57話 魔物と塔
俺は、塔の中で人間と出会った。人間は、俺を魔物と呼んだ。
「俺が魔物だとして、あんたは何者だ? ここは地獄だろう? 魔物がいたっていいじゃないか。どうして人間がいる?」
「それを魔物が問うのですか?」
子どもが応える。俺の言葉を理解できるのは、この小さな子どもだけのようだ。俺は人間たちの言葉は理解できるのだが、俺の話す言葉を他の人間たちは理解できないらしい。
俺には違った言葉を発しているという自覚はないが、人間というのはいかにも不便な生き物だ。
いや、俺も人間であることをまだ諦めたつもりはない。見知らぬ子どもから魔物と呼ばれようと、俺は人間だ。
「問うさ。知らないんだからな。当然だろ? どうして地獄に人間がいる?」
「……ふむ。確かに、私たちは魔物がこの世界にどうやって産れ落ちるのかも知りません。地上の魔物と地獄の魔物との間に、関係がないこともあるのでしょう。人間が地獄にいるのは、地上を魔物に征服されて、居場所がなくなって逃げてきたのですよ」
「へぇ……ってことは、地上は魔物だらけだし、地獄から地上に出る方法があるっていうことだな?」
「そうなりますね」
まさかそんなことはあるまいと俺が尋ねたことを、子どもはあっさりと認めた。
考え方が柔軟なのか、常識に囚われないのか、いずにしても将来は大物になりそうな子どもだ。
この小ささで大人を従えて堂々としているというだけでも、ただ者ではなさそうだ。
「で、地上から逃げてきた後、どうするつもりだ? 地獄で暮らすのか?」
「そうできたらいいのですが、残念ながら、地獄の環境は人間には過酷すぎるようです。地上への道を探ろうと思いますが、あなたは知りませんか?」
逆に質問された。俺のことを魔物だと思いこみ、魔物が地獄から地上にあふれたのなら、俺が知っているはずだという結論にもなるのだろう。だが、俺は知らない。
「残念だが、俺は多分、地上が魔物にあふれてからこの地獄に産れたらしいな。腹が減ってこの塔を目指しただけだ。地上に出るとか、考えたこともないよ」
「そうですか。腹が減ってこの塔に。ならば……食べたいのは、人間の肉ですか?」
「そうなるか? まあ、なるんだろうな。美味いのかな?」
俺は気づかなかった。全く変わらない表情で話し続けている子どもの顔つきが、少しだけ変わっていた。俺を警戒しだしている。
魔物と話し続けているだけの神経の持ち主なので、どんな会話でも平気だろう、というのは俺の思い込みだった。
目の前の少年は、とても危険な存在だった。
「私は食べたことはありません。ですが、美味しいのでしょうね」
「ああ。そうかもな」
「食べたことは?」
「いや……これから、かな」
「そうですね。炎よ、この者を食欲の糧として永遠に飲み込め」
子どもが妙なことを口走った瞬間、俺の全身が燃えた。
「なっ? 何が起こった?」
「あなたが燃え尽きるまで、この火は消えません。魔物の側の情報を得られて、とても有意義でした。あなたには感謝します」
俺は、突然思いだした。この子どもに感じた、まるで警戒をさせないでいて、何を考えているのかわからない雰囲気を、俺は知っていた。
かつてその男は、『あなたには感謝します』と俺の手を握り、俺は意気揚々と席を立ち、気が付くと、宗教界で最大のゴミ扱いされるようになっていた。
すべて前世でのことだ。
聖人と呼ばれた男がいた。
その男は俺と親しく接し、害虫として切り捨てた男だ。
「……お前……まさか……」
もはや、その子どもは俺のことなんか見ていなかった。
「マルレイ、興味深い情報を得ました。地獄のことを知るなら、魔物を捕まえればいいのです」
「また……危険なことをされるのはお控え下さい。人々は、この地獄で生きていくことを受け入れているのですから」
