84 クモコっ子
俺はサリカから包丁を受け取り、降りてくる蜘蛛を威嚇した。
「おい。お前、クマコウじゃないのか?」
前足を持ち上げて威嚇した蜘蛛が尋ねた。
クマコウというのは、生物の熊の特徴を持った俺の呼び名だ。囚人によって、多少呼び方が変わる。ワニちゃんからは、クマ野郎と呼ばれていた。
生前の名前は捨てている。
「クモコっ子か……昔より、ましになったな」
「あれで?」
キャリーが嫌そうに言った。
蜘蛛の特徴を残したクモコっ子は、巨大な蜘蛛に人間の頭部をめり込ませたような外見をしている。
ただ、人間の肉体を強引に蜘蛛型に変えたような不気味な見た目だった頃より、地獄で暮らすうちに見やすくなったようだ。
地獄で、それだけ何度も死んだのだろう。
現在のクモコっ子の姿を否定することは、生物の蜘蛛の外見を否定することに近い。
生物の蜘蛛は、人間の顔面が埋まって動いたりはしていないが。
「ああ。俺も苦労した。クマコウ、そんな形になったって、俺たちは友達だろう。その食い物をくれ」
「食い物って、私たちのこと?」
「しっ。サリカは黙って」
背後で、サリカとキャリーが言い合っている。当然、俺は2人を渡すつもりはない。
「この子らはやれない。せっかく綺麗な体になってきたのに、また地上で罪を犯すのか? 魔王みたいになるぞ」
「止めてくれ。あそこまで酷くはならない。なにしろ、俺にはそこの人間が、すっごく美味そうに見える。生物としての本能だろう? 食べたところで、罪じゃない」
「かもな」
「ちょっと、ダマス!」
「しっ。ダマスは大丈夫よ」
叫んだキャリーを、今度はサリカが止めた。
クモコっ子が尻を高く上げ、先端から赤い糸を吹き出した。
俺は、サリカから渡された包丁を振り回す。
包丁は研ぎ澄まされているはずがないのに、頑丈な蜘蛛の糸を切断した。
「クマコウ!」
怒ったクモコっ子が、俺に飛びかかる。
ほぼ人間の体になった俺より、はるかに大きい。
俺は、続いて包丁を振りかざす。
蜘蛛の体が、易々と避けた。
蜘蛛の足が地面に落ち、顎の一部が飛んだ。
「くそっ!」
クモコっ子が飛び退る。
「サリカ、キャリー、走れ!」
「ダマスは?」
「すぐに追いかける」
「わかった」
サリカが、キャリーを促して走り出す。
俺は、離れたクモコっ子に飛びかかった。
小刻みに包丁を振り回すと、クモコっ子は威嚇の声を上げた。
「クマコウ、俺を殺すのか?」
「あの子らを追わないなら、見逃す」
「『見逃す』か。偉そうだな。魔王に伝えるぞ。クマコウが裏切ったって」
「ああ。もう知っているよ」
クモコっ子が舌打ちした。蜘蛛の口の中に、舌はない。
舌打ちをしたのは、クモコっ子の体に浮かび出た人間の顔だ。
俺はクモコっ子の動きを見ながら後ずさる。
クモコっ子が動かないのを確認し、背を向けて走り出した。
走り出すと、前方に2人の背中が見えた。
俺は、2人の前に巨大なトカゲのような姿があるのに気付いていた。
トカゲが口を開ける。
どうやら、カメレオンだ。
俺は、包丁を投擲した。
2人は気づいていない。
サリカがカメレオンの脇腹に激突し、キャリーが食われる。
俺が投げた包丁が、カメレオンの目玉に突き刺さった。
「ギャアァァッ!」
叫び声を上げたカメレオンの口から、キャリーが落ちる。
再び俺は、キャリーを抱き留めた。
「サリカ、大丈夫か?」
「うん。これは?」
激突しただけのサリカが立ち上がる。
「シースルーって呼んでいた。逃げるぞ。もう、近い」
「うん。キャリー、自分で走れるでしょう」
俺にしがみついたキャリーの腕を、サリカか掴んだ。
「食べられかけたのよ。優しくしてよ! ダマスは、自分で走れなんて言わないよ」
「わかった」
正直に言えばおろしたかったが、俺はキャリーを抱っこしたまま走り出した。
