36話 血塗られた道
母に抱かれて私は城塞の内側に入った。
兵士詰め所となっているはずの場所だ。
魔物は、まだ入ってきていない。私と母は、その入口にいた。
目の前に、血の海が広がっていた。
暗かった。
ただ、一面が濡れ、満ちた血の臭いで状況を悟った。
私が光る。
やはり、血の海だった。
「……こんな……酷い……」
母が動揺した。
背後から、魔物が迫る。
私は世界の理に語り掛け、大地に呼びかけた。
兵士詰め所と広場をつなぐ唯一の出入口が、下からせり上がった壁でふさがれる。
この城塞は、一つの岩盤をくりぬいたかのように頑強である。これで、巨大な魔物が壁ごと破壊しない限り、中には入ってこられない。
それだけの力を持つ巨大な魔物であれば、石の巨人の標的に、真っ先になるはずだ。
母が、口を押えてうずくまった。
吐き気を堪えているのだ。
一面の血の海の中には、押しつぶされた民衆が沈んでいた。
体の弱い女、子供、年寄りが倒れ、潰れ、血を流していた。
生きているとは思えない。
私は生存者を探した。
部屋の片隅に、かすかな反応があった。
生命を検知する魔法を、私は使える。
母がうずくまり、胃の中には何もないのか、ただ口を抑えてうずくまっている間に、私は服が真っ赤に染まることも気にせず、生命の反応があった場所を目指した。
マルレイとファアがいた。
私が地下の深くに残し、幼い治療術師を託した、私の唯一の騎士でまだ少女としか見えない女性と、その幼い治療術師が気絶していた。
私が魔法を用いて、マルレイの意識を回復させる。ファアは、寝かせておいたほうがいいだろう。
「……キール殿下?」
「ばぶう」
「よかった。ご無事だったのですね」
聡明なマルレイは、意識を取り戻すとすぐに状況を理解した。広場へ出る唯一の出口が岩の壁でふさがれていることも、その外で魔物が騒いでいることも理解した。
「マルレイ、一体これは何? どうしてこんなことになったの?」
母がマルレイに気づいて近づいてきた。血に汚れた私を抱き上げた。母の衣にも血が着くが、もはや気にもならないようだ。
「申し訳ありません。私の力不足です」
「弁解はいいわ。説明して」
「はい。私はキール殿下の言いつけどおり、ファアを保護して隠れていました。その後、人々を誘導するようなご命令が聞こえたので、この部屋まで戻って、殿下が意図した奥の場所への道を人々に伝えていました。その後……何が起きたのかわかりません。人々が奥へ行き、狭い通路に苛立ち、圧死する人たちが出始めました。抵抗し、圧死ではなく殺された者もいます。それが、この有様です。私は……キール殿下の無事を確かめる前に逃げるつもりはありませんでした。だから、助かったのです。私以外の無事な人々は、もう城塞の奥に逃げています」
父王を殺したブリュッス男爵は言った。
『偽善こそが最悪の罪』だと。人間の存在そのものが、『偽善』であると言われれば、私には反論できない。
自らが助かるために、他者を犠牲にすることが、人間だけだとは言わない。
極限の状況だ。
私は迷わなかった。人間の本質が醜かろうと、それが罪だと言われようと、助けられる命を見過ごしにするつもりはない。
『母上、マルレイ、我々も急ぎましょう。たとえこの先の道が血塗られていようとも、一人でも多くの人を逃がすのです』
私は、母とマルレイの両者に語り掛けた。現在生きているすべての人に語り掛けたばかりである。もはや、隠している意味はない。
「キール殿下は、お強いのですね」
「もちろん。もう少し可愛げがあってもいいのにね」
母が少しだけ笑った。その時、広場と兵士詰め所を隔てる壁が崩れた。
魔物が居並んでいた。その向こうに、転倒した巨大な手足が動いているのが見える。
あまりにも大量の魔物を殺した石の巨人が、そのために足元が滑って転んだのだろう。
母が杖を取り出す。
私は再び岩の壁を作り出す。ただし、壁が全面的に崩れたため、その範囲は長大に及び、魔法が働くまでに時間がかかった。
わずかな時間だと思っていたが、10体近い魔物が迫った。
「風よ!」
母の魔術は素早く、強い。だが、魔術師が単独で魔物と対峙するのは分が悪い。すでに母の前には魔物が迫り、母が生み出した風の塊は命令を待っていた。
「ばぶう」
言葉にはならなかったが、私は風に呼びかけた。兵士詰め所の中を、魔物が洗濯機に放り込まれたかのように回転する。母が生み出した風を利用したので、半分は母の力だ。
「王妃様、参りましょう」
「わかったわ」
自身はファアを抱えたまま、マルレイは母の手をとった。母の手を取ったのは、母が移動すれば、腕に抱いている私も一緒についてくるからである。
兵士詰め所から、城塞の奥に向かう。
その道は、血塗られていた。
惨たらしい死体が壁や床に点々と残された通路で、私は光を抑えた。
100年を生きた私でさえ、見るに堪えなかった。
だが、母もマルレイも強かった。
母は私を抱き、マルレイはファアを抱き、血塗られた通路がただの絨毯であるかのように、迷うことなく進んでいった。
『……私のせいでしょうか?』
あまりに決然とした母とマルレイの態度に、私は少しばかり弱気になった。
「そうね。キールがもっと、早くみんなを逃がしていれば、こんなに酷いことにはならなかったのかもしれないわね」
「はい。キール殿下であれば、もっとうまくできたはずです」
なぜか、この時ばかりは二人して私を責める。私は、私自身の無能さゆえに、大勢の人々を死なせてしまったのだ。
「キール師匠が可哀想だよ」
ファアだけが優しかった。
「いいのよ、ファア。キールはもう、十分な力を身に着けているのだから、優しくされてはいけないの」
「ええ。ここから先は、優しさは仇となります」
『……二人は、私に何を望んでいるのですか?』
「生き延びなさい」
「そうです。キール殿下だけでも」
母もマルレイも容赦がなかった。人間の最後の一人となっても、私だけは生き延びろというのだろうか。
『……そうしなければ、いけませんか?』
私は恐ろしかった。人間という種族の、最後の一人になるかもしれない。それだけの覚悟は、私にはない。
「その重荷を背負えるのは、キール殿下だけでしょうから」
マルレイは、私に期待しすぎている。
私は言葉を返せなかった。
弱さを見せてはいけないのだと思い知った。
私は、弱くあることを許される立場では、すでにないのだ。
兵士詰め所から城塞の奥に進み、私は生きた人間がいないことを確認して、大地に語り掛けた。
大地は私の呼びかけに応じ、私たちが進んできた細い道を、完全に閉ざした。
もはや追ってはこられないはずだ。
ただ、その場に倒れていた人々の死体は、永遠に岩の中に閉ざされる。
弔うこともできない。
死者の霊を慰め、手厚く葬ることが不可能にする選択を、かつての私ならとることはできなかった。
母もマルレイも、私の弱点をよく知っている。
私が、その弱点を克服するつもりがないことまで、知られているのだろう。




