ると、それなりの役割があるんだ。こっちの基準と向こうの基準は違っているからね。お前にはもう少し頑張ってもらわないといけない」

 「待て、待て。僕は、野垂れ死にするのか? もう決まっているのか? ほんとか、それ?」

 「今のは例え話だよ。…せっかちだなあ。例えそうなっても、という話だよ。それに未来の予測だって、こっちも完璧にやるのは無理だからね。時間っていうのはあんた達が思っているよりも、もっとねじくれた形をしていてね…。話を戻すけど、もうちょっとお前には頑張ってもらわないといけないって事なんだよ」

 「ふうん」

 僕は段々死神を軽蔑するようになっていた。こいつは死神なんかじゃなくて、ただのおしゃべりなんじゃないだろうか。

 「いや、お前は今、俺を疑っただろう? 『こいつは死神じゃないんじゃないか?』って。疑ったな? ところがどっこい、俺は死神なんだよ。今日はその事を話に来たんだよ。…いいか、話の腰を折るなよ。あのなあ、お前が今そうやって書いているもの、その霊感は俺から得ているんだ。死神の俺からな」

 「わけがわからないね」

 僕は言った。少年の僕…なんとも小憎らしいガキだ。

 「ほら、ミューズっていうのがいるだろう? 女神という事になっているが。実際には、ああいう奴は存在しないんだ。あれは、人間の勝手な想像でね。実際は、詩人というのは、俺のような死神から霊感を得ているんだよ。そういう事がわかっている奴もいてね、お前らの所のロシア人の一人がそういう事を書いている。『ゲーテにしろ、トルストイにしろ、その霊感を死との接触から得てきた』という…」

 「何が言いたいかよくわからないね。もっとちゃんと説明してくれ」

 「死神に喋らすね。お前は。まあ、いい。これまで、芸術家にインスピレーションを与えるのはミューズとか、ムーサとか言われてきたけどね、あれは間違いなんだ。実際にはこの俺がそいつを与えているんだよ。死神が芸術に命を吹き込んでいる。どうしてかって言うと、人間というのは怠惰な生物だからね。死という鞭で尻を叩かないと、結局は何もしないんだ。芸術とは、死というものによって押し出された生の形態なんだよ。そう言えばわかるかね?」

 「わかるような、わからないような…」

 「あのね、ある時、神はこういう実験をした。人間という種に永遠の生命を与えてみた。彼らから死を取り除き、永遠に生き続ける力を与え、平和な世界を築き、いつまでも幸福に生きていくよう人間に厳命した。ところが、実際には、彼らは怠惰故に何一つしようとせず、今日の仕事は明日にまかせて、明日の仕事は明後日にまかせて、というようにひたすらに時間を遅延していったんだ。その結果、彼らの文明は堕落に堕落を重ねて、とうとう彼らはただ生きているだけのスライムみたいな気持ち悪い生物になっちまった。彼らには欲求の充足の力も与えていからね。何にもしなくても不満はないんだ。神は、人間に幸福に生きて欲しかったんだよ、心の底からね。だけど、実際には彼らは伸び切ったスライムのような生き物になって、どうにもならず、ぐだぐだと毎日を送っているだけで、何の役に立たない、あらゆる世界の中でも最も低劣な生物になってしまった。だから神は彼らを滅ぼしたんだ。そういう実験があってね。わかるか? そんな世界じゃあ、芸術なんて生まれないだろう?」

 「ひどい話だな。そんなのを神だとは言わないだろう? …だけど、わからないな。どうしてそれで、死が芸術を生み出すんだ?」

 「だからさ、お前がそうやって執筆しているのも、死神に尻を蹴飛ばされているからなんだと、言いたかったわけだよ。芸術というのはなんにせよ、完成されていなければならない。その輪郭を縁取るのは何だ? 生の諸々の形態を縁取るのは何だ? 死だよ、死。正確には死という観念だがね。これはお前らの哲学者連中が色々洞察しているよ。そうだ、死というものが生の形式化を可能にする。芸術家は、偉大な、優れた者ほど、死を身近に感じる。死が触媒となって、生という混沌カオスを凝固させる。だから、死は芸術の生みの親なのさ。ところてんを押し出すみたいに、死という物質が生を押し出すのさ。形を整えてね」