カメレオンにとって、包丁の一撃は痛手だったようだ。ずっとのたうち回っている。
カメレオンのシースルーも、クモコっ子も、気はいい連中だ。
ただ、善悪の感覚が狂っている。
それは、俺も同じだったのだろう。
聖者から力を与えられ、人間の少女たちを助けるときだけに発揮される力が、かつての俺の異常さを教えてくれた。
俺はキャリーを抱えてサリカと走り続け、リマたちが待つ廃墟に逃げ込んだ。
※
俺が廃墟に戻ると、誰もいなかった。
リマもトットも、より幼い子供たちも、姿はない。
俺の背後から、サリカが走り込んだ。
「リマ、帰ってきたよ」
「サリカ? 本当に?」
瓦礫の間から、リマが痩せ細った顔を出した。
足元で、トットが首を伸ばしている。
「うん。どうしたの? ダマスが助けてくれたんだ」
「サリカ? ほんとう? ほんとうのサリカ?」
トットが飛び出した。
サリカに飛びつき、泣こうとした口を、サリカの背後から手を伸ばしたキャリーに塞がれる。
「大声は無しだ。まだ、油断できない。それにしてもリマ、さっきはどうしたの? なんだか、すごく怖いものを見たような顔をしていたよ」
キャリーが尋ねると、リマが俺をちらりと見た。
「う、ううん。ごめん。ダマスだよね。ちょっと……ううん、なんでもない。ちょっとだけ、怖く見えたの」
「……そうか」
リマが何を見たのかはわからない。だが、俺はそもそも、人間の姿をしていないはずだ。まだ、罪を償い終わっていない。
理由はわからないが、俺が人間ではないように見えたとして、それは正しいのではないかと、俺は感じた。
「リマ、変なこと言わないで。ダマスが助けに来てくれないと、私は今頃、魔王に食べられていたのよ」
「……うん。ごめん」
リマは謝った。だが、謝っていないトットがリマと同じ恐怖を抱いたことは、サリカに抱きつく仕草から感じられた。
「他の小さい子はどうした? 逃げたのか?」
「どうして聞く?」
リマが俺に聞いた。
「心配だからだ。無事に逃したい」
「そうだよ。リマ、何を怒っているの?」
「ごめん……サリカ。ダマスも……子どもたちなら、奥にいる」
「……ああ。ならよかった。俺は外にいるよ。見張りをしている」
俺は言うと、戸惑う少女たちに背を向けた。
※
瓦礫となった街並みをぼんやりと見ながら、俺は自分の手を見た。
見慣れた手ではない。
いや、地獄に落ちる前は、当たり前だと思っていた手だった。
指が5本あり、器用に曲がる。どんなものでも掴むことができる。
地獄では違った。
地獄では何度も死に、死ぬたびに少しずつ姿は変わった。
俺が地獄にいた頃の知り合いからクマコウと呼ばれているように、全身が毛に覆われ、指は短く、鋭い鉤爪があることが多かった。
劇的に姿が変わったのは、地下に引き摺られていく聖者に触れられてからだ。
その時に力を託されたのだと、今では思う。
少女たちを助ける時だけ、不思議な力が発揮される。
たぶん、相手が少女たちだからではないだろう。
人間を助けることが必要なのだ。
だが、聖者の力が無限だとは思わない。
託された力が尽きれば、俺は本来の姿に戻るだろう。
その時、少女たちが俺を罵倒するだろうし、逃げるか、殺すかどちらかだろう。
地獄から地上に出た。
だが、俺はまだ罪を償い続けている。
まだ、地獄にいるのと変わらない。
「ダマス、どうしたの?」
俺に声をかけながら隣に座った少女は、一番年上で、俺が助け出したばかりのサリカだった。
「……俺は人間に見えるかい?」
「ええ。どうして?」
「……いや」
いずれ人間の姿ではいられなくなるかもしれないが、今ではないらしい。
俺は小さくため息をつきながら、俺に寄りかかるサリカの重さを心地よく感じていた。




