72 逃走
俺は、聖者にはなれない。
力がないことはもとより、あれだけの力を得て、自分のために使わないなんて考えられない。
いたたまれなくなった俺は、少女たちが逃げ込んだ洞窟から飛び出し、そのまま洞窟を離れた。
もう裸ではない。
体を覆う麻布を身につけている。
足音が聞こえ、俺は木の影に隠れた。
「おい、あの女どもが見つかったらしい」
「ああ……思い出すだけで、腹が減ってきた」
聞こえたのは、足音だけではなかった。
よだれをすする音に、楽しげな声が、俺の神経を逆撫でた。
俺は、木の影から声のした方向に顔を出した。
思った通り、歪んだ外見を持つ地獄の罪人たちだ。
3人が連れ立って歩いている。
見つかった女というのが、少女たちでなければいいと願った。
人間が罪人たちの食い物にされてもいいのかと言えば、それを咎めることは俺にはできない。
だが、俺と言葉を交わし、俺を聖者のように扱ってくれたあの少女たちは、死なせたくなかった。
だが、俺の望みは儚かった。
3人の罪人たちは、間違いなく少女たちが隠れた洞穴に向かっている。
さらに3人の後ろからつけると、見たことのある洞穴があり、穴の中から、俺が傷を癒した刀使いの少女が引き摺り出されたところだった。
サリカは穴から引き出されて、気丈に刀を振るった。
罪人たちは5人に増えていた。
幸いにも、魔王はいない。
刀を振るうサリカを、罪人たちは笑って眺めていた。
1人が前に出る。
サリカの剣が、罪人の頭部にめり込む。
だが、それ以上は動かない。
剣を減り込ませたまま、罪人は前に踏み出した。
サリカが下がる。その背中が、別の罪人に抱かれた。
「みんな! 逃げるんだ!」
サリカが叫ぶ。
穴の中から、少女たちが飛び出した。
罪人たちは、待ち構えていた。
逃げようとした弓使いの少女が、罪人の蟹の鋏のような手に喉をつかまれる。
その罪人の力を、俺は知っていた。
少女の首ぐらい、野菜を刻むかのように落ちるだろう。
「サリカ、助け……」
振り向いた少女の顔が、絶望に染まる。
サリカは、罪人たちに弄ばれようとしていた。
「助けて! 聖者様!」
泣き叫んだのは、最も幼い、何の力もない少女だった。
罪人たちが一斉に笑う。
俺は、飛び出していた。
目の前にあった、甲羅のついた厳つい背中を蹴飛ばした。
罪人が叫ぶ。
俺が蹴飛ばした背中の持ち主が、崩れた。
地獄で罪人が死ぬ時に似ている。
俺は、その死体を踏み越えた。
「聖者様!」
サリカが叫んだ。服を裂かれ、地面に押し付けられ、なぶられようとしていた。
「違う! 俺を聖者と呼ぶな!」
「そうだ。ただの飯だ」
背後から、ぞっとするような声が聞こえた。
あえて、離れた場所で監視していたのだろう。
俺は、振り返らずにサリカに向かって突進した。
地面に押さえつけている罪人を蹴飛ばす。
サリカを抱き起こした。
服を剥ぎ取られたサリカは、俺に抱きついた。
「聖者様! 聖者様!」
「だから、違う……」
俺の言葉に力はない。たった今まで、死ぬよりも恐ろしい目に遭いそうになっていたのだ。
俺はサリカを抱え上げた。
少女にしてはがっしりとしたサリカだが、重いとは思わなかった。
サリカは俺に抱きついた。
罪人たちが俺の体に触れた。
同時に、聞き苦しい悲鳴があがる。
俺が振り返ると、罪人たちのうち、何人かの腕が崩れていた。
「近づくな。囲め。あの力、そう長くは保たん」
罪人たちに、魔王が冷静に命じる。
「……穴に戻るんだ」
俺には、俺の体に起きた現象がわからなかった。
俺に触れた罪人たちの体が崩れた。
確かに、こんな力が続くはずがない。
かといって、5人いる少女たち全員を抱えて逃げられるはずがない。
俺が言うと、少女たちは慌てて穴に飛び込んだ。
罪人たちが追おうとしたが、俺が阻んだ。
俺に触れられるだけで体が崩れるとなれば、罪人たちも近づくことはできない。
俺は、4人の少女たちが洞窟に逃げ込んだのを確認して、サリカを抱えたまま自分も洞窟に潜り込んだ。
※
熊の冬眠用と思われる洞穴に飛び込み、俺はあえて入り口を崩した。
出入り口が崩落する。