 「…死神が『ところてん』だなんて笑えるね。死神は日本びいきか? …まあ、日本語を喋っているしな。まあ、それは、いいや。言いたい事はなんとなくわかったよ。…なんとなく、だけど。それで、それが一体、どうしたんだ? それが僕に何の関係があるんだ? それが僕への励ましになるのか?」

 「お前は死のうと思っていただろう?」

 僕は黙った。

 「だからさ、一言、忠告しにきたわけさ。実際に死ぬ事は、死という概念によってインスピレーションを受けるのとは違う事だってね。お前がもしかしたら早まるんじゃないかって、ガブリエルの兄貴から言われたんで、こうしてのこのこ出てきたわけさ。お前にはもうちょっと頑張ってもらわないと困るんだよ。あんまり簡単に絶望されても、困っちまうんでね。もちろん、『絶望』は『死』と共に、芸術を形作る一つの雰囲気ではあるんだけどね」

 「待て待て。ガブリエルっていうのは天使だろう? どうして天使が死神と手を組んでるんだ? 天界はどうなってるんだ? ふざけてるのか?」

 「…あのね、今日はそんな事を言いに来たわけじゃないんだ。死神は悪魔とは違うんだよ。わかるか? それに悪魔と天使が争うなんてのは古い話さ。今じゃなんでも協調協調で行かないと、仕事がうまく行かないんだ。神が作った造物主が増えすぎてね、争っている場合じゃないんだよ……こんな話はどうでもいいな」

 死神は僕を見た。僕は何か言おうとしたが、死神は僕を手で制する素振りをした。すると不思議に、僕の喉からは声が出てこなくなった。

 「いいよ、そんな無理しないで。もうわかったよ。言いたい事は。お前が俺に反抗しようとしている事が。…だけどね、俺はわざわざお前を励ましに来てやったんだぜ。死神が、昔のお前の姿で。…もうちょっと感謝してもいいだろう? …お前も知ってるかもしれないけど、昔、中国のある歴史家が、とてつもなくひどい刑を受けて、不具になってしまった。そいつは死のうとしていた。その時に、俺はあいつの所に行って、『もうちょっと頑張ってくれないか。お前だけが頼りなんだよ』と一生懸命に諭したものさ。そいつにはやってもらわないといけない事があった。人間の歴史としては、そいつが自力で持ち直したという事になっているけどね。でも、俺が言って励ましたんだよ。あいつはお前よりもよっぽど強情で、手強い相手だったよ。凄い才能だったからな。だけど、俺はあいつを一生懸命諭したんだ。そうしてやっと、あいつは仕事を始めた。代々、歴史家の家系だったんで、それを継いで、あいつは仕事をしてくれたよ。俺達が望んでいた仕事をな」

 僕は苦笑した。こいつは何を言っているんだ? …馬鹿な事を。そんなフィクションを。嘘を。…よく言うよ。

 「僕は死んだりなんかしないよ。…あ、声が出たな」

 「声は出るようにしたよ」

 「そう。…ありがとう。いや、『ありがとう』は変だな。…まあいいや。どうでもいい。…とにかく、お前の言っている事は全部法螺さ。嘘ばっかりだよ。歴史に自分が介入したなんて、そんな事言って、恩を着せようと言うんだろう? まったく。嘘ばっかりさ。お前の言っている事は。僕は死ぬつもりなんかないし、こうやって書いているのも、別に誰のためでもないさ。僕の為でもなければ、神の為でも、死神の為でもない。歴史も天も、知ったこっちゃないよ。僕がどうしてそんな奴らに仕えなきゃいけないんだ? ぺっぺ、だよ。人間は人間で勝手にやっていくし、僕は僕で勝手にやっていくさ。勝手に書くしね。大きなお世話だよ」

