White lover 1
振り下ろされる刀は視線の先を通り、股下へと振り抜かれる。
速さ故に全く痛みは感じないし、切られた様な感触すら無い。と言うよりも初めから司はその刀の獲物では無かった。
「シッ―――‼︎」
ズバッと効果音が付きそうな太刀風と共に目の前で水風船が裂けた様な音によって司の意識は覚醒する。
混濁した墨汁の様な液体が弾け飛ぶ。
「――ッ⁉︎」
スローモーションの時は終わり、司は飛散する液体から目を守る為に咄嗟に腕で視界を塞ぐ。
「伏せて‼︎」
再び女性の声がした。その声と同時に司の膝が後ろから押され、その場に前のめりに倒れ込む。
塞いだ視界の端で振り下ろされた刀が見えた。すでに手を返し、刃が上を向いている。
倒れ込む司よりも早く、その刀は振り上げられ司の視界から消える。
同時に破裂音が響く。生肉を叩いている時の様なズブっと言う音と間髪入れずに水風船が裂ける様な破裂音。
身の危険。再び死の危険を感じた司は倒れた直後、すぐに尻餅を付いた体制で音の方へと振り返る。
「……なんだよ…⁉︎なんだよそれ‼︎」
刀を振り上げた彼女は再び上段で構えを取っていた。しかし、驚くべきはその先の先だ。
司が倒れ込んだ場所に落ちた異様に太い黒い手が。そしてその先、司が今までに見たことも無い程に悍ましい姿の"黒"が居た。
西瓜を抉り取った様に開いた大きな口に、鉄でも紙切れそうな程の鋭い牙。
取って付けた様な小さな目が顔面と思われる場所に複数個ある。
体はデカく、ゆうに3mは越す程の巨躯。隆々な筋肉と肉体は赤と黒をごちゃ混ぜな様に禍々しい色をしていた。
ズドンと音を立てて赤黒い何かが空から落下した。
おそらく彼女が切り上げた際に切り落とされ、宙を舞っていたであろう黒の腕が落ちてきたのだ。
切られた反動で黒は大きく2歩程後ずさる。
腕を確かに切った。人間であれば蹲ったり、泣いたり、嗚咽したり、痛みを訴えるのだろうが"黒"は違う。
声を上げる事も無く、切られた腕をまじまじと眺め、そして口角を上げる。
「そこの紫影、所属は⁉︎」
眼前に"黒"を見据えた彼女はコチラを向く素振りもせずにそう問う。
「し、紫影?なんの事だ⁉︎」
「…ッチ。なら、その場から動かないで‼︎黙ってじっとしてなさい‼︎」
司の返答に対して悪態を吐く様に舌を打った彼女は強く命令する様にそう言い放った。
「なっ……」
反論する言葉を吐く前に彼女は踏み込んで、司の前から再び消える。
次はハッキリと見える。消えたのでは無く、とんでもなく早く移動しているのだ。
踏み込んだ地面は捲れ上がり、舞い散る土埃が落ちる前に彼女は"黒"の前に到達していた。
頭上深くに振り上げた刀を"黒"目掛け、目にも止まらぬ速度で振り下ろす。
だが、その速度に追いつけないのは司だけだった。
"黒"は振り下ろされた刀の線を読んだかの様に半歩仰け反り、即座に残った手を広げて彼女を捕まえんとする。
しかし、その行動も彼女には想定内の動きだったのだろう、先程の様に手を返し斜め上に刀を振り上げる。
刀を掴む左手を離し、右手だけで振り抜きリーチを伸ばす。丸太の様に太い腕が、溶けたバターを掬う様に切り裂かれる。
"黒"は痛みを感じていないのか、腕を切られた事に反応する事無く、彼女に覆い被さる様にして口を大きく広げた。
並の男性の頭でもゆうに飲み込める程に広げた大きな口に対して、彼女は一向に引く気配を見せず、斜め上に切り上げた刀を返し、即座に腰を落とし構えを取ると両手で柄を握りしめた。
覆い被さる"黒"の動きよりも早く、彼女の刀は横薙で"黒"の胴を切り裂いた。
一瞬の攻防。司にはその太刀筋は目で追う事が出来なかった。
支えを無くした"黒"は重力に従って崩れ落ちる。
切られた事に今頃気付いたのか、混濁した墨汁の様な液体が胴からさながら噴水の様に飛び散った。
腕を無くした"黒"たが、それでもなお行動を止めようとはしない。
鎖で繋がれた犬が、目の前に特上の生肉を置かれている様に何度も何度も牙を擦り合わせ、噛みつこうとしている。
「…欲鬼、もう眠りなさい」
表情は見えない。それでも分かる。彼女は憐れ、悲しむ様な声でそう言った。
「我血刃、憑塊解除」
その声に反応したのは握られていた刀だ。鍔の無い、雨に濡れたかの様な艶めかしい赤の刀が、ドロリと溶け出す。切っ先は下に下ろされている、それなのに溶け出した刀は切っ先から上部へと昇って行く。
まるで意志を持った液体に様に。
刀は徐々に形を崩し、彼女が握った柄へと集束された。
「…ははっ……、何だよ…?夢か?」
目の前で起こった意味不明な出来事なついに脳が諦めてしまった。
