75 街の影
暗い地下通路の先には、光り輝く世界が広がっているのだろう。
罪人たちに追われた森の下は抜け、出口付近で通路がただの洞穴に変わり、目の前でクマが眠っていた。
地獄の罪人たちに追われて逃げ込んだ洞穴に獣の姿はなかったが、出口では立ち塞がるように眠っていた。
「冬眠中かな?」
「ただ、寝ているだけだと思う。冬眠する時期じゃないし」
俺が尋ねると、サリカが答えながら、剣に手をかけた。
「通り抜けよう」
「駄目だよ。お肉を食べられるチャスじゃない」
「うん」
弓を手にしたキャリーの言葉に、少女たちが一斉に同意した。
俺は、前世では飢えたことはない。
世界では飢えた少女たちは大量にいた。
俺が同行している少女たちは、貧しい国の生まれなのだろうか。
だが、俺は足が震えた。
「俺は、多分力になれない」
俺は足を止めた。
肉を食べるためにクマに立ち向かおうとしている少女たちの背中が遠くなる。
単純に、クマが怖かった。
人間がクマに勝てるはずがない。
それは俺の認識だ。
少女たちの先頭にいたサリカが振り向いた。
「うん。わかっている。眠っている動物を殺すなんて、聖者様ができるはずがないものね」
「いや、そんな……」
俺は聖者ではない。それ以上に、俺はただ怖かったのだ。
俺の足元で、誰かがつついた。
俺が下を見ると、幼いトットがいた。
少女たち全員がクマを殺しに行ったのではないのだ。
トットは10歳にも満たないだろう。
置いて行かれたのだ。
「大丈夫だよ。魔物とは違うもの」
俺が怯えていることを感じ取ったのだろう。トットは俺を慰めるように脚を叩いた。
俺は、暗闇を見透かすことができた。
そんな能力はなかったはずだが、これも聖者から託された力なのだろう。
サリカが剣を抜き、振り上げた。
キャシーが弓ではなく短剣を握り、武器を失った槍づかいリマに弓で放つ矢を渡した。
レインが杖を上げた。
サリカは動かない。
レインが呪文を口にした。それは俺が全く知らない言語だったが、クマをより深く眠らせようとしているのがわかった。
レインの魔法が完成する。
「サリカ」
「任せて」
眠っているクマがより深い眠りについた。
サリカが剣を振り下ろす。
サリカの剣が、クマの首筋に落ちる。
血がほとばしる。
クマが目を開けた。
吠える。
首から血を流し、吠える。
「サリカ!」
「わかっている!」
リマが叫び、再びサリカが剣を打ち下ろす。
クマが前足をふるった。
再び血が舞う。
今度は、クマの血ではない。
サリカが腕を押さえて下がった。
リマが矢を突き立てる。
突き刺さった矢が、半ばで折れた。
「レイン、眠らせて!」
「やっているわ!」
勝てない。クマは強い。
俺は少女たち全員が殺されることを想像した。
俺の足元が叩かれた。
俺は、言葉もなく下を見た。
「助けて。みんな、死んじゃう」
「お、俺に……何ができるというんだ?」
「助けて。聖者様」
「お、俺は、違う」
俺は言いながら、トットを振り払った。
クマの標的とされたのは、サリカだ。
体の前に剣を立て、クマの爪を払っている。
だが、クマの爪は人間の指よりも太い。
サリカは血だらけになり、クマの牙が喉に届こうとした。
俺は、飛び込んでいた。
サリカとクマの間に飛び込み、傷だらけサリカを抱きしめた。
背中を切り裂かれ、首筋を噛み砕かれる。
俺はそう思い、死を覚悟した。
「……ダマス」
サリカが呼んだ。
「うん」
「ありがとう」
「えっ?」
サリカの意外な言葉と、背後からの歓声に、俺は振り向いた。
そこには、首から血を流したクマが、横倒しになっていた。
俺は何もしていない。
だが、クマは死んでいた。
※
クマが寝ていた場所は、間違いなく巣穴の中だった。
その場所から数メートル先に、地上への出口があった。