 「怒らせちゃったかな? 言い過ぎたか?」

 「…うるせえ。ぺっぺ、だ。とっとと魔界の家に帰ってくれ。その汚い尻尾をくるりと巻いて、とっとと帰ってくれ」

 僕は少年の頃の自分を見続けるのが苦痛だった。早く目の前から消えて欲しかった。

 「ほら、早く帰れよ。僕には死神なんて必要ない。死神は、死ぬ時に出てきてくれ。命だか、魂だかをどう調理するんだか知らないが、その時に出てきてくれ。それまでは出てくるな。いいか、出てくるな! この馬鹿野郎!」

 「あーあ、本格的に怒っちゃったみたいだな。わかったよ。帰るよ。もう変えるよ。俺の仕事もここまでみたいだな」

 死神は立ち上がった。立ち上がっても、少年の僕は座っている僕と背丈があまり変わらなかった。

 「じゃあ、まあ、言いたい事は言ったから。こっちの気持ちは伝わっただろうから、帰るよ。いいか、お前は色々憤慨しているみたいだけど、死神がいつもこんなに優しいと思ったら大間違いだぞ。時にはどんな人間よりも過酷に仕事をするのが死神だからな。死神の鎌は伊達じゃないぞ。お前の命を刈り取るのだって、簡単だし、それどころか刈り取った命を、この世界の人間は想像もつかない苦痛に晒すのだって、至極簡単だ。それは時間としては短いしね。お前らは時間というものの認識を誤っている…」

 「いいから、帰れよ! 哲学している様があったら、死神らしい仕事を一つでもしたらどうなんだ? 人を励ますのはチアリーディングに任しとけばいいんだよ!」

 死神は薄く笑った。

 「チアリーディングね。そいつはいい。じゃあ、そいつらに任せとこう。…だけどね、お前もわかっているはずだけどね。こういう仕事は俺にしかできなかったはずだよ。それが、お前にもわかっているはずだけどね。まあいいや。俺は消えるよ」

 「さっさと消えろ」

 「チャオ」

 死神ーー少年の僕はそう言うと、さっと消えた。漫画のように、光を出すとか、そういう劇的な事はなく、瞬間的にかき消えた。僕はしばらく、奴が消えた後の空間を凝視していた。


 「さて」

 僕はわざと大きな声を出した。余計な邪魔が入っちゃったな。全く。何だ。あいつは。わけがわからないよ。意味のわからない死神だよ。どうして、僕の姿で現れたのかもわからない。何だ、あいつ。

 僕は立ち上がった。気分を変える為にコーヒーを淹れ直そうと思ったのだった。キッチンでコーヒーを作って、カップに入れて、戻ってくると、死神が座っていた椅子が目についた。

 椅子には安物のクッションが敷いてあったけど、そこには明確に、誰かが座った跡があった。それは、子供の尻の形がぴったり合うようなこぶりな凹みだった。

 僕はカップをテーブルに置くと、凹みが見えないように、椅子をテーブルの中に押し戻した。

 「さて」

 僕はもう一度言った。うんざりだった。あんな奴の事を、思い出したくもない。多分、全ては幻だったのだろう。うん、そうだ。あんなのが現実にいるわけがない。あいつは幻、あるいは夢だったんだ。ただの夢。

 「さて、もう一度やろうぜ」

 僕は…執筆を開始した。それは、死神の応援とは何の関係もなかった。ただ僕の自由意志で始まり、自由意志で継続されただけのものだった。僕はコーヒーを飲みながら書いていった。どんどんと書いていった。その内に、夜が明けた。夜が明けたのを確認すると、書くのをやめた。僕は洗面台に向かった。僕は寝る前に歯を磨く。子供の頃から、ずっとそうだ。明日は休みだ。だから昼過ぎまで眠れる。僕は鏡を見て歯を磨きつつ、鏡の中の僕に、できるだけ少年の頃の面影を見ないように努めていた。



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