45話 塔に挑む者たち
母に請われて、塔の最上階の一室だけ、王宮と変わらない部屋になった。
母が快適に暮らすために、風呂と便所とベッドとテーブルと椅子と食器を作りだすことになった。
地上の城塞の中より、たぶん王宮に近い。地上では、岩で作られた部屋で間取りそのものは動かせなかったが、この塔は私が一から作りだしたものだ。間取りまですべて私の意思で変えられる。
まだ人間が増えることを想定し、母が使う周囲の部屋には、空き部屋がある。隣室までつなげることも、私が魔法を使うだけで簡単にできる。私にとって簡単だというだけで、他の誰かにできることではないが。
早く生き残りの人間を探しに行きたいという私の主張は聞き入れられず、ついに母は、風呂に入ってひと眠りしてから、と主張し始めた。
私はマルレイに助けを求めたが、マルレイは母に従った。ファアも裏切った。
三人は声を揃えて、赤ん坊に無理はさせられないと主張した。
卑怯だ。私の体を心配されて、従わないわけにはいかないではないか。
仕方なく、私は風呂を沸かした。
風呂桶は作ってあったので、水を張り、温める。地獄は全体に温度が高いため、少しぬるい方が気持いいだろう。
結局、全員で風呂に入った。
母の命令で、マルレイもファアも私と共に入った。
女性3人に囲まれたことになるが、私は赤ん坊であり、一人は母で一人はまだ5つなのだ。それほど背徳に感じる必要はないはずだと、私は懸命に自分に言い聞かせた。
前世のできごとなら、私は興奮して心臓が止まったかもしれない。
誤解のないように言えば、私が100歳で死んだのは老衰である。興奮による心臓発作ではない。
ただ、マルレイだけが、私から体を隠すように母の影に隠れていた。母は大人の女性として見事なプロポーションをしているが、母に隠れたマルレイはすっきりとした体をしている。だからと言って、赤ん坊の私の視線を意識するというのはどうなのだろう。
いや、見たいわけではない。見たくないとは言わないが。
私も目のやり場に困った。私が困っているのを見て、母がとても楽しそうにしていたので、まあいいだろう。
風呂から上がり、私にお乳を飲ませると、母は眠ってしまった。
ベッドに横になった母に、植物の繊維で編んだ麻のシーツをかけ、私は床に降りた。
「やはり、出かけるのですね」
湯冷ましに出ると言って、ファアを連れて外に出ていたマルレイに拘束された。私を抱き上げ、母が横になるベッドに腰かける。
「師匠、だめだよぉ」
ファアは治療術師としてはすでに一流かもしれないが、言葉遣いに幼さが残る。
『ナニーたちを階段のところに置き去りにしてきました。それに、まだ生き残りの人間がいるはずです』
「お気持ちは解ります。ですが殿下、ご自分を酷使しすぎなのではありませんか? この塔を作ったのも、殿下なのでしょう? いまは大人しくしている塔の中の巨木も、殿下に向けて枝を伸ばした途端に、力強く大きくなったのを見ています。あれも、殿下のお力なのでしょう。いくら殿下でも、無限に力が使えるわけではないでしょう。少なくとも、今日だけはお休みください」
「そうだよ、師匠」
ファアは私の念話を送っていないが、どういうわけか会話を理解する。マルレイや母の反応だけですべての会話を推測しているとしたら、とても頭のいい少女だということになるが、治療術師としての力が関与していると考えた方が自然だ。
『しかし、明日になれば、母はこの塔から出ることも忌避するでしょう。母が起きている時は、私は母に心配をかけたくないのです』
「その時は、私たちもお力添えします。どうか、今日だけはお休みください」
「そうだよ、師匠」
ひょっとして、ファアは内容を理解していなくとも、返事だけは的確にする能力でもあるかもしれないと思ったが、この時は大切なことでもないので何も言わずにおいた。
私は少し考えた。私の100年と少しの経験からいって、女性に反対される計画は、取りやめにした方が正解である確率が高い。
