82 魔王
サリカは生きている。
無事ではない。
全身から血を流し、あまりにも血の量が多く、肉体のどこまでが無事なのかもわからない。
サリカは、壁に磔にされていた。
何人かの女たちが、同じように磔にされている。
ただ、間違いなく生きており、動いているのはサリカだけだった。
「おい! 魔王! 美味そうな餌を持ってきた。交換だ!」
ワニちゃんは恐れ知らずだ。
不細工で歪なワニちゃんが可愛く見えるほど醜い魔王に向かって、俺を投げつけた。
俺は投げ飛ばされた。
空中で受け止められる。耳元で響いた声は、聴きなれた、だが二度と聞きたくない声だった。
「うまそうな奴なら、自分で食えばいいだろう。交換とは、どういうことだ?」
魔王は俺を物でも扱うように、ワニちゃんに向かって投げ返した。
俺はなすがままに身を委ねた。
ワニちゃんの後頭部が見える。
どうやら、ワニちゃんは俺を受け取らずに避けたらしい。
「こいつは、俺が知っているクマ野郎だ。友達を食えるはずがいなだろう」
「友達? 人間と馴れ合うのか? ただの餌だぞ」
魔王はげっげっと笑った。
「人間なんかと、友達になんかなるものか! こいつを見ろ!」
叫んだのはワニちゃんだ。
俺は、床に投げ出された状態から起き上がった。
俺の頭を掴もうとしたワニちゃんの腕が空振りする。
元々、視界が極端に狭いのだ。
かわすのは簡単だ。
俺は立ち上がった。
「魔王、その子を放せ。その子だけでいい。他の子は……残念だけど、仕方がない」
俺は、ワニちゃんの前に出た。
ワニちゃんの言葉から、魔王は俺の正体を探ったのだろう。
「……貴様、地獄の罪人か? その姿はなんだ?」
「知りたければ教えてやる。その代わり、サリカを解放しろ」
俺は、魔王の背後の壁に、手足を杭で打ちつけられているサリカを見た。
サリカの目が俺を捕らえている。
口がかすかに動いた。
『逃げて』
そう言っているのがわかった。
「サリカだと? どれだ?」
魔王は壁を振り返る。
真っ赤に染め上げられた壁が、みじろぎをした。
そう感じた。
魔王が腕を振るった。
壁が壊れた。
肉片が飛び散った。
「ああ! 石と混ざって、不味くなるじゃないか!」
ワニちゃんは、純粋に食事を楽しもうとしていたようだ。
魔王はそうではない。
女たちを苦しめるのに、すでに飽きていたのかもしれない。
何よりも、俺を苦しめたいのだ。
「約束だ。もらっていく」
俺は、岩の瓦礫と無数の肉片の中から、サリカを抱き上げていた。
一糸まとわず、身につけているのは血液だけだ。
赤い肉体に、俺は唾を飲んだ。
それが、食欲なのかどうか、自分でもわからなかった。
大量の瓦礫と、ごちゃ混ぜになった肉片に飲み込まれ、死んでいても不思議ではない。
むしろ、魔王が殺すつもりだったのは間違いない。
ただ、俺はサリカを助けられると感じていた。
魔王の所業が、俺がサリカを助けるために必要なことなのだと感じていた。
結果として、俺は瓦礫と肉片でもみくちゃにされていたサリカを発見し、抱き上げたのだ。
壁に打ち付けられていた痕は残っていない。
元々、傷などなかったのかもしれない。
考えている場合ではない。
俺は、サリカを抱き上げて言った。
「ワニちゃん、悪い。サリカはもらっていく」
「貴様! 約束を破るのか! どうやって姿を変えた? 教えるという約束だったはずだ」
ワニちゃんが、瓦礫だらけになった肉片に肩を落としている一方、魔王は吼えた。
あまりにも、一方的な言い草だ。
「サリカを殺そうとしただけだろう。俺が助けたら、約束を守ったことにするのか? 虫が良すぎるだろう」
「貴様! おい、ワニ、そいつを逃すな」
魔王の命令に、ワニちゃんが飛び上がる。
魔王に服従していなくても、命令されれば逆らえないのだろうか。