だが、倒れ込んだ時の痛みも有る、朽ちた匂いも、飛び散った墨汁の様な液体の感触も、全て本物で現実だ。
司の声に反応はせず、彼女は柄を握りしめる。パシュッと小さい破裂音がした。彼女の握りしめた手から液体が流れる。それは赤くて、紅くて、赫く、鮮血の様だった。
その液体は滴る事は無く、吸い込まれる様に彼女の握りしめた手に吸収された。
ゆっくりと彼女は手を開く。そこにはあの赤い液体は無い。
何事もなかったかの様に彼女はスーツの胸ポケットから何かを取り出した。
司の位置からでも辛うじて見えるそれは、杭の様な形をしていた。
彼女はその杭を未だに歯を噛み鳴らす黒に向かって投げつける。
「…簡易門」
投げつけた杭は黒を囲う様に四方に突き刺さる。彼女はしゃがみ込んで、その杭の一本に触れてそう言った。
すると、杭から薄紫の光が灯る。蝋燭に火を灯した様な小さな明るさだ。
灯された薄紫の光は左回りに次の杭へと光の線を伸ばす。次へまた次へと線は伸び、やがて黒を囲う杭と杭が光の線で繋がれた。
それと同時にゴゴゴッと言う音が鳴る。音が発生しているのは薄紫の光で囲われた黒の真下からだ。
「開門、宵の間へ」
彼女はそう告げる。すると、線で囲まれた地面がゆっくりと四辺の内、一辺を残して沈み始めた。
滑り台の様に傾き沈む地面に、喰うと言う行動に取り憑かれた様に、口を動かし続ける黒はゆっくりと飲まれていった。
押しドアの様に開き、沈んだ地面の中は真っ黒で底が見えない。
「我血刃、憑塊…。それも」
彼女は立ち上がりそう言うと、切り裂いた黒の腕の方へ手を向けた。
「はいよ、お嬢」
彼女の声に反応する様にどこからか若い男性の声が聞こえた。
その声が聞こえると同時に、彼女の手が赤い液体が黒の腕へと真っ直ぐに伸び、黒の腕を貫く。まるで赤い長槍の様だ。
その赤い長槍は黒の腕で貫いたまま彼女の手の方へと縮んでいく。
縮んだ赤い長槍は先ほどの刀同様に彼女の手の中に吸収され、丸太の様に太い腕は彼女の手に渡った。
「忘れものよ」
そう言って彼女は黒の腕を地面に開いた穴に優しく投げ入れた。
その投げ入れた腕の動きに呼応する様に、飛び散った墨汁の様な液体が地面から浮き上がる。
「――――ッ⁉︎」
当然の様に司に飛び散った液体も学生服や肌から剥がれ、浮き上がった。
浮き上がった黒い液体も、黒の体同様に穴の中へと吸い込まれていった。
「簡易門、閉門」
夥しく飛び散った液体の全てが穴に入るのを確認した後に、彼女は再び杭に触れてそう言った。
沈んだ地面がゆっくりと元の位置へと戻って行く。
隙間無くとハマったパズルのピースの様に、地面は一切の亀裂も無く元通りになった。
司はもう声も出ない。目の前で起こる全て、非日常なんて言う優しい言葉で済まして良いレベルではない。異常で狂っていた。
「ねえ、君、誰?」
地面に刺さった杭を引き抜きながら、彼女はそう問いかけてきた。
「は、はぃ?お、俺の事…ですか?」
突然の問い掛けに司はしどろもどろになりながらも、何とか返答する。
「そうよ、他に誰が居るの?」
「いや、…あの、はい」
「はい、じゃ分かんないでしょ。君の名前と所属は?」
「え、えと、名前は癒月です。所属は……」
先程まで刀を振るっていたとは思えない程に落ち着いた声に司は同様にしながらも答えるが、言葉に詰まってしまう。名前は兎も角、所属とは何なのか。
「癒月、司ね?それで、所属は?」
「…あの、所属って何を答えれば…?」
「…はぁ?自分の所属も分からないの?とんだ新人ね。いいわ、じゃあ君の所の星は誰?」
「え…?いや、質問の意味が…」
司の言葉に返答は帰ってこない。彼女は全ての杭を抜き終わり、立ち上がって漸く口を開いた。
「ねぇ、君、私の事なめてんの?」
杭に付いた土を払い退けながら振り返る。ポニーテールの長い髪を揺らし、彼女は不機嫌そうそう言った。
「い、いや⁉︎な、なめてないです!!本当に意味が分からないんです!!お願いですから切らないで下さい⁉︎」
先程まで刀を振るっていた姿を脳内で思い出してしまい、司は怯え、震えた声で問いに返答する。言葉を間違えれば殺されてしまうかもしれない。
目の前で刀を奮い、黒を切り伏せた彼女は佐山を助けた時の不良の何倍、何十倍、何千倍も怖い。
「……ちょっと、そんなに怯えないでよ。別に切ったりしないわよ、同じ禍祓の仲間でしょ」
「……まが…ばらい?」
そんな部活動も仕事名も聞いた事も無い。と、いうか仲間と言っているが、司は彼女を知らない。
「ん?」
「…え?」
司と彼女は互いに困惑し、言葉を失った。