私は、素直にベッドに戻り、寝ることにした。
マルレイは安心して胸をなで下ろした。
「……よかった。私も、安心して寝られます」
「寝られます」
マルレイとファアが部屋を出ようとした。私は止めた。
『どこに行くのです? この部屋は、4人で使うために広めに作ったのです。これから人が増える予定なのだから、無駄に使うのは良くないでしょう』
「……では、殿下とご一緒に?」
『私のことを、近くで見張ったほうがいいでしょう?』
「……はい」
なぜか恥ずかしそうにうつむくマルレイだが、色々考えたあげく、私と一緒にベッドに入る。母を挟むように、マルレイとファアがベッドに横になり、私がその間に潜り込んだ。
私はひょっとして、マルレイに避けられているのではないかと思ったが、城塞では数日を二人だけで暮らしているのだ。
それに、マルレイに嫌われようと、私にはマルレイの力が必要なのだ。
明日からも気にせず頼ることにして、私は意思がある限り、つまり眠りに落ちるまでの間、周囲の情報をさぐった。
近くに、人間らしい生物の感覚はない。
遠くを見る魔法は、望遠鏡を使っているのと大きく変わらないため、遮蔽物がある場所では使えない。視覚で確認できないため、私はただ感覚を広げていくよう意識をしながら、あたりを探る。
残念ながら人間はいない。代わりに、塔を破壊できるような大型の魔物も近くにはいないようだ。
私が沈めた巨人とアリジゴクは、まだ地面から出られていないようだ。まあ、いつかは出るだろうし、死にはしないだろう。
私は感覚を広げる過程で、地獄にある赤い沼地の存在に気が付いた。
火と土の精霊の力が圧倒的なこの地獄で、湿地である沼があるのが驚きだった。
その沼は、たぶん赤い。
私は沼の性分が人間の血液に酷似していることに気が付いた。
その中で、何かが動いている。
大きな生き物ではない。
小さく、弱い生き物に感じる。
ひょっとして、助けを求める人間だろうか。
私はマルレイとの約束を破ることにした。
いますぐに行かなくては、助けられないかもしれないのだ。
私はベッドを抜け出した。
自分の体を軽くする。
微風で、私の体を運ぶことができた。
屋上にあがると、いるのは私だけだった。
たぶん、他の人間たちは塔の中で休んでいるだろう。
屋上からの景色をあらためて見ると、火山と煤に彩られた、まさに地獄の風景だった。
遠くに見える赤い川は、おそらく溶岩だ。遠くで空を舞う影は、近づけば塔より大きいかもしれない。
私は遠視を使い、赤い沼地を探した。
注意深く視点を変え、私はその沼地を見つけた。
沼地の上に、柳のような力ない植物が枝を伸ばしている。
塔の中にいる巨木と異なるが、似ているものを感じた。
もっとも違うのは、生きるために養分を吸い取るだけでなく、多くの実をつけていることだ。
細い枝に、あまりにも多くの実が生っている。
まるで、自分の養分を分け与えているかのように大量の実をつけ、次々に沼地に落下させていた。
私は、早送りで遠くの現象を見ているわけではない。私が見ている短時間のうちに、細い木に大量の実が生り、落ちているのだ。
沼の中に落ちた実は、自ら皮を破り、血のような沼の中で立ち上がった。
しばらく、沼の赤い水をすすり、体を肥大させ、それぞれが違う個体に成長する。
なるほど、あの木が、魔物たちを生んでいたというわけなのだ。では、人間の血に酷似した沼の成分は、どこから来ているのだろうか。
私は遠視で沼の上を見た。
地獄の天井だ。数千メートルは高さがあるだろう。かなり遠いが、まさに沼のすぐ上で、地獄の天井が真っ赤に染まっている。どうやら、そこから降り注いでくるようだ。
ひょっとしたら、沼地の水は、地上で人間が流した血かもしれない。地面に吸い込まれ、最終的にあの場所にたまり、沼地に落ちているのかもしれない。
すべては推測だ。
だが、確かなことがある。
沼地で生まれたのは、地上を蹂躙しようとしていた魔物たちであり、魔物たちは、この塔を目指して移動していたのだ。




