70 聖者、消える
私の体を覆う不可視の力に阻まれ、魔王が弾き飛ばされる。
私は手のひらに光を集め、魔王に向けようとした。
手を掲げたところで、全身を巨大な手で包まれた。
地獄の獄卒だ。
本当に魔王に下ったのだ。
私は振り上げた手を下ろすことができず、体が下降するのに気づいた。
地獄に引きずりこまれる。
地獄に落とされでも、自在に空中を移動する術を身につけた私だけなら、すぐに脱出することができるだろう。
だが、私は思い出していた。
地獄からの出口は、一箇所ではない。
各大陸に出入り口ができてしまっていた。
私とマルレイは、生涯をかけて地獄と地上をつなぐ場所を探りあて、封印したのだ。
魔王がそれに気付けば、地獄から全大陸にいる人間を喰らい尽くそうとするはずだ。
私は、魔力を振り絞った。
頭上に掲げたままの手の先に魔力を結集し、私に与えられたすべての魔力をかき集め、放った。
その結果、私の頭上に月ほどの質量の岩の塊が生じ、世界中に散っていった。
私とマルレイが封印し続けた各大陸の地獄への入り口を、埋め尽くす質量を生み出し、放ったはずだ。
2度と、仮に同じように宇宙から隕石が落ちてきたとしても、各大陸の入り口は開かない。
それほどの質量を、全世界の地獄との接点にばら撒いた。
力を使い果たした私は、何もできず、獄卒によって地獄に連れ去られることになった。
自分の体を守る魔力も残っていなかった。
意識を失えば、ただ握りつぶされる。
それをわかっていて、私は、対抗することができなかった。
~ある地獄の魔物~
俺の目の前で、地獄にいた巨大な獄卒が戻っていく。
理由は明白だ。魔王に命じられたからだ。
魔王は、その生まれた当初は、俺たちと変わらない非力で貧弱な存在だったらしい。
何度も死に戻るうちに、その姿はより醜く、力が増していったという噂だ。
罪を償うための地獄で、より罪を重ねればそうなるのだろう。
俺は、とてもそこまでは至らなかった。
地獄に来た。地獄に来たことを、後悔し、反省し、苦しみを受け入れた。
徐々に、姿も人間に近づいてきたように感じる。
だが、魔王は真逆だったのだ。
俺の目の前で、魔王は輝く光をまとう老人によって弾き飛ばされた。
その老人も、地獄の獄卒につかまれ、地獄に落ちていく。
老人の瞳が、俺を見たような気がした。
それは一瞬だった。
ただ、澄んだ透き通る瞳に吸い込まれそうな気分になり、俺は手を伸ばしていた。
老人が目の前にいた。
遠くに空いた穴に、飲み込まれるはずだった。
それが、地獄の獄卒に掴まれたまま俺と目が合った瞬間に、あれの目の前にいた。
地獄に引き摺り込まれながら、俺がつい伸ばした手を掴んでいた。
老人が笑ったような気がした。
地獄に引き摺り込まれるというのに、笑うことができることが不自然だ。
老人は笑ったのだ。
さらに口元が動いた。
「あなたに、祝福を」
言葉を発する余裕があったとは思えない。
それなのに、俺にははっきりと聞き取れた。
老人が手を離す。地獄に落ちていく。
獄卒が捕まえるべきは、その人じゃない。
俺は叫ぼうとした。
だが、俺の背後に人影が立った。
人影とは言えないかもしれない。
不穏な空気に振り向くと、老人によって弾き飛ばされた、魔王がいた。
「はーはっはっはっはっはっ! 聖者が地獄に、地獄に堕ちやがった! 俺はここだ! 地上だ! 勝った! 今度こそ、俺は勝った! お前たち、俺に続け!」
魔王は高らかに声を張り上げる。
蟹のようなごつごつとした骨格に、腕ではなく触手を持ち、顔が体に張り付いた、醜い姿だった。
振り上げた触手に、地獄から這い上ってきた地獄の罪人たちが答える。
俺は知っていた。
このうちの半数は、魔王と同じく死に戻るたびに醜く、強力になっていった者たちだ。
俺は、呼応して声を上げようとした。
だが、その様があまりにも不気味で、俺は声を上げることができなかった。
あまりの恐ろしさにに、立つこともできなかった。
魔王が背を向け、クレーター状の岩場から外に向かって歩き出す。
その先に何があるのか、俺にはわからなかった。
地獄から這い上がってきた罪人たちは、10人程度だろう。
そのうちの半数は、苦しい地獄をただ逃れたかった、俺のような弱い存在だ。
だが、俺と同じはずの者たちの背中にすら、俺は身震いを覚えた。
俺も、同じような姿をしているはずなのだ。
俺は立ち上がった。
まだ、地獄から次々と登ってくるだろうが、老人の仕業と思われる衝撃で、地上に戻る道が崩れてしまった。
後続が登ってくるまで、しばらくかかるだろう。
俺は、魔王と配下の罪人たちの姿に怯えながら、少し距離を空けてついていった。
俺自身も、魔王の仲間だと思っていたからだ。
岩場を越えると、深い森が広がっていた。
森の中を進む。
しばらく歩き続け、魔王が停止を命じた。