何事か唱えながら、少女レインが杖に光を灯した。
洞穴は狭い。
外から、穴を掘り返そうとしている罪人たちの声が聞こえていた。
「こんなところに逃げ込んでどうするの? 引き摺り出されて、一人ずつ殺されるのがおちだよ」
弓使いの少女が、泣き続けている幼女を抱きながら言った。
「キャリー、聖者様を責めないで。こうしなければ、今頃はもう全員死んでいたんだ」
俺が座らせた、剣使いの少女サリカが嗜めた。
「俺は聖者じゃない」
「聖者じゃなくてもいいけど、これからどうする? やつら、すぐに穴を開けるよ」
槍を使っていた少女が、土の上で胡座をかいた。
少女たちの着衣は短い。麻の布を適当に縫い合わせたような簡単な服を着ている。
胡坐をかいたことで、槍の少女の長い足が、剥き出しで俺の視界に飛び込んできた。
レインが灯した光が、ぼんやりと光って雰囲気を盛り上げているように感じた。
俺は、息を呑んだ。
欲情しているとは知られたくない。俺自身、欲情しているかどうかはわからない。
長い間、生まれ変わっては死ぬことを繰り返していたのだ。
突然人間のような姿になったところで、どうしたいとも思わなかった。
ただ、長い足はそれだけで魅力的だ。
「穴を掘ろう。下に向かえば、連中は追ってこない」
俺が言ったことは、確信があるわけではなかった。ただ、そう感じたのだ。
「どうして、そう言えるんだい?」
弓の少女の疑問に、俺は頷いた。
「いままで、地上にあんな奴らはいなかっただろう」
「それはまあ、そうだね」
「奴らが空から降ってくるはがずない。地下から出てきたんだ。ならば、地下に戻りたいと思わないはずだ。地下に潜れば、生き延びられる」
「……よくわからないけど、他に手はないようだ。でも、どうやって掘る? この狭さじゃ、武器は使えないし、そもそも剣や弓では穴は掘れないだろう」
俺が視線を向けると、明かりを灯していた杖を持つ少女が首を振る。
「土属性は得意じゃありません。魔法で穴を掘るには、魔力が足りません」
「わかった。なら、俺が掘る。君たちは、連中が入ってこないように、出口を固めてくれ」
「掘るって、どうやって?」
「リマ、突っかかってばかりいないで、この人を信じな」
サリカが険しい顔で言うと、リマと呼ばれた槍使いの少女は肩をすくめた。
この少女だけ、得物すら無くしている。
俺は、サリカを地面に降ろして、少女たちがいる場所の、一番凹んだ場所を探した。
少女たちは、俺が言った通りに土の壁を固め始めたようだ。
俺は、宣言した通りに土を掘り始めた。できると知っていたわけではない。
だが、できそうな気がした。
聖者がくれた力が、まだ残っているような気がしていた。
手に意識を集中させる。
手が、スコップやカニの鋏のようだったら、簡単に掘れただろう。
かつては、そうした姿だったこともある。
現在の俺の手は、弱々しい指が5本並んでいるだけだ。
力が欲しい。
俺は、両手で凹んだ地面を掴んだ。
力が溢れるようだ。
だが、手で掘っていてはきりがない。
外から、罪人たちの声が聞こえる。少女たちは怯えた声を漏らしていた。
力が欲しい。少女たちを、守るための力が。
俺が心の底から思ったとき、両手で掴んでいた地面が、突如崩れた。
俺自身も穴に落ちる。
穴の中は暗く、何も見えなかったが、地面は柔らかかった。
足がしずみ、尻をついた。
「おーい。穴がある。飛び降りろ!」
「えっ? 聖者様? どこ?」
「サリカ、穴よ」
「本当だ。トット、捕まって。みんな、先に行くよ。聖者様の推測通りなら、塞がなくても追ってこない」
「はいよ」
少女たちの返事が聞こえ、俺の上にどっしりとした肉体が落ちてきた。
かろうじて、潰されることなく受け止める。
俺の腕の中に、サリカとサリカが抱いた小さな少女がいた。
ずっと泣いていた幼い少女が、トットなのだろう。
「行くよー」
「ちょっと、待って」
サリカが俺を突き飛ばす。
サリカが誰かの下敷きになった。
俺は、真っ暗な穴の中で再び尻餅をついた。
壁はない。
突如空いた落ちくぼんだ穴は、どうやら長い横穴に繋がっているようだった。