42話 地獄の大樹
真っ黒い幹と枝を持つ地獄の植物に、人間が生っている。
そのように見えたが、服を着たままの人間が木に実るというのもおかしな話だ。そもそも、人間は木からは産れない。
木に生っているように見えるのは、地獄の植物に囚われた地上の人間だ。この大樹も、魔物なのかもしれない。
木に囚われた人々が、まだ生きているように私には感じられる。ぴくぴくと痙攣し、口からは泡を吐いている。
「キール、助けられる?」
民衆の先頭に立っていた母が私に尋ねた。母にとっても、初めて見る現象だろう。私にも解らない。
『木に生かされているのなら、もはや助ける手段はないでしょう。ただ、木から養分を奪われている最中なのでしたら、助かるかもしれません』
「いずれにしても、私たちまであの気持ち悪い木の栄養になることはないってことよね」
『そのようです』
母は杖を振り上げた。地獄に来てから、ずっと握ったままだ。
「火よ! 古代の文明を焼き尽くした古の神よ! 我が呼びかけに答えよ。炎の魔人となりて我が行く手を阻む愚かしき化け物を焼き払え!」
この地は火と土の力が強く、相手は植物である。母が火に呼びかけて魔術を使用したのは当然だ。
母が生み出した炎は巨大に膨れ上がり、人の形を成した。
まるで自らが意思を持つかのように人型となり、黒い大樹に向かう。
母が杖を振ると、囚われたままの人々をかわし、炎が大樹に抱き付く。
その過程で、私は母の魔力では足りないと感じた。おそらく、ダメージを与えることもできないだろう。
炎の魔人が大樹に近づき、赤い炎で照らされ、照らされたから、はっきりとわかる。
人間を捉えている黒い木は、あまりにも巨大だ。
地上で人間の最後の砦となった城壁と同じぐらいの高さがあるだろう。人間の形をした巨人すら、この大樹にかかればただの栄養と化すに違いない。
母は十分に強い。だが、ここは地獄だ。母の力では足りないようだ。
炎の魔人が大樹の根元に達する瞬間、私は語り掛けた。誰にも聞こえてはいないだろう。語り掛けた相手は、世界の理であり、この地獄に満ちる炎の力だ。
大樹にぶつかった瞬間、私に呼びかけられた炎の力が、幼い魔人に力を貸した。
天を覆うような大木が、世界を覆うような火に呑まれる。
囚われた人々は、いずれも枝の先端にぶら下がっている。炎は幹で燃えあがった。すぐには、火が人間に達することはない。
黒い大樹は火に覆われた。だが、まだ足りない。火力が足りないのだ。
『母上、皆に、木に囚われた人々を助けるように指示をお願いします』
「キールは?」
『魔物を倒します』
私は火と風に語り掛け、大樹を包む炎の火力を増した。
まだだ。まだ足りない。
私が集中している間に、母は大樹に囚われた人間を救出するよう、人々に呼びかけた。生き残った人間たちが再び死地に向かう足取りは重かったが、それが私の命令だと知っているマルレイが先導した。
炎で焼かれた枝が落ち、囚われて吊られた人間たちがゆっくりと落ちてくる。受け止められる人間もいるが、そのまま地面に叩きつけられる者もいる。
『ファア、頼みます』
「うん。師匠、わかった」
少女がマルレイに寄り添いながら、手を光らせるのがわかった。
私は集中し続けた。
さらに火力を上げる。
枝は焼き落ちた。
だが、本体には届かない。
私は、この大樹の本体が木の幹の奥におり、まだ炎が届いていないことを知っていた。
『来ます』
「何が?」
大樹が動いた。全身を炎で包まれながら、地面に張った根を自らの意思で引き抜き、無数の足と成して歩き始めた。
「キール殿下、あれは植物なのでしょうか?」
私にもわからない。炎を苦にしないというほど、頑強ではない。囚われた人々は解放さたれた。だが、本体を死滅させるには足りない。
私は今回も、大地に呼びかけた。
地面を硬化し、地面に残っている大樹の動きを止めようとした。
だが、木の歩みは止まらなかった。炎に包まれ、地面に残ったままの部分を切断しながら、近づいてくる。
『どうやら、私の力では倒せないようです』
「……キール、どうするの?」
私は大樹を覆う炎を消した。
『やはり、地獄の魔物とは、恐ろしいものですね』
火が消えたことにより、漆黒の大樹はめきめきと枝を伸ばし始めた。人間から奪った栄養が残っていたのかもしれない。
私が硬化させた地面に、ひびが走る。
根が地面を割ったのだ。
私は植物に語り掛けた。
直接触れていなくても、意思は通じた。
一本の枝が、私に向かってまっすぐに伸びてくる。
「キール!」
私を隠そうとした母の動きを止めた。マルレイも、ファアも、動けなくした。簡単なことだ。人間の体を癒すのに、体内の細胞を活性化させる。その力をわずかにずらせば、意識と筋肉の伝達のわずかなずれが、体の自由を奪う。
「……殿下……」
動けないはずのマルレイが絞り出した声に、私は振り向いた。
「だぶぅ」
心配するなという私の呼びかけに、マルレイの目に安堵の光が宿る。
同時に、大樹から伸びた真っ黒い枝が、私に達する。
私は手を伸ばし、動けない母の腕の中から、突き出てきた黒い枝を握った。
枝の先には棘があり、この世界に生まれ出て半年しかたっていない、柔らかい私の掌を突き刺した。
突き刺さった棘の先端から、私の手の中に血管のような細い触手が入ってくる。毛細根だ。獲物を捕らえ、速やかに吸収する。この地獄で植物が生きるために身に着けた力なのだろう。
私の体力で栄養を吸われれば、あっという間に死んでしまうだろう。
だが、私は与えることにした。魔力を植物の栄養に変換することは、何度もやってきたことだ。
手の中に入りこんだ生物の毛細根を伝い、私の魔力を流し込む。
『聞こえますか?』
私が問いかけた相手は、私の目の前にいる存在である。炎により枝は私に向かって伸ばしている一本以外は全て焼かれ、不格好な柱のようになった哀れな立ち木である。
『……もっと……もっと栄養を……』
植物に語りかけたことは初めてではない。ただし、私の経験上、返ってくるのは明確な意思ではなく、漠然とした感情でしかなかった。だが、地獄の大樹から帰ってきた答えは、ほぼ感情であるとはいえ、明確に意思の形を持っている。
『どこまで大きくなれば、気が済むのです?』
だから、私も会話が可能なのではないかと思った。もちろん、語り掛ける力と読み取る力は別物である。相手が返信する力を持っていなければ、私にも理解できないだろう。
自ら私に語り掛けてきた念話の使い手には、私は会ったことはない。
知恵が高度に発達するほど、念話を使う能力が衰えているのではないかというのが、私の経験上の見解である。
『……誰だ?』
私の判断は正しかったようだ。大樹は、明瞭な意思として私に返してきた。
『あなたに、栄養をあげている者です』
私は、大樹との会話を始めた。