森の木々が切れる、開けた場所だった。
「本当に、久しぶりだ。美味そうな獲物だ」
魔王の声が、離れた俺にまで聞こえた。
周囲で笑う。魔王の配下全員が笑った。
笑わなかったのは俺だけだ。
俺は、魔王が美味そうだと言ったものに気づいた。
森の中で、火を焚いてキャンプをする少女たちがいたのだ。
時刻は夜だ。少女たちは、焚き火を囲んで車座に座っている。
食事をしているらしい。
魔王の合図で、罪人たちが森の中を静かに移動する。
少女たちは5人だろうか。その中には、まだ10歳ほどの幼い少女もいる。
全員をぐるりと囲むまで、罪人たちは移動を続けた。
少女たちを取り巻く、輪の一部が俺だった。
魔王が手を上げる。
罪人たちが止まった。
魔王の手が動こうとするのを察し、俺の中の何かが、高熱を帯びた。
実際に熱くなったのかどうかはわからない。
だが、胸の中が熱く、苦しくなった。
息ができない。
死ぬのだろうか。
俺は感じた。死ぬことには慣れている。
また、地獄に戻るのだろう。
それも悪くない。
地獄には、聖者がいる。獄卒に連れらされただけで、あの聖者が死ぬとは思えない。
突然、胸の中の熱が治まった。
全身から、何かが落ちた。
イガイガとした突起であり、分厚い甲羅であり、毛深い皮膚だった。
徐々に罪を償い、体を構成する醜い部分は減ってきたが、それでも、償い切れてはいなかった。
俺が、自分の罪だと認識して、その象徴だと思っていた体の変異が、地面に落ちた。
聖者は、地獄に連れ去られる瞬間、俺に祝福を与えた。
この世界で、実際に偉大な力を発揮したあの聖者が、言葉だけの祝福をするはずがない。
俺は、聖者に祝福され、罪を赦されたのだ。
魔王の手が、振り下ろされる。
「逃げろ! 魔物に囲まれているぞ!」
俺は叫んでいた。
キャンプを楽しんでいた少女たちが、緊張して武器をとった。
魔王の手が下りる。
森の中から、罪人たちが飛び出した。
少女たちが悲鳴を上げる。
少女の1人は剣を構え、1は槍を持ち、1人は弓を構え、1人は杖をあげ、1人は泣き叫んだ。
この世界には、魔物が実在し、魔法の使い手がいる。
俺はずっと地獄にいて地上の様子は知らなかったが、無防備でキャンプをしていたわけではないということだろう。
罪人たちに怯まず、少女たちは戦い始めた。
だが、地獄から這い出した罪人たちは精鋭だ。
地獄の底から、這い出すだけの力を持った者たちだ。
剣を構えた少女は傷つき、少女の槍は1人を貫いて失われ、少女の弓は矢がつき、杖を振るう少女の魔法は尽きた。
ただ泣き叫んでいた少女が、魔王に掴み上げられた。
「トット!」
幼い少女の泣き声に、剣を振るう少女が振り向く。
振り向いた少女の背に、罪人が牙を立てた。
俺は出遅れた。
少女たちに危機を知らせた後、立ち尽くしていた。
少女たちが死のうとしている。
その理解が、俺の足を動かした。
剣を持った少女が、倒れずに踏みとどまる。
精悍な、美しい目鼻立ちをした少女だった。
その背に、罪人の牙が食い込み、血が迸った。
俺は、噛み付いた罪人を踏みつけた。
硬い甲羅に覆われた罪人の背中を、俺は踏みつけ、踏み潰した。
地面に倒れた罪人は、もはや動かない。
殺した。
俺はすぐに理解した。
殺せる相手ではなかった。
俺の足は、細く、柔らかく、頼りなかった。
まるで、地獄に来る前によく見た、俺自身の足によく似ていた。
「貴様……その力、どうした?」
魔王が、掴み上げた少女を地面に落とした。
俺を睨みつけている。
「力?」
何のことかわからず、俺は問い返した。
魔王だけでなく、森から飛び出した罪人たちが、全て動きを止めていた。
「その、全身を覆う光……聖者を食ったのか?」
俺は、自分の手を見た。自分ではわからない。
光など存在しない。
だが、魔王には見えているのだ。
聖者はきっと、光をまとっていたのだ。
「いや……託された」
「嘘だ! 奴の後継は俺だ! 俺以外に、奴の力を手に入れていいはすがない! 人間ごときが、聖者を食らった! 殺せ!」
もはや、少女たちどころではなかったのだろう。
俺は、突進してきた罪人を殴りつけた。
明らかに、俺よりも大きく、強い罪人が、吹き飛んでいく。
確かに、俺の力とは思えない。
次々に飛び掛かってくる罪人たちを薙ぎ倒し、少女たちが逃げられるように道を作った。
魔王が飛び掛かってくる。
流石に、敵わない。
俺はそう感じ、周囲を見た。すでに少女たちは逃げていた。
俺は、背を向けて逃げた。
魔王は、俺を人間と呼んだ。
俺自身の姿は、俺もわからない。
だが、地獄の罪人たちとは、明らかに姿が変わっているのだろう。
俺は背後を振り返らずに走り続け、足がもつれて転んだ。
「お兄さん、こっち」
呼びかける声は、見たことがある少女だった。
剣を振り回していた精悍な少女が、獣の巣のような洞穴から顔をだしていた。