俺は、サリカをしっかりと抱いて、とにかく逃げようとした。
足元が滑った。
血で溢れていた。
転んだ。
俺が肩から床に落ちたところで、衝撃で脆くなっていたのか、床が抜けた。
俺はサリカを抱いたまま、街の支配者の屋敷の地下室に転がり落ちていた。
※
真っ暗い瓦礫の下で、俺は頑丈な床を支える柱に守られ、奇跡的に無傷だった。
奇跡ではないだろう。これも、聖者が分けてくれた力に違いない。
俺は、サリカを抱きしめていた。
落ちた衝撃か、元々弱っていたのか、気絶していた。
周囲は完全に闇に閉ざされている。
足の下に滑らかな石の感触があるので、地下室として作られていた空間だと想像できる。
痛む場所があっても、俺は無傷だ。
むしろサリカが心配だった。
はっきりと見ていないので断言はできないが、俺が助けた時はほぼ全裸だった。
全裸だと断言できないのは、血で真っ赤に染められ、服を着ているのかどうかすら、見てもわからなかったのだ。
ただ、サリカは怪我をしていたはずだ。
壁に打ち付けられていた。
手足に楔を打ち込まれていた。
全身を染める血の、多くは自分の血だろう。
俺の周りに木の柱が落ち、たまたま俺の周囲だけ、身動きできる空間ができていた。
暗いので見ることはできないが、サリカの体を感触で抱き寄せる。
血で滑る。
ぬめぬめとした液体が俺の体にまとわりつくが、サリカの体はしっかりとした弾力のある、魅惑的な肉体だった。
手で探る。
サリカの手があった。
俺は、傷に触れないように慎重に手を撫でた。
楔を打ち込まれていたはずだ。傷の具合を確かめたかったのだ。
ところが、サリカの腕には傷どころか皺すらなかった。
そんなことがあるだろうか。
もう片方の腕をとり、さする。
傷はない。
足はどうだろう。
俺は、サリカの腰から足を撫でた。
「うっ……」
サリカが呻く。
傷に触れただろうか。
俺は、さらに慎重に足にふれる。
どうやら、傷らしいものはない。
「サリカ、俺がわかるか?」
俺は、サリカの耳元で囁いた。
「……ダマスなの? どうして?」
「助けにきた」
サリカが手を上げ、俺に触れようとする。
暗くて見えないはずだ。
俺は、サリカの手を俺の顔に押し当てた。
「嘘でしょう?」
「本当だ」
「どうして……」
サリカが、先ほどと同じ問いを繰り返した。
同じことを尋ねたのは、俺が答えなかったからだろう。
「話は後にしよう。ここは、魔王がいた場所の地下だ。逃げようとしたが、床が崩れた。俺たちがここにいることは、魔王が知っている。掘り出して捕まえようとする前に逃げる。サリカは動けないだろう。俺がなんとか……」
『逃げ道を探す』そう言おうとした。
その前に、サリカの両手が俺の頭を挟んだ。
俺の頭を捕まえた。
唇に、温かく柔らかいものが押し当てられた。
「私は大丈夫。痛いところはどこにもないよ。ダマスの力でしょう?」
どうやら、本当のようだ。
俺が力を使わなくてもいいと言いたいのだろう。
「俺は何もしていない」
「嘘よ。ダマスがやったんでなければ、骨まで砕けていた手や足が、元通りに動くわけないもの」
「いや、それは、俺じゃない」
本当に怪我が治ったとしたら、それは聖者の力だ。
俺の力ではない。
だが、否定し続けても不毛な言い合いになるだけだ。
俺は、サリカに告げた。
「それでも、血をだいぶ流しただろう。しばらくは動かない方がいい」
「大丈夫だよ。すっごく、いいものをもらったから」
「いいもの?」
「これ」
サリカは言うと、再び唇を重ねた。俺の口に舌を入れ、唾液を啜る。
サリカの唇が離れるが、どんな表情をしているのかは見ることができなかった。
「……わかった。逃げる方法を探そう。手伝ってくれ」
「うん。あっ……私、裸だ。興奮する?」
サリカは言うと、俺の手をとって、体に触れさせようとした。




