50話 塔で出会った魔物
塔の20階では、これまで綺麗だった壁や床は、魔物の体液でどす黒く染まり、魔物の死体が転がっていた。魔物の死骸で塔が埋まらないのは、中央の巨樹が触手を伸ばして栄養として摂りこんでいるらしい。
塔の21階になれば巨樹の枝が届かないため、巨樹としても21階に到達させるのではなく、20階で全滅させたいのだろう。
中には、塔の中を徘徊できないような巨大な魔物もいる。壁を登ろうとして、栄養を吸われて力尽きて落下するのを、見たことがある。
いずれにしても、塔の中央に据えた巨樹には大きな借りができている。
巨樹は安全に栄養を摂れるので、互いに益のあることでもあり、恐縮する必要はないとわかっているが、巨樹の恩恵には常に感謝したいところだ。
巨樹に栄養を吸われている最中の魔物の死骸を避けながら塔の中を見回っていると、17階でまだ元気な魔物に遭遇した。
この塔の中で生きた魔物と遭遇したのは初めてかもしれない。
失敗した、と私は悟った。
いつもの習慣で、マルレイとファアを連れてきてしまった。
魔物と遭遇するまで帰らないつもりだったのだから、危険があるのは当然承知していなければならない。
それなのに、乞われるまま二人を連れてきた。
治療術師のファアに戦う力がないのは当然だが、マルレイも騎士とはいえ身分だけだ。腰に剣を下げてはいるが、剣を振るう姿は想像できない。
魔物は、強そうには見えなかった。
全身が真っ黒である他は、ごく普通の人間に見える。
ただ、硬い甲殻を持つ魔物や大きな口と鋭い牙を持つ魔物たちが大量に横たわる中、ほぼ無傷のように見える魔物が弱いはずがない。
「殿下、お下がりください」
マルレイが前に出ようとした。マルレイは騎士になって5年だが、その前は軍師だった妙齢の女性である。
頭脳労働専門だったはずなのが、事情があって騎士に任じられた。剣を使うのは得手ではないのは、立場が変わっても変わらない。それなのに私を守ろうとしているのは、無理をしているのだ。
「マルレイ、大丈夫です」
「しかし、殿下に万が一のことがあれば、人々は全滅です」
「人々? 人がいるのか? 人間か?」
私とマルレイは、問いかけに対して硬直した。魔物を前にして、とるべき態度ではなかった。
それだけ驚いたのだ。
私たちに語り掛けたのは、真っ黒い全身をした魔物だった。姿は人に似ているが、目や口腔まで黒い生物がいるはずがない。
赤い血は流れていない。
その魔物が、私たちの言葉を発したのだ。
私も、魔術を使えば『念話』を使える。魔物たちにも、言葉があるのは知っている。
しかも、ただ話したのではない。
まるで、人間に親しみを感じているような物言いだった。
魔物の言葉とは、とても思えなかった。
私は、自分の耳と目を疑った。
マルレイは、私の前に出たまま、体を震わせていた。
「……君は……魔物かい?」
私は尋ねていた。マルレイが驚いたように振り返る。魔物に対して、魔物かと尋ねることが異常なのだろう。だが、異常なのは目の前の魔物なのだ。
その正体は、知らなければならない。
「俺も人間のつもりなんだがね。人間じゃあ、ないんだろうさ。ここは地獄なんだろ? どうして、人間様がいる?」
私は、真っ黒い姿をした、ただし、黒い以外は人間の容貌をしている魔物の物言いに、違和感を覚えた。
魔物は『地獄』と言った。私や周囲の人々は、単に地名として『地獄』と呼んでいる。だが、私はそのもう一つの意味を知っている。この世界の人々は知らない意味だ。
『地獄』とは、魂が生前の罪に応じて罰を受ける場所をも意味する。
黒い魔物は、明らかに後者の意味を知っている言い方をした。
「地獄で生まれるのは魔物です。私たちは、地獄で生まれたのではない。あなたはどうして、人間を名乗るのです?」
「殿下、魔物と会話するのは危険です。やつらは、私たちをたぶらかすつもりなのです」
マルレイが膝をつき、私に耳打ちした。マルレイが膝をついたのは、私の耳の位置がとても低いからである。私は、いまだに5歳の少年にすぎないのだ。
「さて、俺はどちらと話したらいいのかな? そっちの女の子とも話したいけど、坊やの方が話しやすそうだ」
魔物は、通常魔物にしか通じない言葉を話す。そう思われている。だが、目の前の者の言葉を、明らかにマルレイも理解している。人間と同じ言語を使用しているのだ。
「では……」
「キール様、駄目」
前に進み出ようとした私の袖を、ファアが後ろから引いた。ファアが私を止めるのは珍しい。
マルレイは私より頭が良く、ファアは勘がいい。その二人が、そろって警戒している。私は、私自身より優れた者の判断を尊重することにした。
「残念ですが、魔物と人間は相いれないようですよ」
「そりゃ、狭い了見だな。坊やは、自分が聖人だとでも思っているのかい? こんな場所にいるんだ。魔物も人間も、亡者も悪魔も、なにも変わらないだろうに」
「我が導きに応えるは生命の大樹、かの者は長き腕によりいとわしの子を抱きしめん」
私は詠唱した。魔力を言葉で表す。私の言葉は、塔の中央に依然として反り立つ巨大な黒い樹を呼び寄せた。
塔の中央から枝が伸び、魔物に襲い掛かる。
「おっと、またこいつかい。坊ちゃん、これの飼い主かい? ということは、坊ちゃんが地獄の番人、閻魔様ってわけか」
真っ黒い魔物は、伸びてきた枝を交わしながら、私に近づいてきた。
「マルレイ」
「はい」
私の騎士が剣を投げる。近づいてうっかり枝に触れれば、人間でも関係なく囚われてしまう。
魔物はマルレイの剣を避けた。
軽やかでもない。
枝の性質も、養分を吸い取ることも、知っているようだった。
だが、マルレイの投げた剣に気を取られ、バランスを崩し、枝に囚われた。
地面にべたりと倒れ、全身に巻きつかれ、身動きが取れなくなる。
しかし……。
「『閻魔様』」
真っ黒い魔物は、もはや動かなくなっていた。口を利く元気もないようだ。だがその直前に私に向かって言った言葉に、私は動揺して繰り返していた。
「キール殿下、どうしました? 『閻魔様』とは、何のことですか?」
前世の世界で、地獄世界の番人として知られた存在の名前だ。マルレイが知るはずもない。この世界の者であれば、知るはずの無い名前だろう。
「……いえ。知りません」
「そうですか」
マルレイは追及しなかった。だが、賢い女性だ。私が動揺したことは見透かされているだろう。
「こいつ、『またこいつか』って言ったね。どこで知ったのかな? 前に会ったことがあるのに、これまで生きていたのは変だよね」
ファアが言った。確かに、黒い大樹に出会った魔物が、その性質を知った途端に死が待っているのだ。どこで出会ったのだろう。どうして、死なずにすんだのだろう。
大樹に捕まっても逃げる術があるのなら、塔を管理している私にとっても脅威になる。
だが、それを聴ける相手はいない。すでに大樹の栄養となりつつあるのだ。
仕方ない。また、似たような話をする魔物がいたら、今度は少しだけ話をしてみようか。
私はそう思いながら、この日は見回りを切り上げることにした。