暗い横道の中で一度睡眠をとって休憩しているうちに、夜が明けていたらしい。洞窟の先の外では、早朝を思わせる柔らかい陽光が地面を照らしていた。
まだ森の中なのは間違いない。
斜めの斜面に、雑木がまばらに生えていた。
斜めに降った先に、建物らしい影が見えた。
俺は、クマの死骸を引き摺って外に出した。
5人の少女たちのうち、弓使いのキャリーが嬉々としてナイフを取り出してクマを解体し始めた。
槍を失ったリマは薪木を集め、魔術師のレインと幼いトットが炉を作る。
クマの死体を引き摺って外に出した俺は、大きく深呼吸した。
俺の隣に、みずみずしい肉体に剣を背負ったサリカが並んだ。
「ダマスが何者であろうと、私たちの命の恩人だ。特にさっきの……聖者様じゃないって言われても、信じられないよ」
「聖者は高齢だろう」
「この世界を救った聖者様のことなら、もう死んでいるんじゃないかな。ずっと噂を聞いていないし、街の長老たちだって、若い頃に会ってから、見たことがないって言っていた」
俺は、サリカの物言いに首を傾げた。
視界の隅で、キャリーが赤い肉を切り分けている。
リマが組み上げた木の枝に、レインが火をつけた。
俺にとっては、聖者といえば1人しかいない。
俺に何かを託し、自らは地獄の獄卒に連れ去られた老人だ。
「この世界のことは……わからないが、この世界を救った老人以外に、聖者がいるのかい?」
「この世界は、滅びかけたらしいよ。それを救ったのが、聖者様って呼ばれる人だから……世界を救う運命の人のことを、聖者様って呼ぶのよ」
サリカは言うと、俺に笑いかけた。
俺は、サリカの態度に股間に血流が集まるのを自覚したが、意識を散らすために遠くを指差した。
「あれは、サリカの街かい?」
「うん。この大陸に、3つしかない街の1つだよ」
「大陸って……広いのかい?」
「わかんない。この辺りから、遠くに行ったことないもの」
「そうか……」
俺は、かつての世界での地球儀を思い出していた。
かつての世界は、魔法こそなかったが、人間が空を飛び、世界を俯瞰することができた。
誰も空を飛ぶことができない世界なら、大陸と言われても大きさを意識することはできないのだろう。
俺は、この大陸に3つしかないという街に行ってみたくなった。
「街に入れるかな?」
「魔物でなければね。クマの肉が焼けたよ、お二人さん」
呼びかけられて振り向くと、小柄な狩人キャリーが、焦げ目がついた肉を木の枝に刺して、俺とサリカに差し出していた。
「俺は街に行ってみたい。君たちはどうする?」
焚き火とクマ肉を囲んだ5人の少女に、俺は尋ねた。
リマが肉を齧りながら言った。
「まるで、街に行ったことがないみたいだね。ダマス、あんたは何者なんだい?」
「リマ、ダマスが何者かは、どうでもいいことだわ。私たちを助けてくれた。それは間違いないもの」
「サリカは黙っていてよ。助けられたことは認めるけど、何者かははっきりしなきゃ。だって……魔物の仲間かもしれないだろう」
「人間が、魔物の仲間なんてことがある?」
魔術師レインが首を傾げる。
俺は、何も言わずに黙って焼けたクマの肉を口にした。
塩も胡椒もない。
硬い。
生焼けかもしれない。
だが、それでも、美味かった。
地獄に落とされて以来、初めてのまともな食事だった。
飢餓すらも地獄の試練なのだろう。
何を食べても砂を食べているような味しかせず、腹が満たされることはなかった。
硬く臭いクマの肉が、俺の全身に活力を与えてくれるように感じた。
「ダマス、泣いているの?」
「美味い。こんな美味いもの、食べたことがない」
驚いたサリカの問いに、俺は自分が涙を流していたことを知らされた。
「まっ……とりあえずはいいか。人間が魔物の仲間だなんてあり得ないってのは確かだし、悪い人じゃないのは、私もわかるよ」
リマが言い、焼けた肉の塊を、俺に向かって投げてくれた。