61話 旅立ちの時
母は、聖者として、王妃として、10年をこの塔の上で過ごしてきた。
私を除いて唯一の魔術師でもあり、私を守って地獄を抜け、塔にこもった。
だがその母にとっても、10年という歳月は長すぎたようだ。あるいは、私のことを守るべき存在だという認識があるうちは、まだよかったのだろう。
私が二本の足で出歩くようになるのとほぼ同時に、私は自立した大人と同じことができるようになり、母よりも強力な魔術を使用できることは、誰の目にも明らかとなった。
私が出歩く代わりに母は自室から出るのを止め、現在はただ、毎日を静かに過ごしている。
私が母の部屋に入ると、母は微笑んだ。
だんだん表情が乏しくなってくるようだ。病気ではないかとも思ったが、現代の精神病ならとにかく、この世界で病気にあげられるようなものには罹患していないようだ。それは、治療術師として訓練を積んでいるファニーの意見でもある。
「母様、戻りました」
「ええ。変わりはないわね。こちらへいらっしゃい」
「はい」
母は10年経っても美しかったが、やはり地獄の環境にさらされれば、人体は早く劣化するらしい。10年の二倍から三倍は時が経過しているのではないかという容色の衰えを見せていた。
私は母の隣に座る。母は、私には触れなかった。どうしてか、触れるのを避けているようでもある。
「今日は魔王と会いました」
「ふふっ……キールでもそんなことを言うのね。この地獄に魔王なんて……本当なの?」
珍しく笑ったかと思った母は、突然真顔になって尋ねた。私は小さく頷いた。
「ええ。本人はそうは名乗りませんでしたが……何人かの魔物を従え、その姿は禍々しく……仮に一人で現れても魔王だと判断するでしょう」
「……いよいよ……かしらね」
母は上を見た。天井を見つめたが、見ようとしたのは平面の石壁ではあるまい。
地獄の高い岩の天井でもない。
その先にある地上を見たのだ。
「いよいよ……ですか」
私は、母がどうして『いよいよ』と言ったのか、その意味を誤解していた。
魔物たちが地上から地獄に戻ってきたのでなければ、新たに魔王が生まれたことになる。そうであれば、魔物を組織的に操り、いずれ私では対処できない状況に陥り、人間たちは蹂躙される。
そうなる前に地上に戻らなければいけない。その意味だと理解していた。
確かに状況は何も好転していない。この10年間、進んだことといえば、私が遠見の魔法を丹念に使用して、地獄の地形を把握したことぐらいだ。
「そうね……いよいよね……」
母はそう言ったまま、黙り込んでしまった。
※
私は毎日、黒い血の池に生まれ落ちる魔物を監視した。
この地獄で、魔物は次々と死ぬ。死んだ魔物が、再び黒い血の池に生まれているのかどうかは、私にはわからない。だがこの地獄が、私が知る地獄と同一であれば、死んだ魔物は地獄で生まれ直すはずだ。
何度も生と死を繰り返し、徐々に地上での罪を償うのだ。そうでなければ、地獄の意味がない。
中には、この地獄でさえ、罪深い生き方をする者がいるのだろう。
地獄でさらに罪を重ね、ますます醜くなり、いずれ魔王となるのだ。
そうでなければ、地獄で魔王が生まれる理由がわからない。
私は塔の屋上から池の監視を続けながら、時間をかけて、地上へ戻るための方法を探し出した。
「陛下、ここにいらっしゃいましたか」
私の騎士、華奢で女らしいところがない、丸メガネのマルレイが屋上に登ってきた。
この地獄で暮らして10年になる。マルレイは二十代後半のはずだが、年老いたとも成長したとも感じない。
もう少し経てば、母のように急激に老け込むのかもしれないが。
「私を探していたとすれば、何か問題ですか? 塔の侵入者ですか? あるいは、食料か水に異変でも?」
「いえ。お姿が見えなかったので心配しただけです。私は陛下の騎士ですので」
「私は、ただ王の血筋に生まれただけの、国のない王子です。陛下と呼ばれるだけでも気恥ずかしいのに、立派な騎士までいると思うと、身の置き所がありませんよ」
「陛下は、立派に国王であらせられます。生まれた時からそうだったのでしょうが……常に民のことを考え、何より民を優先するお方が、仮に王の血筋でなくとも、王でないことがありましょうか」
「この議論はやめましょう。なんだか、毎日しているような気がします」
「そうですね」
「マルレイと議論するのは好きですが……今は先に、相談したいことがありますから」
「私に、陛下が相談されるようなことがありますか?」
「ええ。私の騎士となるまでは、最年少で最高の頭脳を持った軍師であったマルレイに尋ねたいことがあります」
マルレイは静かに頷いた。私の言ったことは決してお世辞ではない。本人にも自覚があるのだろう。
「これを見てください」
私は空気を歪めた。
空中に即席のレンズが出現する。
はるか遠くのものを、はっきりと映し出す光と風の魔術だ。
「……これは……」
「この塔から、最も近い地上への入り口です。地獄の出口だと言っても同じですが……」
「どうやって見つけられたのでしょうか?」
地獄の出口は、突き立った岩の先にあった。つまり、地獄の天井に空いた穴だ。
地面から、岩がまるで槍のように突き出している。岩が湿っているところを見ると、石柱かもしれない。
信じられない年月をかけて地上から滴り落ちた水が、土の成分を地獄の一箇所に落とし、積み上がり、天井近くまで伸びたのだ。
「毎日毎日、こうして調べていただけです。魔物が地上に出た以上、どこからか出る道があるはずだと思うのは当然です。あると信じられれば、探す方法は私にはありましたから」
「……陛下、お見事です。では、あそこから地上に向かうのでしょうか?」
「地獄で10年……生きた人間には、あまりにも過酷な環境でした。可能であれば一刻も早く脱出するべきでしょう。あの石柱まで……目算ですが100キロはあるでしょう。大人の足で丸2日……いえ、体力が落ち、衰えている現在の人々では……5日以上歩き続けなければなりません」
「それは……不可能では?」
やはりマルレイだ。判断は的確だ。
「だからこそ相談したかったのです」
私の言葉に、マルレイはメガネを拭いた。困った時のマルレイの所作だと、私は気づいた。
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100日勇者と100日魔王 ~勇者と魔王に異世界転移した、新婚夫婦の100日間~
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100日連続更新挑戦、継続中です。全話、勇者編と魔王編の2部構成です。よろしくお願いします。