「そうもいきません。地獄で生きる人々の寿命がどんどん短くなっています。このままでは、いずれ人間は滅びます。手遅れにならないうちに、地上に戻らなければいけません。まだ時期ではないのであれば、時期が来たら地上に戻れるように、手段を確認しておく必要があるでしょう」
「承知しました」
二人の会話は、俺のことは無視して進む。
なるほどと俺はほくそ笑んだ。
人間がいる。
地獄の住人は、目の前の3人だけではない。
前世で聖人だったお偉い宗教家は、人間の存続を目指して大挙して地獄に住み着いたっていうわけだ。
なら、食らってやる。
あいつが大事にしている人間たちを、一人残らず食らってやる。
何度でも、殺すがいい。
俺は、何度でも蘇る。
再び黒血の池に戻る。ただそれだけだ。
俺は炎に包まれ、自分の体が焼け焦げる臭いを嗅ぎ、手足がただれ、燃え落ちる感覚に呑まれながら、3人を見た。
この塔は、人間たちが生活するためのものだろう。この塔の他に、人間が生きられそうな場所はない。
いずれ、この塔を征服し、食らってやる。
見ているがいい。
俺は人間を食らう。
人間を食らい、魔物と呼んだ者たちをひれ伏させる。
俺をあがめるがいい。
俺は魔王になる。
そこまで決意した時、景色が暗転した。
俺は再び、びちゃりという音とともに、池の中に落ちた。
黒血の池には、相変わらず気色の悪い連中であふれていた。
気持ちの悪いのも道理だ。黒血の池に産れ落ちる地獄の住民は、人間から見たら『魔物』と呼ばれる存在らしい。
つまり、俺も魔物だ。
その事実には少し凹むが、俺自身にとっては、ただ真っ黒いという以外は前世と変わらない美男子なので、気にすることもない。そもそも、自分の姿を見ること自体できないのだ。気にしていても仕方がない。
黒血の池の中で、少しでも話が通じそうな奴を見つけて、俺は話しかけた。
塔を知っているか。塔の中にいる、人間のことを知っているかと。
塔のことは知っていた。その中に人間がいることを知ると、どいつもよだれを流した。
人間とは、魔物にとってご馳走と同義であるらしい。
獣め。
俺は違う。人間を、ただ食事とは思わない。
ただ、屈辱を与えて這いつくばらせ、産れてきたことを後悔させたいだけなのだ。
食糧としか考えない魔物たちと俺は全く違うのだ。
その後も、数十回という死を経験しながら、再び塔にたどり着いた。
塔を上る途中で何度も死に、実に数百回の死を繰り返した後、もう一度子どもと出くわした。
人間の成長は早い。
俺の一度の生まれ変わりにどの程度の時間がかかっているのかはわからないが、以前に出会った時より、少しだけ大きくなっているのではないかと感じられた。
「ああ、ようやく会えた」
俺のことなんか覚えているはずはない。無数にいる魔物の一人にすぎないのだから。その子どもは、以前より少し大きくなっていたものの、同じような護衛と従者を連れていた。
眼鏡をかけた童顔の女と、まだ少女にすぎない魔術師らしき女の子である。
「殿下のことを知っているのか?」
子どもが俺の言葉を通訳したのがわかった。その瞬間、護衛の女がいぶかし気な視線を向けてきた。
俺は可笑しくなった。ただの子どもではなさそうだと思っていた。この間、ずっと思っていた。
だが、『殿下』とは恐れ入る。
一体、この地獄でどれほどの地位だと言うのだ。
「もちろん知っているさ。有名人だろ?」
俺は軽口を叩いた。それを黙らせたのは、当の子どもだった。
「久しぶりですね。元気にしていましたか?」
会ったのは二度目だ。それは間違いない。
だが、俺はその子に言われた瞬間、前世のことを思いだし、言葉が出なかった。




